息も吐けぬ愛
阿尾鈴悟
息も吐けぬ愛
「……やだ」
茶髪の女性が男の服の袖を掴む。半分開いた玄関のドアから、雨でも降りそうな鈍色の雲が覗いていた。
「と言われても」
体を翻した男は、背と足で扉を半開きのままに押しとどめ、自由なもう一方の手で頭を掻いた。口の片端にだけ力が入り、やや笑っているようにも見て取れる。だが、涙で頬を濡らす女性を見る目は、映画の評論でもするかのように、冷ややかで他人事とでも言いたげなものだった。
「俺ら、別に付き合ってなかったじゃん」
泣きじゃくる女性が、少しの間をおいてから、首を縦に振った。無理に動かしたことは、おそらく、誰が見ても分かってしまう。
「お互いが会いたい時に、突然、呼び出したり呼び出されたりして、会えなかったからって、何か、埋め合わせをするってわけでもない──まあ、こう言ったら何だけど、都合の良い相手だろ?」
再び同様に頷く女。寂しさの舐め合いだとは気付いていた。認めたくは無いが、認める他に無いらしい。
「だから、別れるのも、突然に決まってる」
途端、涙が止めどなく女の顔を流れていく。普段なら整っているだろう顔が、熟れ過ぎた果実のように、柔らかく崩れていった。
「やだ……。何でもするから……。やなとこ、全部、直すから……」
初めから、男が他の女性ともそういう関係を持っていると知っていた。それでも良いと思っていた。けれど、段々と何でもないメールでのやりとりに惹かれ、呼びたい時間が増えるようになり、ついには、一緒にいない時を辛いと感じていた。そこへ訪れた突然の拒絶を、女は当然のように受け入れられなかった。
再びーーいや、先程より激しく頭を掻いた男が、その手で女の両頬を強く挟む。
呆気に取られた女は、頬に鈍い痛みを感じながら、男の手の動きにあわせて、男の顔を丸い目で眺める。
「そう。じゃあ、お前の生き方、全部、直せよ」
今では笑ったような口元すらも消えていた。残された冷ややかな目だけが、女を射抜く。
「その媚びたような甘ったるい喋り方も、可愛いが基準で買う服とかの趣味も、部屋で焚いてる良く分からないアロマも、この薄い茶髪も、お前の全部が全部嫌いだったよ」
捕まれている袖を取り戻すように、男が女を少し押す。その場に尻餅を付いた女は、男の顔を見ることなく、ただ、漠然と真正面の光景を目に映していた。
「それに、前ほど、お前とのセックスに魅力を感じなくなったんだよね。最近、お前のそこ、緩いんだよ。はっきり言って気持ち良くない」
改めてドアノブを握った男は、マンションの廊下へと足を踏み出す。
「だから、もういいや。バイバイ」
最後の言葉を部屋に残し、男がドアから力を離す。
大きな音を立てて閉まる扉に、女は我に返って外へ飛び出た。
「待って」
振り向きもしない男が、淡々とエレベーターに向かって足を運ぶ。
「待ってってば!」
女は履いていたサンダルの片方を投げた。弧を描き、男より少し後ろの通路に音を立てて落下する。もう片方のサンダルを脱ぎ、振りかぶりながら前を向くと、男は振り返って彼女を見ていた。
「……だったら、どうすれば納得してくれるの?」
寂しさの舐め合い。
「最後に一回だけして……」
結局、女にはそれくらいしか思い浮かばなかった。
部屋に戻り、お互いにシャワーを浴びて、ベッドの上に横たわる。女が男の性器に触れると、男も女の胸を優しく包む。常に変化し続ける相手と自分の体を確かめながら、そうして、性器同士が近づけられる。避妊具なんてない。粘膜と粘膜の直接的な接触。
「ちゃんと絞めろよ」
「うん……」
力を入れた彼女の中に、屹立した彼が沈む。
しかし、始めてすぐ、彼は動きを止めてしまった。
「……もういい」
「ごめん。待って、頑張るから!」
慌てて必死に力を込める女を抱いて、男は彼女の耳元に口を寄せる。
「もういいよ。締めさせてやるから」
「え?」
「何でもするって言ったでしょ?」
体を起こした男が、腕を女の首へと腕を伸ばす。当然のように指を絡ませ、血と空気の管を圧迫し始める。
女の心臓が止まるまでの三分間、男はいつかを懐かしむように腰を揺らした。
息も吐けぬ愛 阿尾鈴悟 @hideephemera
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