桜の季節を前に
ことみあ
桜の季節を前に
私は、とうに百歳を超えたおばあちゃんです。私の命はもうすぐ消え、そして新しい命が生まれます。でも悲しいことでは無いのよ。これは至極当然のこと。いつかはこうなる日が誰にでも訪れるのよ。これまで私は見送る側だったけれど、今度は見送られる側になった、ただそれだけなの。
みんなが私を見つめています。お懐かしい顔もちらほら。
ねえ、私、今どんな風に見えているのかしら。みすぼらしく老いてしまったわ、なんて思う殊勝な心は持ち合わせていないつもりだけれど、体はもう限界なんですって。
だから泣かないで、ふみちゃん。先代の一人娘であるあなたがここを継いでくれるなんて、失礼かもしれないけど思ってもいませんでした。まだまだ先代は厳しいことを言うけれど、あなたは一人前の後継者になりましたね。泣いてばかりだと怒られていたのは、いつのことだったかしら? 泣き虫はいくつになっても変わらないのね。
ああ、みんな、歳を取ったわねえ。心は変わらないのに、体ばかりが老いていくのよね。あらあら、あなた、良文くんかしら? 髪が薄くなって……、昔はさらさらのロングヘアーを自慢していたのにね。若くしてここで働き始めたあなたが、突然、ヒッピーとかいうのに憧れて伸ばし始めた髪。ある日バッサリと切ってしまったのは、当時片思いしていた彼女に振られたからだということを知っているのは、たぶん私だけでしょう。今では板長になった寛治くんの特訓と称して、夜な夜な調理場のお酒や食材を盗み食いしていたのも私は知っているんですよ。
あれは、小松様ご夫婦。もう立派な老夫婦になられましたね。初めていらっしゃったのは、新婚旅行で、それから毎年春になるとお泊まりに来て下さいました。夫婦が親子になり、お子様が増え、お孫さんも一緒に三世代でいらっしゃるようになってから何年になったでしょう。次の桜をご一緒できないのが残念です。
今では老舗旅館なんて言われているけれど、私が生まれた当時は峠の宿屋として流行ったのですよ。その頃はまだ自動車なんてなくて、たくさんの牛や馬たちが並んで休む様子が見られました。初代の善次郎さんは人当たりが良くて、私にも大変よくしてくださっていました。いつもニコニコとしていて、細かな気配りが出来るお方でした。女将さんの菊さんは、庄屋の出でしたが、ちゃきちゃき働き牛や馬のお世話も厭わない可愛らしいお方で、初めはお二人で切盛りしていましたが、すぐに人を使うようになりました。その時に雇われた一人が、未亡人の絹江さん。小さな女の子を連れてここにやって来ました。娘さんの八重ちゃんは五才くらいだったかしら。可愛い盛りではあるけれど、お母さんの絹江さんは少し邪険にしていたような気がします。若くして旦那さんを亡くされた絹江さんは身寄りもなく、生きるのに必死だったのでしょう。来た当初は、痩せ細った体で動いているのが不思議なくらいでした。だからこそ、あんなことをしてしまったのだと思います。しばらくして、絹江さんは姿を消しました。ここの売上を持ち、子どもを置いて、ここに通っていた若い男性客と一緒に駆け落ちしたのです。もちろん、旅館は上を下への大騒ぎ。でもお客様は途切れませんから、休むわけにはいきません。何とか営業をこなす毎日でした。お母さんの姿がなくなっても、八重ちゃんは泣きませんでした。子どもなりに分かっていたようです。休憩所に一人残された八重ちゃんは、「お母さんはもういないのよ」とお花に話しかけていましたから。その八重ちゃんは、庭番の長太くんと仲居の駒子ちゃん夫婦の子どもになりました。長年、子どもが出来ずに悩んでいた彼らのもとで、八重ちゃんは大事に育てられ、二代目になる幸次くんの奥さんとして、ここに戻ってきたのでした。旅館はまた大騒ぎ。だって、幸次くんがせっせと文通していたお相手が、八重ちゃんだったってことは、私以外知らなかったでしょうからね。私、ここで起きたことならなんでも覚えていますよ。隠し事はできません。ふふふ。そして、幸次くんと八重ちゃんの子が、ふみちゃんのお爺様になります。だからふみちゃんで五代目。
ここが大きな宿場町だったのも、はるか昔のお話ね。老舗旅館、の前に「隠れた」がつくんですから。私の目の届く範囲には、何もなくなってしまいました。一つ消え、二つ消え……そして、私も消えるのです。
さてさて、昔話もそろそろおしまいにしましょうか。牛や馬たちがいた場所に、今では大きな車が何台も止まっています。トラクターやクレーン車ね。使える建材は残してくれるみたいだけれど、次に出来るのは、もう私ではないのよ。最後は静かに、運命を受け入れましょう。こうして、ここに生まれて良かった。退屈しない毎日でした。手や口はないけれど、ありったけのありがとうを言いましょう。
ありがとう、ありがとう、ありがとう。
桜の季節を前に ことみあ @kotomia55
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