だれでもなくなってしまう

くれそん

第1話

 お坊さんが木魚をぽくぽく叩いている。兄貴が事故を起こした。


 最近の大型のオートバイを買ったとか自慢していたけど、まさか一人で勝手に死ぬなんて。情けないやら悔しいやら、どんな気持ちとも言い難いものを感じる。


 相当ひどい事故だったみたいで、全身ぐちゃぐちゃで、顔面なんて特に判別できないほどだった。それでも、免許だったり、DNA鑑定だったり、どう調べても兄貴であることは間違いなかった。その中で一つだけよかった点は、そんな激しい事故だったのに誰も巻き込まなかったことだ。ほかの人を巻き込んでたら、悲しいなんて言っている暇はなかったのだから。


 兄貴の葬式から数日、そんなことがあったとしても日々の生活は変わらない。会社に行って仕事をこなす。変わったことがあるとしたら、バイクを見かけた時にふと事故が起きるような気がしてしまうことだけだ。


 上司はもう少し休んでいてもいいって言ってくれたけど、近親者が死ぬことだってよく聞く話だ。それに、仕事のことを考えていたほうが、気が楽になる。まだ30手前なのにって無駄なことを考えずに。


 それから一週間、特に変わることもなく仕事の日々だ。強いて言うなら、紫苑から遠ざけられているように感じることだ。もう付き合い始めてから3年。倦怠期でも来てしまったのだろうか。


「山本さん、昨日モールにいました?」


「行ってないけど」


「おかしいなぁ。モールにいたの絶対山本さんだったのに……もしかして聞いちゃいけない系のやつですか?」


「むしろ、君の話のほうが意味わかんない系だよ……」


 おっかしいなと言いながら、同僚の佐藤さんが去っていく。最近佐藤さんにこんな話をされるのもこの一週間で4回目だ。


 知り合いを見かけたら話しかけずにはいられないタイプの彼女は、出先で見られるといつも話しかけに来ていた。デートの途中にそんなのに遭遇したくはないと何度も言い聞かせると、その場で話しかけてくることはなくなったけど、その代わり職場で見かけた報告を欠かさずしてくる。


 最近になってこの勘違いが増えている。まるでもう一人自分がいるみたいな……。まさかそんなことがないってことはわかっているけど、佐藤さんの前にこれだけ自分のそっくりさんが現れているのかと思うと、気持ちの悪さすら感じる。


 週末、紫苑から変なメッセージが入っていた。


「絶対許さない。別れたいならそういえばいいのに、どうしてあんな言われ方しなきゃいけないの」


 別れたいとか、あんな言われ方とか、何を言いたいのかさっぱりわからない。そもそもここ2、3日は会ってすらいないのに。何でここまで怒っているのか?


「待ってくれ。俺が何を言ったって言うんだ」


「覚えていないんだね」


「覚えるも何も会ってないじゃないか」


「白々しい」


 それっきり紫苑からの返信はなくなった。何度も送ったけど、既読すらつかないのは堪える。


 翌日、上司から呼び出された。


「こんなこといい大人に言うのもどうかとは思うが、あんな天下の往来で言い争うのはどうかと思うんだが……」


「待ってください。高橋さんまで何言ってるんですか。家出てないとまでは言わないですけど、喧嘩騒ぎなんて起こしてませんよ」


「いや、あれは間違いなく山本君、君自身だったが」


「……どこで見かけたんですか?」


「モールだったね」


「またか……とにかく、昨日はモールになんて行ってませんから」


「はぁ。君がそう言うならそういうことにしておくけど、あんまりそういうことをするもんじゃない」


「わかりました」


 正直、自分でも何一つ分からなかったが。本当に自分によく似た誰かが勝手なことをやっているようだということだけはわかった。ふざけた真似を。


 帰宅すると、窓から光が漏れていた。紫苑か? 顔を俯かせ、嗚咽が漏れている。


「紫苑?」


「隆さん、私たちそれなりにうまくやれて来たよね?」


 悲しいなんてそんな言葉だけでは言い表せない沈んだ表情を向けてくる。


「もちろん。この3年間は言うに及ばず、もう20年以上の付き合いになるからね。何でもなんて言えないけど、それなりに互いのことはわかっているから」


「そうね。私もそう思っていた……昨日までは」


 ぐっとあげた目には憤怒の炎が燃えている。


「言ったよね、許さないって。あんな言われ方は納得いかないって。もう好きじゃないならそう言ってくれればいいって。ねぇ、教えてくれない? 私の何がそんなに気に入らないの?」


「いや、待ってくれ……」


「ふざけないで! こんなに多くの時間を一緒にしてきて、あんな本性も見抜けない自分の見る目のなさに嫌気がさすわ。言い訳なんていらないの」


 紫苑が携帯を放って来る。受け取ったそれは、俺と彼女のやり取りが表示されていた。その中には送った覚えのない罵詈雑言の数々が並べられている。昨日のやり取りも確かにあるから、自分の携帯から送られたもので間違いないようだ。


「いやいや、おかしい、おかしいって。こんなの送ってないから」


 自分の携帯を見てもそんな言葉は一つも書かれていない。


「見てくれよ」


「そんなの何の証拠にもならない。お願いだから、もう何も言わないで。長年の思いがやっと通じたと思ったのに……こんなことなら叶わなければよかった」


 鋭い痛みが走る。ごめんねって紫苑が言ったのを最後に意識が遠のいていった。



 

 白いシーツとカーテン。どうやら病院に運び込まれたようだ。昨日は……紫苑に刺されたんだっけか。もともと繊細な子だということは知っていたのに、どうしてあそこまで追い詰めてしまったのだろう。


「大丈夫かい? 痛みは? 意識は朦朧としないかい?」


「先生、私はどうして?」


「覚えてないかもしれないけど、君は刺されたんだよ。それを見かけたという女性が119番してね。もう少し遅ければどうなるかわからなかったよ」


 良かったというべきなんだろう。紫苑が人殺しにならなくてでも、本当にこれでいいんだろうか。


 上司や両親から見舞いを受け、しばらく休みの許可をもらい、あと消灯までもう少しというところで、彼女がやってきた。今一番会いたくて、もっとも会いたくない彼女が。


「良かった。死ななくて」


「ああ。良かったよ」


 不愛想な返事をしてしまう。隣でさも愉快そうな笑い声が聞こえる。


「何がおかしい!」


「この顔はやっぱり気に入らないのかなぁ」


 彼女のほうを振り返って戦慄した。俺の顔だ。いや、違う。俺にはわかるぞ。これは兄貴の顔だ。瓜二つの俺たちの顔だけどそれでもなんとなくわかる。葬式の場でも見られなかった顔がどうして。


「こっちのほうがいいの? お兄さん嫌いじゃなかったもんね」


「何を言っている……」


 少し嫌な予感がした。兄みたいに紫苑も、いや、まさか。


「死なれると困るんだよね。新鮮な顔じゃないと長持ちしないんだぁ」


「紫苑はどうした?」


「んん? 首吊ろうとしてたからさ焦っちゃった。ここまで頑張ってお膳立てしたのにね。勝手に死なれると困っちゃうよ」


「貴様!」


 腹の痛みも忘れて、奴の胸ぐらをつかんだ。それでも、へらへらとした笑いをやめようとはしない。


「あの子の心がこんなに弱くてよかったぁ。おかげで双子の顔を初めて揃えられるや。二人も始末するのは大変なんだよね。お兄さんが勝手に死んでくれて楽ちんだった」


「ふざけやがって!」


 殴りつけようとする拳は簡単に止められ、ベッドに転がされる。


「あんまり激しく動くとバイタルが外れちゃうからノンノン」


 ニヤニヤと笑いながら、見たこともない刃物を取り出す。


「面倒だから縛っちゃおうか。すぐに済むから安心してね。痛くしないであげるからぁ」


「やめろ、やめてくれ」


 懇願してもやめてくれない。紫苑もこんなのを味わったのか。俺たちのせいで。


「そういえば、あの子ね。紫苑って言ったかな。あの子は君が死んだと思ってたから、抵抗一つしなくて楽でよかったなぁ。ああ、見る? 見てみる? しまった。もう目見えないよね。ごめんね。まあ、見てもわかんないと思うけど」


 ごめんごめん。

 



 翌日の新聞一面では、「病院内で行われた凶行」という見出しで飾られた。小さく、「顔がつぶれた死体発見。交通事故の可能性が濃厚」という記事も載っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

だれでもなくなってしまう くれそん @kurezoul

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ