1-9 メイヤー・オブ・シンプルトン その1
無音の世界に、静止する水滴。
まわりの状況を確かめようとして、日々季は気づいた。
先程までは、指先ぐらいなら僅かに動かすことができたし、視線をあちこちに彷徨わせることもできた。
ところが今や、肉体はピクリとも言うことを聞かなかった。動きたいという意志はあるのだが、その命令が手指にも足腰にも反映されないのだ。さながら、電源が切られたロボットのようだった。
荷重のために制限されていた身動きが、まったく別の要因で阻まれていた。
自分をひっくるめて、全ての時間が停まっている。
そうとしか考えられないし、そしてまた、そう考える自分の頭だけは動いている―――
「飲み込みが早い! 立派である」
そのとき、威厳のある声音が割り込んできた。低くて響きのよい、恰幅の良い紳士を連想させる声だった。
どこからともなく現れたのは、イメージ通りの存在だった。
シルクハットに燕尾服を着こなし、先がハテナ型に丸まった杖を振る、口ひげを生やした老人。今どき珍しいくらいにステロタイプな、太っちょの紳士だ。
そんな紳士が、うずくまる日々季の足元に、悠然と歩み出てきた。
そう―――ガチャガチャの景品くらいに小さいのだ。
あっけに取られていると、小さい紳士は胸を張り、爪楊枝のようなステッキをカーンと打ち鳴らした。
「君の態度は立派である! 我輩が目をかけるに値する好人物だ!」
自分は死んだのだろうか。それか苦痛のあまり幻覚を見ているのだろうか。
日々季は何がなんだか分からず卒倒したい気分になる。
「む、失礼だな。我輩は幻覚などではないし、断じて君は死んでもおらん。
我輩という大人物の後ろ盾を得たのだから、もっと喜んではどうかね?」
――――あれっ。
口に出していないことなのに、会話が通じている気がする?
「……ふむ、これを聞いたら有り難みが増すだろうか?
君のために時を停めたのは私だぞ、竹落葉日々季くん」
現状に対する明快な回答が、聞きもしないのにもたらされた。
この存在は、何かを知っている。
日々季は思わず頭の中で、次のように尋ねていた。
(――――あなた、何者?)
「我が名は『メイヤー・オブ・シンプルトン』。
これから君が使用することになる『能力』の化身である。
敬意を込めて市長殿と、しかして発音に親しみを込めつつ市長殿と、そのように読んでくれたまえよ」
市長殿は、そのように言い放つと、口ひげを整え胸を張った。
会話が、通じた。
やはりこの存在、頭の中を読んでいる。
だが―――意思疎通できたところで、その意味が全く分からない。
(…………能力? どういうこと?)
「雰囲気で分からんかね?」
(無理無理無理!)
「買いかぶりすぎたかな。
よろしい、時間は有り余るほど作れる。教えてあげようじゃないか」
市長殿はステッキを打ち鳴らすと、ひょいっとタライの上に飛び乗った。そうして、まさしく演説をする政治家のように身振り手振りを始めた。
視線は動かすことができないのに、なぜだろうか、市長殿がどのような姿勢でどの場所に居るのか、直ぐに分かってしまう。
「我輩の一挙手一投足が把握できるのは君と我輩が一心同体の存在であるからだ。
我輩は、君の中にずっと眠っていた存在なのだよ」
何かを言っているが、そんなことよりも、そういえば自分は全裸なのだなということを日々季は思い出した。時間が停まっているのだから隠しようもないし、ていうか一心同体だとしたら何かと色々この小さいオッサンに筒抜けということだろうか?
「人間が巷間に言うところの『超能力』。
それが君にも芽生えたならば、外界へ超能力を伝える触媒のようなものが必要となる。その存在こそが我輩である。
つまり我輩は君の超能力の化身! 色々なことも筒抜けだとも!」
やっぱり筒抜けなんじゃないか。いつから存在をしているんだろうこの小さいオッサンは、という疑問と共に日々季はいよいよ前とか後ろとかを隠したくて仕方がない。だが時間が停止しているのだからどうしようもない。
「……どうも、話が頭に入らないようだが。とどのつまり前を隠したいのかね?
それなら、時間を動かすよう我輩に言えばよいだけだ」
―――次の瞬間、ふいに日々季の全身に、あの重みが呼び戻された。まったく気構えしていなかった日々季は、重力に引っ張られるようにして浴室に転がった。
シャワーから流れ落ちる湯水がけたたましく床を打ち、通行する大型車両がどこかでクラクションを鳴らし、耳を日常の音が聾する。つかのま解放されていたぶん、重量が腰と肩に響いてくる。
日々季は前を隠すように身体を丸めると、叫んだ。
「―――時間停めて、市長殿!」
次の瞬間、市長殿が目の前に現れたときには、もう日々季は自分が遭遇している事態について理解していた。
自分の雄叫びによって、再び全てが静止した、身の回りの空間。
得意げに胸を張っている、小さな紳士―――市長殿。
わたしが時間を停められるのだ。
市長殿に、お願いをすることで。
それが、私の、能力―――『超能力』。
私は、窮地に際して、超能力に目覚めたのだ。
「ようやく理解したようだな」
理解、もとい、納得していた。
原因が不明であるよりも、原因に超常現象が絡んでいると考えたほうが、ずっと納得がゆく。事態さえ飲み込めれば希望だって生まれてくる。
だって、時間を止めておけば、どこまででも逃げられるではないか。
静止した時間の中、自分だけが動ければ……。
「残念だが、それはできない。我輩の時間停止能力は、範囲を選ぶことができないのでな。停めるとなれば、全てが停まる。機能するのはたった一つ、君が考える力……思考力のみなのだ」
思考力のみが動く―――どういうことなのか、理解するのに時間がかかる。
「とにかく我輩の能力は、君が『考える時間』を作ることなのだよ!
我輩が時間を止めている間に、君は好きなだけ対策を考えることができるというわけだ! 次に時間が動き出したときに取れる、最善の策を!」
―――それだけ?
―――考えるだけ?
「それが君の望みであったからな。さて、腰を据えて考えよう。
とはいえ我輩は『単純市長』。合理的なたちでな。あまり複雑に物事を考えたくないのだ。やるべきことを、さっさと決め、それを行動に移そう。
……走って逃げてはどうか?」
それが出来ないから苦しんでるんですが! と叫びたくなる日々季であった。
だが、「やるべきことを決める」という考え方は性に合った。差し当たり努力目標を決めれば、自然と取るべき行動も決まってくる。
「冗談だ、冗談。
こういう場面では、まず目標を定めることだ。目標が固まったら、達成するために必要な行動を導きだす。時間さえあれば、身の回りのものからヒントを得る余裕も生まれる。それまでの出来事から導き出せる打開策だって見えてくるさ」
それまでの出来事、と市長殿が語ったとき、ふいに日々季は思い出した。
あの管理人の胡乱な軽口を。
―――もし何か出たら、トイレの床を三回、思いっきり踏み鳴らしてね。
幸緒さんは、この事態を見越していたのではないか?
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