1-7 竹落葉日々季、襲われる その1

 キャリーケースの荷を解いた。

 収納には衣装入れのクリアケースが一つだが準備されていて、普段着の一式をそこに閉まった。実家から持ち出した数冊の本は差し当たりベッドの上に、俳優のポスターは後から壁に貼ることにして、今は丸めたまま収納に。買わされたドラ焼きはテーブルの上においた。


 台所には調理用具一式とオーソドックスな調味料が揃っていた。

 レモン果汁だとか薄力粉だとかバニラエッセンスだとか干した貝紐だとか、とても日々季には使えそうもない素材までプールされているのには驚いた。

 つづいてお手洗い、トイレットペーパーよし。芳香剤は後で買う。

 洗面所には歯ブラシに歯磨き粉、固形のシュワシュワする系の入浴剤があった。浴槽は一人が入ればいっぱいになる大きさだ。掃除用具が見当たらないので、これも後で買う。

 最後にスマホを充電しはじめ、ようやく日々季は人心地ついた。

 どさり、とベッドに横たわる。

 寝返りをうつと、大窓に引かれたカーテンの隙間から、隣のマンションのベランダが見えた。干された洗濯物が風にそよいでいる。日当たりは悪くないが、青い空と白い雲は残念ながら見えない。


「一人暮らしかあ」


 街の様子を見たら、新生活への浮ついた気持ちは、少し落ち着いた。

 三年間の高校生活。

 初めて、カンで選んだ。

 今までとは違う自分が選んだ、高校生活だ。

 これから、どんな風景を見ることになるのだろうか?

 ベッドに体を投げ出して、ゆるく長く息をつくうちに、瞼が重たくなってきた。

 日々季はいつしか、まどろみに落ち込んでいった。



 こそばゆい。

 

 

 日々季を午睡から呼び覚ましたのは、なんとも言い難い感覚だった。

 何時の間にか窓の外は赤々と夕陽に照らされ、部屋の中は逆光で薄暗い。

 隣家の洗濯物は回収され、窓明かりが灯っている。

 うつ伏せの姿勢で、ぼんやりした半眼で横たわっていた日々季だったが、


「―――かゆっ!」


 叫び、弾かれたように身を起こした。

 それから、トレーナーの裾をめくって腹や背中を猛然と掻きむしった。


 かゆかったのである。


 それは普通の痒みではなかった。真冬の乾燥肌をひどくしたような、全身くまなく小虫が走り回っているような、常軌を逸した痒みだった。


「ーーーーーーッ!」


 耐え難いあまり、日々季は、腕に深々と爪を立てた。皮膚をかきやぶる勢いで、ガリガリと爪をこする。

 だが、痒みが収まることはなかった。

 それどころか―――本当なら皮膚に生じるはずの感覚を、日々季はいっさい感じることができなかった。爪を立てたときの痛みも、皮膚を掻きむしったあとの腕の痺れも。

 たとえば寝起きのせいで、感覚が鈍麻しているのだろうか。あるいは腕を下敷きに寝ていたから神経が変調をきたしているとか。

 不審に思いつつ手を見て、またも日々季は驚いた。

 爪の間に、白いカスのようなものが、こんもりと詰まっている。


「―――うそっ、垢!?」


 日々季は転げるようにベッドを降りると、衣服を捲りあげながら洗面所へ走った。


 


 猛然とすっぽんぽんになり、浴室に駆け込んだ。

 シャワーの水勢を最強に。

 温度設定四十二度で、壁にかけたまま噴射する。


「冷た!」


 ジャッと噴射された冷水を頭からかぶって、日々季は飛び退く。

 たたらを踏みながら待つこと数秒、温水に変わったことを確かめると、日々季は頭から滝行のようにお湯を浴びた。

 立ち上る湯気の暖かさに、ほっと息をつく。

 しばし温水を浴びて、落ち着きを取り戻すと、不可解なことへの疑問がいくつも生まれた。

 そもそも当然のことだが、日々季は毎日ちゃんと風呂に入っている。人より入浴時間が長いくらいだし、度を越して綺麗好きであるという自覚もある。あんな垢が噴き出すような生活はしていないのだ。

 だいたい身体の感覚まで無くなるなんて、おかしい。

 新生活へのストレスから、体調を崩したのだろうか? そういえば、暖かなお湯を浴びてホッとしたせいもあるのか、身体の力が抜けて、全身がけだるい。


 ―――いや、けだるいのではない。


 なんだか、ずっしりと重たい。


 肩こりや神経痛とは異なる重苦しさに、日々季はその場でうずくまった。

 ほどなく、気づいた。

 この感じは、外圧的な負荷だ。

 物理的に何かが伸し掛かってきているような、例えばヘドロでも背負ったような不愉快な重みが、日々季を押しつぶそうとしていた。


(湯あたりかもしれない)


 日々季は懸命に立ち上がろうとした。壁にかかったシャワーホースを掴もうとした。

 だが、肩が上がらない。

 身体が全く言うことを聞かない。その理由は明白で、全身にかかる荷重が刻一刻と増していくせいだ。

 一体何が起きているというのか?


 自分の腕に目をやって―――日々季は悲鳴を上げた。


 腕が、溶けている。

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