この街から。

@Ozaki_Zig

第1話 深夜、影踏む二人。




 五月に入ったというのにまだ少し、肌寒かった。歩きながらスマートフォンに視線を落とすと、線の細いフォントの時計は午前二時を差していた。遅れる、と連絡はしたが返事は無かった。

 博多とか天神とか、ビルが密集した都会の方角の空は、月明かりも相まってまだ少し明るくて、くわえた煙草の煙が昇っていくのがよく見えた。

 ハーフパンツのポケットの中の煙草とジッポを指で弄び、隣を通り抜けていく車にいちいち気を削がれる四分を歩き、閑散とした駅前に立った。駅前から続く暖かい色の街灯が、天満宮までの石造りの道を等間隔に照らしていた。

 順、と呼ばれて、その声の方向へ視線を向ける。

『歴史と詩情豊かな太宰府へようこそ』と掘られた石柱の下、翼は泣きそうな表情でベンチに座っていた。

 しんとした空気には、かすかに雨の匂いが混じっていた。




 飾り気のない灰色のカーディガンの裾を手で払い、翼は居住まいを正した。切ったばかりの髪を指先でいじって、待ち合わせの相手を待っていた。

『姉貴に見つかった。少し遅れる』

 届いた短いメッセージ。胸の奥がぎゅっ、と締めつけられる。不安と苛立ちを誤魔化すようにイヤホンを耳に当て、適当な曲を流した。

 時折通る車のヘッドライトに目が眩む。

 天満宮まで続く道はシャッターだらけだった。不気味な灯りのいくつかは電球が切れかけているのか、不規則なリズムで点滅を繰り返していた。真夜中。丑三つ刻。道真の呪い。そんな言葉が浮かんでは消え、背中に虫が這うような気持ちの悪い不安が、少しずつ膨れていく。そんな感触が妙にはっきりしていた。

 こんなことでびくびくしている自分に気づいて、さらに苛つく。十七にもなって夜を怖がっているなんて。

カーディガンを手繰り寄せて、自分の肩を抱いた。行き場もなく、言葉にならない感情が涙になって溢れそうになる。でも、あいつに見られる訳にはいかない。ベンチに足を立てて、つんと痛む鼻をすすった。

 そうやって順に意地を張っている間だけ、ほんの少し胸が軽くなっていた。

 



 横断歩道の信号が十三回変わって、イヤホンから流れてくる曲が終わる頃、見慣れた背丈のシルエットが歩いてくるのが見えた。

 イヤホンを外して順、と声をかける。

 順は道の対岸、ローソンの青白い灯りに目を細め、隣に座った。影を踏む寂しさが消えていくようで、翼は少し安堵した。

「悪い。遅れて」

 煙草を口から話して、順は抑揚のない口ぶりで言った。

「ううん。お姉さん……怒ってた、よね」

「それなりに。またお前と会うんだろうって」

「……やっぱり、だいぶ嫌われちゃってる、よね」

 悪手だった、と順は頭をかいて、詰まった言葉をどうしようか悩んでいた。

「姉貴は頭が固いから。あまり気にしなくていい」

「……っふふ。そうする」

 順らしい、なんとも投げやりな言葉だ、と翼は安心する。行こうか、と呟いてゆっくり立ち上がる。遅れて後に続いた順は、目に付いた公衆灰皿に吸い殻を押し込んで、翼の一歩後ろを歩いた。


 駅前交番の前を覗きながら早足で通り過ぎる。大方この時間、当直の警察官は奥で休憩を取っている。何度も夜中に家を抜け出していると、こんな役に立たないことばかり覚えていく。

 月明りも相まって、天満宮まで続く石畳の道は遠く先まで見通せた。昼間は観光客が溢れかえっていて、とても自由に歩けたものではない。そんな姿は、今は見る影も無く森閑としている。猫の子一匹いないこの道を歩くたびに、順はどこか夢の中にいるような気分がしていた。

「そっちはどうなの、文化祭の準備。もう来週だけど」

 三基ある石造りの鳥居、その一基目にさしかかった時、翼が口を開いた。

「順調だよ。いざこざ含めて」

 文化祭って普通秋じゃない? そんな話をしたのはもう去年のことか、と順は人差し指を擦った。

「やっぱりそんな感じなんだね。馬鹿みたい」

「皆それを楽しんでるんだ。言ってやるな」

「どうせ、ちんけな思い出に花でも添えたいんだろうね。大人になってあの頃は楽しかったね、なんて言ってつまらない思い出に浸るのさ」

 鳥居をくぐって、二人の足は天満宮を目指していた。どちらかが行きたいと言った訳でもなく、夜の天満宮に行くのはいつの間にかの決まりごとだった。

「そっちは上手くいってるのか」

 その質問を待ってましたと言わんばかりに、翼は分かりやすく口角を上げた。

「いいや、順のところと変わらないよ。ああがいいだの、こうがいいだの、振り回される側の身にもなってほしいね」

「それも一つの青春なんだろう。みんなにとっても、お前にとっても」

 ジッポを取り出して手遊びの種にする。かちん、かちんと甲高い音が二人分の足音をかき消した。

「わたしにとっても? 冗談はそのナイスなデザインのジッポだけにして」

「お前のそのビスマス結晶よりは普通だと思うんだけど」

 ポケットから出ていた、翼のスマートフォンのキーホルダーに目をやる。

「この結晶の良さが分からないうちは、順は子どものままさ」

 順はほんの少しだけむっとして、幾何学模様が彫られたジッポをポケットに仕舞った。翼は歩きながら話しているうちに火照ってきたのか、カーディガンの袖を捲った。

「とにかく、あんなちゃちないざこざに巻き込まれるくらいなら最初からいない方がいい。それこそ、みんなにとっても、わたしにとっても」

 翼はビスマス結晶を指で弄んで、ぱっと顔を上げた。

「それにしてもさ。毎年この時期、順のところは大変じゃない? 大祓式の準備、始まってるし」

 余計なことを思い出されるな、と悪態をついて、順はため息をついた。

「面倒ごとは姉貴が全部やってるから、おれはそんなに。やることといっても、前日の準備……人手がいる仕事とか、当日参加しなきゃいけないことくらいだ」

「へー。今年も着るの? あの、なんだっけ、直衣とか狩衣みたいな」

「装束のことか?」

 行きがけの自動販売機でコーラを買う。呼び出すのはいつもわたしだから、毎回好きなのを一本おごってあげる。翼がそう言ったのはたしか、去年の春だった。

「そう、それ。あれ着てる時の順、なかなか恰好いいよ。いつもの何考えてるか分からない無表情、あの時だけはきりっとして見えるんだよね。 ……去年は順のクラスの女子も見に来てたらしいよ。誰かは知らないけど」

 後半、すこしそっけない口ぶりだった。

「地元の祭りくらい誰でも来るだろう」

「モテて嬉しくないの」

「多分イロモノ扱いされてるだけだし、そんなにいい気はしない」

 順が呆れて言うと、翼は、考えすぎなのかな、と呟いて首を捻った。

「まあ、あれだけ大事なお祭りなんだから、さすがに大祓式は抜け出せないよね」

「残念ながら。年二回の大事な祭事をさぼったら、姉貴に殺されて唾を吐かれたって文句は言えない」

「ははっ。順が殺されたら、次はおそらくわたしだろうね。怖いからこれ以上そそのかすのはやめておこう」

 順の口ぶりに、翼は思わず吹き出した。あれだけ恐ろしかった道も、二人で歩けば怖くなかった。怖いと思う心の隙間が、交わした言葉で埋められていくような感覚だった。それでも、埋めた分だけ何かが零れ落ちていくような落ち着かなさも感じている。忍び寄ってくる孤独にも似た感覚を振り払うように、翼は小さく頭を振った。

「それで、今日も文化祭準備は抜け出すのか」

「そうだよ。順は、来るよね」

「行かないと言ったら」

「呼びに行くし、来ないなら引き摺ってでも連れていく」

 順が何も言わないと、翼は顔を曇らせた。分かったわかった、とため息混じりに呟くと、ほっとしたように頬を緩めた。

「そもそも順に来ないなんて選択肢はないんだよ」

 順は大げさに、呆れたと言いたげな態度を取った。

「お前、そんなに勝手なことばかりして大丈夫なのか」

「……まあ、大丈夫だと思うよ。あいつらに何言われても気にしないし」

 少し声に勢いがなくなった気がした。

「ていうか、順こそどうなの。孤立してない?」

「一人のおかげで困ったことにはなってない」

 翼は微妙な表情で、そういうことじゃないんだけどな、と呟いた。通りがかった路地の、自動販売機の低く唸る音がかすかに耳に届いていた。

「なんにしろ、わたしは大丈夫さ。わたし一人いなくたって、どうせ世の中は上手く回っていくから」

「本当に、お前は協調性がないな」

 翼は小さく笑うと、小馬鹿にするように首を傾げて順の顔を覗き込む。前を向いていた視線に、強引に翼が割り込む。瞳の奥は街灯に当てられて、白くハイライトが差していた。

「君に言われたくない」

 一拍置いて鼻で笑うと、つられたのか翼もくすくす笑っていた。

「わたしたち、みんなにどう思われてるんだろうね」

「さあな。よく分からない」

 二基目、三基目と鳥居をくぐり、天満宮前に着いた。ブロックで留められた路駐禁止の看板の脇を抜けて、経路に合流して東風吹かばの碑とは逆に進んだ。夜風がざわざわと木々を揺らした。大げさな枝の揺れる音を少し恐ろしく思って、翼は順との距離を詰めた。赤塗りの太鼓橋を渡って心字池を越え、閉ざされた楼門の前に腰を下ろした。

 行きはよいよい帰りはこわい、とはよく言ったもので、本当にそこを歩いてきたとは思えないほど、二人が来た道は闇に満ちていた。鬱蒼とした木々は月明かりを通さず、夜の境内に浮かぶ小さな灯りが、さらに闇を深くしているようだと順は身震いした。

「ねえ、順」

「ん」

「わたしは誇りに思ってるよ」

 何のことだか一瞬、順には分からなかった。

「こんなはぐれ者に仲間がいるなんて、誇らしいじゃないか」

 翼はすっと立ち上がる。部屋着らしいショートパンツから伸びる細い足が、楼門の灯りにぼんやり照らされていた。

「『夜の中を歩み通すとき、助けになるものは橋でも翼でもなく、友の足音だ』って、ベンヤミンも言ってたし」

 翼は恥ずかしげもなくそんなことを言う。何も言えなくて目をそらすと、順もそのうち分かるさ、と早口で呟いた。


 長い時間を楼門の前で潰していると、一粒の水滴が落ちた。

 濡れた頬を触って、雨だ、と翼が呟く。暗い空を見上げると、順の額にもぽつん、と一粒落ちた。絵馬堂の方へ移動する。一瞬で強くなった雨脚にひゃー、と声を上げて、随分楽しげだった。

「はー、なかなか強いね。結構濡れちゃった」

 肩に触れるくらいの長さの髪は雨に濡れて、絵馬堂の外のかすかな明かりに艶がかっていた。古い電球の光は、雨粒の乗った頬に長いまつげが影を落とす。細い首にうっすら浮かぶうなじに、順は無意識に目を奪われていた。

「順? どうかしたの」

「いや、何も。寒くないか」

「うーん、少し」

「これ、着とけ」

 背もたれのない木造のベンチに並んで、コーラを挟んで座った。順がパーカーを差し出す。翼はありがと、と受け取って、カーディガンの上からパーカーを羽織った。

「順は寒くないの」

「まあ、大丈夫だ。我慢できないほどじゃない」

 通り雨だと思っていた雨は本降りになった。絵馬堂の屋根を途切れることなく叩き、古くなった雨どいは八のリズムを打っていた。雨粒は苔の生えた石に跳ね、砂利の地面に落ち、雨の匂いが辺りに満ちていく。わたし、雨の匂いって好きなんだ、と翼があくび交じりに呟いた。順は曖昧な返事をして、濡れた髪を弄った。翼がサンダルを脱いで足を抱く。ただでさえ細い身体が、小さく身を縮こまらせた猫のように見えた。

 不思議だ、と順はコーラに口をつける。おれはどうしてここにいるのだろうとか、どうしてこいつといるのだろうとか、改めて答えを出すのがなんとなく憚れるような問題の表面だけをなぞって、すっかり止む気配のなくなった雨の匂いを感じていた。

会話が完全に切れて、不意に左肩に重みを感じる。翼が順をおいて先に寝てしまうのは、こうして会わない夜の電話越しでもよくあることだった。電話ならとっとと切ってしまえるが、こうして身動きさえ封じられてしまうのは困りごとだった。スマートフォンのバイブが鳴ったのはそんな時だった。


慌てて画面を見る。ジッポと一緒にポケットに入れているせいで、細かい傷がいくつもついた画面には案の定、『姉貴』と表示されていた。肩に寄り掛かった翼の頭をそっと退けて、絵馬堂から出て木の陰に入り、深いため息をついて電話に出る。

『ちゃんと出るのね。相変わらずよくわからないわ。順のこと』

「奇遇だ。おれも自分のことはよく分からない」

『馬鹿なこと言ってないで早く帰ってきて。今どこにいるの』

「どこでもいいだろう。明日も早いなら、早く寝たほうがいい」

『そういう問題じゃないわ。私はその子のことが嫌いだって、さっきも言ったでしょ』

「……姉貴が嫌いでも、おれはそうじゃない」

 電話の向こうの気配が強張った。こうして対立するたびに関係がざらついていくのが、順には手に取るように分かっていた。もう昔のように、屈託なく笑いあえることはないのだろうということも。

『その子にどうしてこだわるの。あなた達のせいでうちがどう思われてるか』

「姉貴こそ、どうして翼にこだわるんだよ」

『質問に質問で返さないで。いくら遺書でことが済んだからって、頭の中までそう簡単に変わると思わないで』

「あいつが何かしたのか。姉貴みたいな頭の固い連中のせいで、翼がどんな思いをしてきたか分からないのかよ」

『その子のせいで私たちの家はめちゃくちゃになったのよ。事が起こってからは皆自分の保身ばっかり。お父さんとお母さんも死んじゃうし、ろくなことがないわ』

 疲れ果てた、ため息交じりの言葉。一度詰まった言葉は、行き場を失って消えていく。言い返せないのは決してあいつのせいなんかじゃないと、できるなら大声を張り上げたかった。

「父さんと母さんは関係ないだろ」

『もういいわ。 ……もういいから、帰って来て。お願いだから』

 絞り出すような、かすれた声だった。朝になったら、とだけ告げて、答えを待たずに電話を切った。




 絵馬堂に戻ると翼は起きていた。パーカーをきゅっと手繰り寄せ、不安そうな表情でイヤホンを耳に当て、スマートフォンの小さな画面をじっと見つめていた。青白い光に照らされたフードの下の表情は、不安の色を濃く映していた。声をかける前に、翼が順に気づいた。

 翼は裸足のまま駆け出して、びしょ濡れの順を、自分が濡れてしまうことさえいとわずに、力いっぱい抱きしめた。髪の香りに顔を叩かれて、思うように口が回らなかった。

「悪い。姉貴から電話が」

「どこにも行かないで! わたしをおいて行ったりしないで!」

 翼の声は湿った空気が満ちた絵馬堂の空気を震わせた。順は面食らったようで、珍しく焦った表情で早い瞬きを繰り返していた。

「だ、だから悪かったって……」

 順が平謝りすると、翼はやっと解放した。ゆっくり腕を解いて順の服の裾を握ったまま、俯いて嗚咽をかみ殺すように体を震わせていた。ずきん、と音を立てた胸の痛みを、浅い呼吸で落ち着かせる。まるでそうするべきだと誰かの声を聴いたように、ゆっくり翼を抱きしめた。


 最初からこうすればよかった、と順はため息をついた。絵馬堂の端、柱の陰に傘立てが置いてあり、そこには誰かが置き忘れた傘が一本残されていた。二人分のスペースは無い小さな傘に肩を寄せて入る。雨脚は少し弱まっていたが、それでも順の右肩を濡らす雨粒は大きく、すこし冷たかった。

「……順、ごめんね。さっきはあんなこと言って。忘れてくれると、助かる」

 順はまた何も言えないまま、明るく振る舞う翼の言葉を聞いていた。透明の天井を叩く音に規則性は無くなり、ぼつ、ぼつ、と低い音を鳴らしていた。都会の方の空は雨雲が移動したのか、いつの間にか暗くなっていて、月明りも雨雲に遮られて届いていないようだった。

「お姉さん、電話で何て言ってたの。どうせ早く帰ってこい、とかだと思うけど」

「おおかた合ってる。ブチ切れてる声色ならまだしも、あの声色はたぶん、本気で呆れてる」

 翼は曖昧に笑って、そんなに心配してくれるなんて、お姉さんは本当に順が好きなんだね、と呟いた。

「姉貴はたぶん、おれのことを好いてはいない。姉弟だから気をかけてくれてるだけ。おれが成人でもして、独立したら音信不通になってもおかしくない。家を継がせる気も、多分無い」

 それくらい、今のおれたちは冷えきってるよ。淡々とした口調に、翼は顔をしかめた。

「……寂しいこと言わないでよ。 ……わたしは、わたしはもしチャンスがあるなら、お姉さんとも仲良くなりたいって思ってる。ここまで嫌われちゃうと、それは厳しいことなんだって思い知らされるけど」

「お前の爪の垢を煎じて姉貴に飲ませてやりたいな」

 冗談めかして順が言う。翼は力なく笑う。叶うことのない願いだと、二人とも分かっていた。だからこそ、笑うしかなかった。

 

翼が傘を畳む。来た道を戻り、鳥居をもう一度くぐる。暖かい色の街頭は消え、鳥の声が聞こえ始めていた。いつの間にか白み始めていた空には千切れた灰色の雲がいくつも浮かんでいて、徹夜明けの目が少し痛んだ。

大通りを外れて、案内所の脇を抜けて路地に入る。光明禅寺の前を通ると鐘の音がした。わたしたち、お坊さんよりも早起きだよ。そう言って翼が笑う。また少し歩くと黒猫とすれ違う。おいで、としゃがみこんだ翼の脇をすり抜けて、黒猫は寺の方へと消えた。あからさまに落ち込んだ表情は珍しかった。

徹夜はやっぱり疲れるね、と言って翼が順の背中を押す。路地裏に隠すように置かれたベンチに座る。

「お前は寝てただろう」

「一瞬だったもん。順がいなくなってすぐ起きたんだから」

 うしろめたさで黙っていると、翼がおおきなあくびをした。つられるようにこみあげてくるあくびを手で隠す。誤魔化すようにジッポを手遊びの種にすると、翼が突飛なことを言い始める。

「前から気になってたんだけどさ、煙草って美味しいの?」

 かちん、と鳴らしたジッポを見つめる。考えてみれば、煙草を美味しいと思ったことはない。毎回喉はからからになるし、いい匂いとも言えない。キャスターの少し甘い匂いは気に入っていたが、その他の物は苦手だった。身体のことを考えたって、こんなもの吸わなくていいし、吸わない方がいいのだ。それでもどうしてか、やめようと思ったこともなかった。

「美味しくない。でも、これがあると落ち着く」

「ふーん。 ……ねえ、試しに一本くれないかな」

はあ? と気の抜けた声を出すと、翼は左手を出した。

「なんだいきなり。ていうか、お前にはあんまり吸ってほしくないんだけど」

「だって、いつも順が吸ってるから気になるっていうか……美味しくもないなら、何か他に理由があるのかなって」

 一本吸えば懲りるか、と順はため息をついて、残り二本になったうちの一本を渡した。受け取った翼は鼻に近づけて匂いを嗅ぎ、首を傾げる。火もつけないまま、翼は口に運ぶ。きれいな色の唇に真っ白な巻紙はよく似合っていた。順、火つけてくれる? そう言って翼は目を閉じた。ジッポの火を灯して先に近づける。巻紙が燃えて中の葉が焦げていく。ゆっくり吸って、と順が声をかける。ふっと吐き出した煙は、辺りに馴染んでいくように消えていった。雨の匂いが混じった朝の空気に馴染まない煙草の匂いだけが、そこに残った。

「どうだった。初めての煙草は」

「……ほんとに美味しくないね。舌がじんじんする」

「最初はおれもそうだった。ほら、飲めよ」

 すっかり炭酸が抜けた甘いだけのコーラを渡す。くっ、と喉を鳴らして口の調子を整えて、翼はもう一度吸っていた途中の一本を咥えた。少し驚いた表情の順を見て、ふふ、と笑った。

「まあ、わたしには順がいれば、それでいいよ」

うやむやになった話を、翼は蒸し返した。買いかぶり過ぎだ、おれは大した存在ではないと、いつも思っていた。それでもこうして、自分のことを必要としてくれる翼の存在に甘えているのかもしれないと、順は翼の顔を見れなくなる。

「おれがいたって、こんな散歩の相手くらいしか務まらない」

「そんなことない。こんな夜廻りに付き合ってくれるような人なんて、家族でもいないと思うよ。だから順は特別なんだ。わたしにとっては」

 特別。何かあるたびに、翼は何度もこう言う。順は特別なんだ、と。まるで順をつなぎとめるように、言葉で首輪をかける。それは少し窮屈な首輪だった。それでも、こうして特別だと言われるたびに、翼の隣にいてもいいのだと安心できた。

「ほんと、不思議だよね。わたしたちって」

 照れくさくて思わず零れてしまったような笑みだった。こうして翼が笑っているのを見ると、順はまた顔を見れなくなる。

「彼氏彼女でもないのに毎晩電話して、こんな時間まで二人きりで出歩いて。この奇妙で不思議な関係、なんか、アニメとか小説みたいじゃない?」

 やけに見透かされたような気分になってしまう。瑠璃色の瞳はじっと、順の視線を掴んで離そうとしない。考えていることすべてが読まれているようで、少し背筋が寒くなる。

「……もしこれが恋とか友情とか、そんなものには遠く及ばないようなちっぽけなものだったとしても、順はずっと、わたしといてくれるよね」

 存在を確かめるように、冷たい手が順の腕を握る。背後から昇る太陽が影を伸ばしていく。闇は姿を消し、空は少しずつ青く染まっていく。そんな空を見上げて、表情を変えずに順は応える。

「当たり前だろう。ずっと、一緒にいる」

「……ありがと」

 満足したように笑顔を作って、順の肩を軽く叩いた。咥えたままの一本を、また恐るおそる吸う。今度は小さく咳き込んで、なんでもないよ、と言いたげに手を振った。

「まあ、我慢できなくもないね。たまには順と一緒に吸おうかな」

「我慢するくらいならやめとけ」

そう言って、順も最後の一本を咥える。ジッポに火を灯す。しかし、何度ホイールを擦っても火はつかない。オイルが切れたのだと気付くと、余計に吸いたい気持ちが増してしまった。

「つかないの?」

「オイルが切れた。帰ったら補給しないと」

 翼は順の咥えた最後の一本をじっと見つめ、口角を上げる。

「順。こっち向いて、動かないで」

 翼の方に振り向くと、翼は順の腕を掴んで顔を寄せた。煙草の先が触れて、翼がふっと吸い込むと、火のついていない順の煙草の先を焦がした。翼が顔を離すまでの数秒が、永遠のように思えた。

「……絵馬堂の仕返し」

「……仕返しって」

「抱きしめたでしょ。わたしのこと」

 翼は早口で言いながらそっぽを向いた。盗み見た横顔の、短くなった髪の隙間から覗く小さな耳は、見間違えようもないほど赤く染まっていた。

「あれはお前からだった」

「わたしは非常事態だったから。不可抗力だよ」

 訳の分からない言い訳をして、翼は振り返った。その表情はいたずらっぽく微笑んでいた。

「どう? わたしでもどきどきしたかな」

「うるさい。それ以上喋るな」

「順、顔赤いよ。正直に言ってよ」

「おれは赤くないし、お前は耳まで赤い」

「いや、それはない。それだけはないから」

 どうにもやっていられなくなって、いつもより深く、深く煙を吸い込んだ。

翼の慌てた言葉。それはまるで、この最後の煙草の煙が空の青を映すように、見え透いた嘘だった。


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