貴方の頭を撫でるための3分間

南乃 展示

貴方の頭を撫でるための3分間

 

 ネコ、という生き物を皆さんはご存知だろうか。


 もふもふとして丸っこいボディ、ぴこりぴこりと動かされる耳としっぽ、そして時たまにゃあと鳴く声の愛らしさ。


 吾輩わがはいはネコではないが、あの愛くるしさにやられてしまった人は数多くおられることだろう。


 他でもない、吾輩もその1人である。

 最近、気になるネコひとがいるのだ。


 雪のような真っ白の毛並みはふかふかしていて、ブルーの瞳はまんまるでパッチリと。

 しっぽ周りの毛もふわふわと揺れ、時々なにやら満足げに口をむにゅむにゅと動かしているその子。


 我が家たるアパートの塀の上、あるいは庭先。

 はたまた、外の路上やポストの下。

 吾輩が朝早くに通勤しようという頃合い、いつもその辺りで寝そべっている姿を見かけるのだ。


 もしかしなくてもこれは……相手も気があるのではないだろうか?

 たまに吾輩をじいっと見ていたりするし……こっ、これは!?


 自身がそんなポジティブすぎる考えを持つに至るまで、そう日数は経なかっただろう。

 まるで通学途中にいつも同じ時間に電車に乗ってくるイケメン学生を見る女子高生のように、おのれの頭はとても都合のよい思考回路で組まれていたのだ。


 そうなると、ムダに行動だけは早いのが吾輩だ。


 あの子とコミュニケーションを取りたい、そばに近寄ってゴロゴロと甘えられてみたい。

 あわよくば、モフつく頭をなでなでしてみたい――!


 日に日にそれらの欲望は大きくなり、ただ遠くから眺めるだけでは遂に満足できなくなってしまい……。


 そして通勤前の時間的猶予である3分間という制限の中、吾輩とあの子との戦いの幕が切って落とされたのだった。


 行動開始の初日、まずはストレートに距離を詰めてみることにした。

 結果は惨敗。

 3歩と接近しないうちにぴゃあっと逃げられた。


 次の日、直線で距離を詰めたのがマズかったのだろうと反省した吾輩は、ゆるくカーブを描きつつ接近することにした。

 結果は惨敗。

 カーブの山に差し掛かったあたりで目論見もくろみに気付かれ、逃げられてしまった。

 そのネコひとはとても聡い子なのだ。そこももちろん美点ではあるが。


 さらに次の日、今度はフェイントをかけつつムダにステップを踏みながら距離を詰めようとしてみた。

 結果は惨敗。

 普通に逃げられてしまったうえに足がもつれて転び、出勤前のスーツを土まみれにした己だけがアパートの庭に残された。。


 明くる日は、フェイントをかけつつその子に迫ると見せかけて、実は普通に出勤するという荒業に出てみた。

 結果、普通に出勤できてしまった。

 そりゃそうである。


 そこまでしてから、ようやく自分は悟った。

 無理に近寄る方法はダメだ、非常に良くない、と。


 考えてみれば、かの猫殿たちからすれば我々は図体の大きな巨人も良いところ。

 そんな存在が足音もノシノシと迫ってきたら、そりゃあ誰だって逃げるに決まっている。

 吾輩だって、もし自分よりも数十センチもデカい筋肉モリモリ・マッチョマンの変態が軽快なステップを踏みながら迫ってきたら、それはもう泣きながら全力で逃げるに違いない。


 いや、あのひとに変人が来たと逃げられるだけならばまだマシだ。

 まだチャンスが、翌日に元の場所で再会できる見込みがあるのだから。


 しかしもし、無理やりに迫って逃げられるどころか、ガブリと噛まれでもしたらどうしよう。

 引っ掻かれでもしたらどうしよう。

 果ては、目が会うだけでフシャーと威嚇などされたらどうしよう。


 吾輩はそう、あの子に嫌われてしまうのが怖くなったのだ。

 自身は仲良くなりたいだけであって、無理やりに関係を迫りたいわけでは決してないのだから。


 ならば、と考えこむ。

 夜に帰宅して寝る前、たっぷり3分ほど考えこんでから、脳裏にペカリと閃くものがあった。

 どっかからの受け売りの知識で、こういった駆け引きはこちらから押せ押せで攻めるのではなく、一歩引いて相手からのリアクションを待つことも重要だと聞いた覚えがある。

 相手を自身の手中に誘い込むのだ。


 これはいい。

 そんな天啓を得た自分は、すぐ次の日からまた実行に移すことにした。

 あの子と吾輩の3分間の戦いの再開だ。


 まずひとつ、家から出がけの1分ほどを急ぎアパートの庭を這い回り、かの有名なネコジャラシなる草をむしっと手に入れる。

 そして残り2分を使って、あの子の逃げないギリギリの距離に寄り、ネコジャラシをふりふりするのだ。


 ……が、そのネコジャラシ捜索から入手までの一部始終を塀の上から見下ろしていたその子は、じゃらしを見ても反応しなかった。


 次の日は、ゲタ箱の下に転がっていたゴムボールを手にして出勤し、その子の前でぽいっとボール投げをしてみた。

 散歩していた近所のイヌが猛烈に反応した。

 違う、君じゃない。


 もっとシンプルなのが良かろう。

 視覚でダメなら聴覚に訴えかける作戦だ。


 そう思ってからはその子の近くで、にゃあ(野太い声)と鳴き真似をしたり、逆に裏声で鳴いてみたり、歌ってみたり、シェイクスピアを朗読してみたり、しまいにはボイパをしてみたりもした。


 しかし、どれも結果は惜敗。

 しっぽをゆらゆら、耳をぴこぴことさせるのみでなんともすげない反応であった。

 ちなみに、一番反応してくれたのはボイパだった。

 なぜだ。


 他にも、とある日は自身も猫に近づけばあの子も警戒心を解くだろうと、自作のネコミミを付けて毎日挨拶をしてみたりもした。

 まあ、あまり効果はなかった気もする。


 むしろ通勤電車にネコミミを装着したまま乗り込み、前の席の小学生にめっちゃ写真で撮られてから気付いたこともあった。

 もしもネコミミを付けたスーツ姿のやからが真顔でスマホいじりなどをしている写真がSNSで拡散されていたら、それは間違いなく吾輩である。


 作戦の一つには、ご飯を献上するという作戦もあった。

 そう、プレゼントで好感度を上げる作戦だ。

 とてもありがちな手法ではあるが、それゆえに効果の高いことが実証されている手法でもある。


 これは本当に惜しかった。

 近所のコンビニで買ってきたネコ用おやつをいつもの塀の上に置いておけば、すんすんと鼻を鳴らしながらそれに寄ってくるあの子の愛らしい御姿。

 やがて鼻先をおやつに近づけ、ちろりと舐めてみせる。


 これは……やったか!?

 遂に有効打を放ったと見た吾輩が物陰でこっそりガッツポーズをしようとしたところで――しかしその子はフイッと横を向いてしまった。


 この時ほど己の無力を嘆いたことはないだろう。

 そんな、プレゼントすらも受け取ってもらえないのか。

 いったい、なぜ。

 アパートの物陰に潜む自身こそすこぶる不審なれど、おやつ自体には何も怪しいモノなど入っていないというのに。


 あるいは、かのひとは普通のコンビニ売りのオヤツでは満足しないグルメさんなのだろうか。

 吾輩にとっては高嶺の花、いや高へいのネコだったというのだろうか。


 その後“ハトやノラ猫にエサをあげてはいけません”の看板を付近で見つけてしまった自身は、会心のアイデアだったはずのプレゼント作戦すらも断念せざるを得なくなってしまったのであった。


 そうして。

 あれもダメ、これもダメと、どのアプローチも上手くいかないまま数日が過ぎ。


 いよいよ打つ手なし、と自身が若干の自暴自棄の様相を示し、酒やギャンブル――はどちらも苦手なので、一日一杯の豆乳飲料とスプラトゥーン2――に溺れかけていたところ。


 そんな時分に見つけた悪魔の誘い、禁断の技に吾輩は手を出してしまった。


 猫にとって劇的な効果があると言われる、そう――マタタビである。


 Amaz◯nの広告を見て衝動的にそれを買ってしまい、マタタビ粉末の詰め瓶などという現物が届いてから吾輩はたいそう後悔した。


 確かにあまねく猫殿らは、マタタビに相対すればその誘惑に下されてしまうかもしれない。

 デレデレになってしまうかもしれない。


 しかし、それは本当に友好を深めたと言えるのだろうか?

 人で言うところの惚れ薬や、良くない催眠的なサムシングと変わらないのでは?

 ぶっちゃけチートでは?


 吾輩は悩みに悩んだ。

 しかし己も一匹の社畜、朝を迎えれば否応いやおうにも通勤の時間はやってくる。

 あのひとと逢瀬のできる貴重な3分間、それを悩みごとに費やして終えるのは勿体がなさすぎるだろう。


 やがて戸外に出た時、己の手にはマタタビはなかった。

 これでいい、この3分の勝負は正々堂々としたもの、お互いの意思を尊重するものでなければならない――と。

 嫌われてガブリと噛まれるのは悲しいが、それよりも意に沿わない相手を強制的に従えるのはもっとよろしくないだろう、と。

 そうして邪道を捨て、新たに次の戦いに挑もうと意気込んだのだ。


 だがその日の朝、あのモフモフした大福のような子はいなかった。

 どこにも姿を見かけなかった。


 次の日も。


 その次の日も。


 突然、その日を境にあのひとはぱったりといなくなってしまった。


 ……猫は気まぐれなもの、そういった話はよく聞くし、自身もよく理解していたはずだった。

 はずだった、のだけれど。

 なんとも寂しい決着になってしまったな、と。


 もしかしたら、単にナワバリが変わって場所を移しただけのかもしれない。


 もしかしたら、良きつがいでもできて、幸せに去っていったのかもしれない。


 もしかしたら……あまり想像したくはないが、不運な事故が起こってしまったのかもしれない。


 どれもあり得る話だ。

 しかし、どれもあまり認めたくはない話だった。


 でも自分が意固地に認めずとも、さらに何日も塀の上の留守が続けばそれはれっきとした事実になる。


 もうあのひとはいなくなってしまったのだ。


 あの子の頭を撫でたいがための3分間を置き残して、そのうち自分もやがて日々のルーチンワークに戻っていってしまうのだろうか。


 それは嫌だな、と心の隅で思う自分がいた。


 あの3分間は、自身の中でえのない3分間だったのだから。


 置いていかれた者がたまにその時のことを思い出すことくらい、バチは当たらないと信じたい。



















 まあ少しくらいは形のあるもの、スマホの写真で撮ってたり、はたまた手に噛み跡でも残っていれば懐かしむにもやすいし、笑い話にもなったんですがね――――と。


 最近の朝に知り合った、アパートの隣室の入居者さんとそんな話をしていた時のことだった。

 朝の出勤前、ぼうと玄関から外を眺めていたのを見られたのが向こうとの出会いのきっかけだ。

 そんな相手がこう言ったのだ。


「あ、ウチの子のことです? それって」


 ………………。


 ……なぬ?


「ちょっと持ってきますね」


 そう言うなり部屋に引っ込み、よいしょと言いながら出てきたのはすぐその後。

 抱きかかえられていたのは、もふもふした雪のようなまるっこいかたまり。

 地面に降ろされて眠そうな目が開けば、鮮やかなライトブルー。


 間違いない、あの子だった。


「ずっと放し飼いにして自由にさせてたんですけど、最近首らへんにケガしちゃって。悪化するとたいへんだから室内飼いにしてたんですよねぇ」


 なるほど。


「朝ごはんの時だけ戻ってきて、だいたいこのくらいの時間だとお腹いっぱいになって塀の上で寝ちゃってるんですよ」


 なるほど……!


 まさか飼い猫だったとは思いもしなかったが、そういや首輪をしていたような気がしなくもない。

 しかしまた逢えるとは、なんという。


でてみます?」


 こちらのウズウズを悟られたのか、そんな提案を受けてしまった。


 しかし、いやしかし。

 恥ずかしながら吾輩は生まれてこのかた、猫を撫でたことのない身の上である。


 はたして良いのだろうか?


「首の後ろあたりとかいけるんじゃないですかね?」


 ……噛まれたりしない?


「そんなメチャクチャに嫌われてなければ大丈夫ですって、きっと」


 しゃがみ、おそるおそる手を伸ばす。

 じわじわと距離を近づける。


 とりあえず、アドバイスにあった首あたりをぽん、と。

 うわ、すごくふかふかしてる。


 たまらずなでりなでりと毛並みに沿って手を這わせる。

 おお…………おお!


 なんだろう、言葉では表現しづらいけどすごい幸せな気分だ!!

 あえて表現するなら、もっふもっふだ!


 あっ鳴いた!

 ノドをゴロゴロ鳴らすってこういう事なのか!!

 すっ、すごい!! なんかすごい!!


「あははー」


 この子も気に入ったみたいです、とその様子を見て笑っている飼い主さん。

 イヤがってもいないし噛みつこうともしないし、案外好かれてるのかも、などと嬉しいことを言ってくれる。


 もしかすると、あの前々からのアプローチが功を奏したのだろうか。

 そうか、あの3分間の日々は無駄ではなかったのか。

 それはとても、とても嬉しいことのような気がした。


「シナモン、なでなで好きだもんねー?」


 なるほど、このひとはシナモンさんというのか。

 今まで名前も知らなかったことに気付き、しかしこれからゆっくりといろんなことを知っていけばいいだろうと思い直す。

 もう吾輩らの時間は3分だけでなく、もっとたくさんあるのだから。


 飼い主さんもしゃがみ込み、その子に手を伸ばす。


 ……と、くわっとその子の口が開かれた。

 頭の後ろ側に伸ばされた手に、ぐるりと顔が向けられる。


 次の瞬間にはバクンと。


「いだぁ!? くそぉ、この流れなら私もいけると思ったのに!」

 

 いや、あんたは噛まれるんかい!

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