仁科君8
先生が佐多さんと鈴木を家に連れてきたときは、どうしよう、人生終わった、と思ったけど、全然そうでもなかった。むしろ自分の気持ちに正直になれて、清々した。翌日普通に学校に行くのは、自分がまるで三人の訪問に気持ちが揺らぐような単純な人間だということの証明みたいで、一瞬だけためらわれたけど、結局いつも通りに家を出た。母さんはもう何も言わなかった。学校を休み始めた日から、口をきいてもらってない。
どうして母さんとはいつもこうなるんだろう、と思わないこともなかった。会話のない中でも毎日弁当を用意してくれている。そのことが一層、罪悪感を刺激した。まるでぼくがすごく自分勝手な人みたいだ。実際そうなのかもしれないけど。
身支度を整え、
「行ってきます」
と家を出ようとすると、父さんが出てきた。
「今日は、行くのか」
「うん。あんまり休んだら授業ついていくの大変だし」
「そうか。大変だな。頑張りな」
「ありがとう。父さんも、頑張って」
父さんは、気まずそうに鼻の頭を人差し指のさきっぽでこちょこちょ掻いた。
「母さんも、お前が心配なんだよ」
わかってる。ぼくは口の中で言葉を転がす。
「気持ちはありがたい」
「うん」
「でもぼくの判断も信じてほしい」
自分の気持ちが口からすっと出てきたことに、驚いた。以前は、いつも上手く話せないで、兄さんがぼくの言葉を両親に翻訳してくれていた。不安に思って父さんの顔を見上げる。父さんは黙って、でも力強く、頷いていた。
通じてる? ほんとに?
「行ってらっしゃい」
父さんが言った。行ってきます、と口の中で呟いて、踏み出した一歩が予想以上に力強く、足取りが軽く感じる。
昼休み、佐多さんを誘って図書室へ行った。図書委員がだるそうにぼくらを見る。借りていた本を返して、ぼくは佐多さんを座らせた向かいの席に座った。
「仁科君、私」
佐多さんが真剣な顔でぼくの顔を見つめる。
「知ってる。鎌田が好きなんでしょ」
佐多さんは大きな目を真ん丸に見開いて、頬を赤くした。
「鈴木に聞いてて知ってたんだ、ごめん」
佐多さんが細い眉根を優雅に寄せる。
「鈴木君が? なんで」
「あいつ変なとこ鋭いんだよな。それで喧嘩になったみたいなものでさ」
佐多さんが、え? と言ったので、ぼくは、しまった。と思った。
せっかく昨日詳細を話さずに済んだのに。うっかり失言してしまった。
結局黙っていることができなくなって、佐多さんに一部始終全部を話した。学校に忍び込んだこと、佐多さんのクロッキー帳を勝手に見たこと。そのあとに起こったこと。全部。
黙って耳を傾けていた佐多さんは、不意にぼくの手をがっ、と力強く握り、「待ってて」と言い残して書架の方へ走った。
「これ」
佐多さんが走って取りに行った本は『車輪の下』だった。
「ここ」
ばん! と開いた。
「この小説に主人公と親友がキスするシーンがあるんだけど」
佐多さんの目がいつになく爛々と輝いている。こういう状態を表す慣用句、なんて言うんだっけ、水を得た魚?
「これだよ……」
佐多さんは力尽きるように、ふらふらとぼくの隣に座り直した。
「愛」
佐多さんがぼくの目を見る。すぐ真横から、少し見上げる形で。
「いや、ないないないないないない」
ぼくは顔の前で右手を一秒間に六十回くらい扇いだ。
「あるよ」
佐多さんはぼくの手を両手で包み込むようにして握り、じっと目を見た。
「よく思い出して。鈴木君私に接するときと仁科君に接するときと全然態度が違うもん」
そう言われてみても、全然ぴんとこなかった。
「いやもう、おれは、忘れて、って言われたから忘れたいんだって」
「それが鈴木君にとっての愛情なんだって、なんでわからないの?」
佐多さんはもどかしそうにぼくの頬を両手で勢いよく挟み込んで潰した。実質やわらかいビンタだった。こんな女子と距離近いこと今まであった? なかったなかった。っていうか人間とこんな風に触れ合うの、小さかったころ以来だ。
「あーーーーーーーー」
佐多さんは舞台女優みたいな大きな動作でわかりやすく頭を抱え込んで、机に倒れこんだ。それからふとぼくの顔を見て、「人の恋路ってめちゃくちゃ面白いね」と笑った。
「いまわたし、鈴木君の気持ちがすこしわかった」
******************
佐多さんに愛だ愛だと説得されて、全然わからなくなってしまった。愛っていう言葉自体がゲシュタルト崩壊を起こしていた。
そう言えば今日は一度も鈴木の姿を見ていない。
会いに行くべきだろうか。挨拶くらいすべきか。
でも佐多さんのせいで、鈴木にいつも通り接する自信がなかった。変なことを言われ続けると、さすがに意識してしまいそうだ。どうしよう。と思っている間に放課後になった。
二学期に入ってからずっとあいつとつるんでたんだと思うと、不思議だった。友達。一緒に帰ったり、放課後遊んだりするような友達ができたのは初めてだった。嫌な奴だけどなんか憎めなくて、ほんと楽しかったんだけどな。
いや、好きな奴そんな急に押し倒したりする? 痛かったからね。本気で。佐多さんには怖くて言えなかったけど、めちゃくちゃ首を絞められているし。殺意しかなくない? 愛とか侵入する余地ある?
だから鎌田が要は嫉妬でしょ、って言った時、納得したんだけどな。ほんとは憎まれてたのかな、と思って。
愛とか絶対ないでしょ。とか思いながら廊下を歩いていると、ドン、誰かと肩がぶつかった。反射的に謝る。
「あ、ごめ」
鈴木だった。鈴木はぼくを一瞥もしないで、クラスメイトと話し込んでいる体で通り過ぎて行った。
黙って曲がり角まであいつを見送ったあと、得体の知れない感情に戸惑って、一瞬なにも考えられなくなった。なんだこれ。この胸の痛み。うずき。息が出来なくて、何も考えられない。
自分でも自分がよくわからなかった。鈴木に無視されて、傷ついている?
まさか。
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