仁科君7

 鈴木が泣きそうな顔を初めて見た。いつも不遜だから、珍しい。泣きたいのはぼくの方なのにな。絵って心が伝わってくるものなんだなぁと初めて知った。温かみとか、熱みたいなもの。時間とか空間の広がり。時間が止まればいい、っていう祈りみたいなもの。描き手が絵の中に閉じ込めようとしたもの。

 佐多さんは鎌田のことが好きみたい。それは信頼とか思慕とか呼ぶべきものなのかもしれないけど。佐多さんの目を通して描かれた鎌田は絵なのに厚みがあって、上手いわけじゃないのに、よかった。よい、としか言い表せない微妙なニュアンス。好き、に言い換えられるかもしれない。佐多さんが好き、と思っているのと同じ分量だけ、その絵を好きになってしまいそうな、不思議な力。プレゼン力、というのか。よさ、伝われ。みたいなことかもしれない。



 鈴木の手は冷たかった。ぼくの顎の線をすっとすべるように撫でて、そのまま地面に落ちて行った。


 ときどき鈴木のことが、テレビで見た、怯えた保護犬に重なる。人間が触れようとするたび身構えて、体を固くして、唸る犬。怖くないよ、と言ったところできっと信じないだろう。でもどうしてだろう。放っておけない。気がかりだ。思いっきり撫でてみたい気もするけど、きっと噛まれてしまうだろう。

 


「お前ほんと、お人よしというかなんていうか」

 鈴木がやっと口を開いた。


「怒ったりしないよな。不気味なくらい」

「お前がイライラし過ぎなんだよ。なんでそんな怒ることがあるわけ」

 ぼくは笑う。


「わからんけど。目に入るすべてのものがムカつく」

「なんで?」

「存在自体が、ムカつく。死んでほしい」

「おれにも?」


 鈴木は一瞬動きを完全にとめて、あえぐように口を動かした。それから顔を歪める。


「お前らはなんで俺に理由を訊くわけ? 佐多にしろ、お前にしろ」

「え、だって」

 だって、なんでって言われてもそれは


「お前が気になるから」


 知りたいから。知りたいから? なんか違う気がするな。佐多さんが理由についてなんか言ってたな。理由があったら、むしろ死なない。みたいなことを。そのときはひどい詭弁だと思ったけど。あれで佐多さん、なかなか真剣だったみたいだし、一理あるのか? いや、ないのか。わからん。理由を訊くのって、本当はむちゃくちゃ暴力的なことなのかもしれない。いや、わからないけど、でも。


「聞きたい」

 ぼくは言い直した。

「お前の話が、聞きたい。」


 鈴木がふっと笑った。いつものあざけるような顔。



「理由なんかない」

 独り言のように、鈴木が言った。すぐにぼくの方を見上げて、言い直す。


「理由なんかない。ただ壊したい、奪いたい、めちゃくちゃにしたい」

 ぼくは笑って言う。


「駄々っ子か」


 次の瞬間、ぐい、と襟元を掴まれて体ごと引き寄せられた。唇を押し当てられる。痛い、と思った時には唇を噛まれていた。血の味がする。それから顎のあたりに軽く唇が押し当てられて、鼻の頭を噛まれた。

「え」

 口を開こうとした瞬間、首を絞められた。気道が圧迫されて苦しい。姿勢が崩れたところをそのまま、床の上に押し倒された。少し角度を変えるだけで、見慣れているはずの美術室が、ぜんぜん知らない場所みたいに思えた。見知っているはずの相手が、ぜんぜん知らな人みたいに思えた。首に込められた力が徐々に強くなる。

「かはっ」

 喉の奥から乾いた音がする。排水溝から空気が逆流するときの音に似ていた。

「苦しい?」

 鈴木が尋ねてきた。首を絞められながら胸を膝で圧迫されてるんだから、苦しいに決まっている。見てわからないの? バカなの? ど、ど、ど、ど、ど、ど、こめかみが脈打っている。耳の奥が潮の音で満たされている。潮ではなくて自分の脈動なのだろう。苦し紛れに鈴木の手首に爪を立てた。首にかけられた力は、弛むどころかますます強くなる。息ができない。目の前がぼうっと白くなる。たすけて、と言いかけて、舌が回らなかった。首を絞めている鈴木の手を握る。強く、つよく。


 そのとき不意に、首を絞めていた手の力が弛んだ。馬乗りになった相手の顔は涙で滲んでよく見えない。急に呼吸ができるようになったことに驚いたのか、ぼくはえずいた。鎖骨の辺りを鈴木の指が撫でる。指は首筋から顔の輪郭を撫でるように、耳元まで上がってきて、そっと髪を掻き分けて後頭部を触った。


「悪かった。忘れて」


 囁かれた言葉の意味を理解する前に、鈴木はぼくを置いて美術室を出て行った。

 ぼくは地面に寝ころんだまま、荒い息を隠し切れない。

 背中を預けたタイルの冷たさ。明かりのついていない美術室のほの明るさ。

 どくどくと音を立てて流れる血潮。あこちに残る痛み。


 しばらくそのまま、起き上がれないでいた。







「え、鍵開いてる」

 不意に低い声がして、びくっとして起き上がった。まだ喉が枯れたように痛い。走馬燈的なものを見るかと思ったけど全然見なかった。ただ痛くて苦しいだけだった。なんで。

「誰かいるの」

 声だ。鎌田の声がする。見つかったらやばい。たぶん。でも逃げ出すどころではなかった。窓の鍵も、後ろのドアの鍵も閉まっているし、唯一の出入り口は鎌田がふさいでいる。ぼくは諦めて床に体を投げ出した。きゅ、きゅ、と床と靴がこすれる音。鎌田が歩き回る音。ぼくは目を閉じる。


「仁科」

 目を開くと、鎌田の顔がさかさまにぼくを覗き込んでいた。

「はい」

 ぼくはかすれた声で答える。名前、覚えられていたんだ。

「なんでいるの」

「すいません」

 ぼくは体を起こした。軽くめまいがして、天井がぐるりと一回転する。

「うわ、あざ」

 鎌田が言った。

 あざ。

「え、首。あざになってる」

 ぼくはとっさに首元を隠すように手で覆った。咳が出た。

「大丈夫か」

 鎌田はぼくを助け起こして、椅子に座せた。それからもう一つイスを持ってきて、机を挟んでぼくに向き合うように座った。



「まず、なんでここにいるか聞いていい?」

「友達と、待ち合わせしてて」

「鍵は?」

「え。そいつが。持ってて」

「それってだれ?」

「……。」


 ぼくは黙った。言いたくなかった。


「何があった? 首。すごいことになってるけど」

「うん、これは、あの」

「それも言いたくない?」

 沈黙。はこの場合肯定を意味してしまうかもしれない。

 それでもぼくは沈黙した。先生がため息を吐く。

「外部の侵入者とかじゃないよな」

「はい」


 尋問。小さいころにいたずらしたことを思い出す。兄の大事なゲーム機を壊してしまった時のこと。父さんがぼくを呼んで。こんな風に二人で話をした。兄さんがやってきて、ぼくを怒らないで、と父さんに言った。「触ってみたかっただけなんだよな」兄さんは言った。そう言われると、自分がなぜ兄さんのゲームにいたずらをしたのか、自分でもわからなくなった。触ってみたかっただけ。そうなのかも。


 ほんとうはもっとぼくと遊んでほしかった。ゲームじゃなくて、ぼくと。

 だけどその気持ちは言葉にならなかった。


 結局ぼくらはお年玉を出し合って、新しいゲーム機を買った。

 兄さんがぼくを怒ったことって、あまりない。


「けんか?」

 ぼくはうなずいた。けんか。あれはけんか。

 けんか? ぼくは喧嘩の仕方も良く知らない。

 いつも兄さんが譲ってくれていたから。

「相手は鈴木?」

 ぼくは弾かれたように顔を上げた。肯定しているのと同じことだった。気がついた時には遅くて、ぼくはまた深くうつむいた。

「お前ら最近仲良かったよな」

 ぼくは答えない。沈黙は肯定の意味を持ってしまっている。なんの色もなかったころのあの静けさは、取り返せない。ぼくの目線が、反応が、沈黙に意味をもたせている。

「またなんで急に」

 と鎌田が言った。ぼくはさっきの感触を思い出して、無意識に唇をぬぐった。

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