鈴木君7
俺を忘れないで。俺のことを。俺の声を、存在を、気配を。忘れないで。俺が死んでも、覚えていて、いつまでも。一生、墓に入るまでずっと。そのためなら俺は、お前の心臓に、永遠に残る傷跡を残す。痛みが俺の存在を刻みつける。お前の脳に、体に、心臓に、記憶に。
死んでいく生き物の目に自分が映っている。俺の存在が閉じ込められる。濁っていく目の中に、脳の中に、魂の中に。流れ出る血が、むき出しの臓器が、あまりに美しくて涙が出る。心臓の奥に確かに生ぬるく宿っている存在を感じる。体の奥底を温めてくれるような、愛。愛としか呼べないような、感情。失われていく祖母の体温。下がっていく温度。それだけが自分が頼りにできるものだった。縋っていいものだった。今はもうない。だから。
魂が体から抜け落ちる瞬間だけ、そのときだけ、目の前にあるものを本当に信じられる気がする。
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仁科と話しているとめんどくさくなくていい。あいつみたいになにもかもに鈍感だと、きっとずっと生きやすいんだろうと思う。仁科は佐多が好きだという。女を、というか人間を見る目がないんだろう。俺といて平気なくらいだから。そんな調子でこの先大丈夫なのか、と言いたくなるけど、言わない。でもなんていうか、仁科のことは嫌いじゃないけど。
ときどき、無性に仁科のことを傷つけたくなる。一生癒えない傷を負って、俺のことを恨み続ければいいのにと思う。自分にそんな感情があることが、気持ち悪くて仕方がない。でも不思議なことに、一度生まれてしまった感情はなかなか消せなかった。なるほど。これは大変だ。
仁科の気持ち悪さが少し理解できた気がする。誰かのことを考えていると、勝手にキモくなるらしい。へぇ。道理でみんな気持ち悪いはずだ。
仁科の心がずたぼろに引き裂かれるところを見たい。仁科の落ち込んだところが見たい。仁科を傷つけることができるのが俺だけならいい。なるほど、これは恋かもしれなかった。
一度仁科を家に呼んだことがある。自分の部屋に異物を入れるのは初めてだった。仁科は俺が佐多を好きだと思っている。なんでわからないんだろうな。人間って相手のことを案外把握していない、見ていない。他人のことにはこれっぽっちも興味のない俺の方が、却って人間の意識や好き嫌いについて詳しいくらいだ。滑稽だな。お互いに。
相手のことを自分本位に受け取るのがが普通なんて、絶対いかれてる。たぶん頭がどうかしていると思う。正気の沙汰ではない。
失恋に気がついた仁科の顔を見るのはけっこう興奮した。楽しかった。なんか、生きてるって、感じがする。俺のためにああいう顔をしてほしい。あいつが傷つく原因が俺ならいいのに。
佐多が好きな相手に気がついた仁科はどうするだろう。どんな反応をするのか見てみたい。仁科の感情の変化だけが、俺の心の表面を粟立たせる。心が反応して初めて、俺は自分がそれを持っていたことに気がつく。普段は忘れてしまっているのに、時々唐突に自己主張しだす気まぐれな器官をもっていて、人生はままならない。
四六時中『心』に意識を奪われていたのでは、正常な思考力を損なわれて当然だな、とも思う。だからまともな人間に少し同情したくなる。
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仁科と待ち合わせて休日の校舎に忍び込んだ。
「見せたいものがある」
とだけ伝えていた。
薄暗い階段を上る俺の後ろを、仁科がおっかなびっくりついてくる。
「え、なんでお前鍵持ってるの?」
美術室の鍵を開ける俺を見て仁科が言った。
「なんでってそれは、盗んでコピーしたからだけど」
仁科は怪訝そうな顔で俺を見た。俺は気づかないふりをして美術室に侵入した。
棚の中に各クラスの生徒のクロッキー帳が保管されている。時々勝手に引っ張り出して眺めていた。けっこうおもしろい。でも今日は用があるのは一冊だけ。
佐多のクロッキー帳を引きずりだして、パラリとめくって見せた。鎌田の絵が出てくる。良い絵だ、と思う。この中に書かれている絵の中で一番の出来だ。仁科はクロッキー帳の上に書かれているものに気がついているはずなのに、何も言わなかった。言葉が出なかったのだと思う。それからそっと、仁科が俺の手に触れた。
「だめだよ」
予想していない反応に一瞬理解が遅れる。
「他人の心を暴くような真似はよくない」
仁科はそう言って、ぱたん、とクロッキー帳を閉じた。
がっかりした。のだと思う。心に空白みたいなものが生まれた。それから妙にもやもやした。イライラした。なんでだよ。なんで。
「なんで」
言葉が自然と口をついて出た。頭の中と連動して動いているような口に自分でも驚く。普段はこうじゃない。心も言葉も体も、どれも完全に切り離されている。なのに今は。
もっと落ち込んだリ、取り乱したり、してくれてもいいのに。
なんで、なんでなんでなんでなんで。
そんな顔、してるんだよ。平然と、諦めたような。
仁科は黙って俺の手からクロッキー帳を抜き取り、元あった場所に戻した。
それから仁科の黒い目が、犬みたいに丸い目が、俺を見上げた。申し訳なさそうにも、憐れんでいるようにも見えた。仁科の目があんまりつぶらなので、その目の中の光とか感情とかすべてを奪いたくなる。ほしい。
手を伸ばすと、案外簡単に仁科の頬に触れられた。壊したい。絶望が欲しい。いらない。愛されたい。今ここでこいつの横っ面を張り倒したらどんな顔をするんだろう。そもそも俺が壊したいのは何なんだろう。こいつの体だろうか、心だろうか。それとも築いてきた関係の繋がり。積み重なってきた今までの時間。信頼。に似たもの。を踏みにじって愛でたいのかもしれない。それともそんなものを感じていたのは自分だけだったという、絶望がほしいのかもしれない。
仁科の目に俺が映っている。仁科の目を通して見た俺は。なんだか。俺が知っている姿より、ずいぶん小さく見えた。
肚の底に留まったなにかが存在を訴えてくる。俺はそんな体の奥底から響いてくる声を上手く翻訳できずに、黙っている。声が出ない。でも何かが口から出ようとしていた。自分でも自分の体の底に何が待ち構えているのかわからない。ただ苦しくて、もどかしくて、今にも吐きそうな気持ちで。
「なんでお前が泣きそうなんだよ」
と仁科が言った。
俺は初めて自分が泣きそうな顔をしていることに気付いた。
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