07
あの子は本当に私の子供なのだろうか。自分の体から得体の知れない生き物がずるりと生まれ落ちた瞬間のことを、今でも鮮明に思い出せる。でもその生き物が血を分けた愛しいわが子だという感覚は、いつまで待っても得られなかった。ただ気持ち悪い、クリーム色の胎脂に包まれた、血まみれの生き物。眉をひそめて体を震わせ泣いている、できそこないの、細い体。顔の表面に切れ込みのように走る目の隙間。赤ん坊はぱちりと濡れた目で私を見た。真っ黒な光が私を見た。仄暗い世界の手がかりの一つとして、私を求めている。それがはっきりとわかった。
ぞっとした。
ミルクを求めて泣いている声。獣の声に似ている。鳴き声なのだ。唐突に理解する。言葉も、声も、すべては鳴き声なのだ。小さな手が私の指を握った。
「お母さんにそっくり、きれいなあかちゃんですね」
看護師が言った。冗談はほどほどにしてくれ、と微笑んで見せると、彼女は恥ずかしそうに赤ん坊の体温や便の様子を聞き取って部屋を出て行った。個室を頼んでいたので部屋は広かった。コックに入った赤ん坊が意味もなく震える。生まれてきたのが恐ろしいのだろうか。
赤ん坊は夫に似て醜かった。
どうしても赤ん坊を抱く気にはなれなかった。夫や義母が代わる代わる病室を訪ねてきては、嬉しそうに抱いていた。うまれたての赤ん坊は、ぐやぐにゃと柔らかく、不気味だった。おくるみのなかでうごめいている。
退院した私は早々に授乳を切り上げ人工乳に切り替えた。授乳を辞めてもしばらくは乳が張る。熱を持った時は心配したけれども、そのうち治まった。自分の乳房の形には誇りを抱いている。形が崩れてほしくない。
子供のことはどうしても好きになれなかった。成長して幾らかマシになったとはいえ、容姿が優れているとは言い難かったしし、妙に頭がよく口が回ることも腹立たしかった。何度追い払っても、冷たく接しても、私を求めて近づいてくる。「おばちゃんがいるでしょ」「パパのところへ行っておいで」何かにつけ理由をつけて突き放した。それでも子供はかならず私のところへやってきた。殴っても、蹴っても、投げても、キリがない。義母がつけた名前は呼ぶ気にすらならない。祐一なんて。何の特徴も面白みもない名前。可哀そうに。
「可哀そうに、あなたは醜くて、とても見ていられない容姿をしている」
私をまっすぐ見る子供の目。黒い目。
「誰にも必要とされない子なのね」
その時私は珍しく子供の髪を撫でた。細くて黒い毛は、素直にまっすぐ伸びていて、指先に触れると柔らかく、思っていたよりも、心地がいい。
「本当に可哀そう、せめてもう少し美しく生まれていたら良かったのに」
子供が私の目を見上げた。何の感情もない、黒い目。
次の瞬間には、同情心すら忘れて、私は子供のことなんかまったくどうでもよくなってしまっている。蔑むような、倦むような目をした子供が無性に腹立たしくて、頬を打った。この子はなにをされても、何を言われても、泣かない。怯えない。きっと恐れを知らないのだろう。時々そのことが無性に恐ろしくなる。
「あなたは他人のことなんか興味がないと思ってるんでしょうけど。いつまでも若く美しくいられるわけじゃないのよ」
義母に言われたことが不意によみがえって、私は子供を激しく打った。何度も、何度も。
そのうち子供は火がついたように泣き出す。その声は私を糾弾するようで、私は一層激しく彼を打つ。
「お願いだから少しはあの子のことを考えてあげて。それが人の心ってものでしょう、あなたも親なら、わかるでしょう」
義母の声が私を責めるように響く。丸まった腕の隙間から、子供の目が私を見た。泣き濡れた目が孕んだ憤怒と、憎悪の色。背筋がぞくりとして、子供の体を壁に打ちつける。母親とか、母性とか、めまいがするほど醜悪なことば。私の体も、心も、私のためにあるものだ。あなたたちのものじゃない。
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俺を消さないで。
俺がお前に一生消えない傷を与えてやるから、その代わりお前は、お前だけは、俺を一生忘れないで。俺を消さないで、お願いだから。
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