佐多さん4
図書委員は二人セットで活動するようになっている。でも生憎、もう一人の担当の子が休みだった。そもそもみんな、委員会活動にあまり熱心じゃない。私はなりたくて図書委員になったけど、他の子はじゃんけんに負けて、いやいややっている。らしい。
お昼を食べてすぐ、図書室の鍵を開けに行く。鍵の管理と書籍の貸し出しが図書委員の仕事だった。
いつも人はあまり来ない。図書室は日当たりが悪いし、背表紙の褪せた、旧い蔵書ばかりで、人気がないのだ。だから私は、いつも思うような本を読んでいることができた。でもその日は。
図書室に入ってきた男の子の姿を見た瞬間、あ。と思って体が凍った。あの子、鳩の子だ。こわい。目を合わせないように顔を慎重に伏せる。急に動くと目をつけられそうで怖かった。そもそも学校で鳩を殺すような異常者が、まともな顔をして学校に通っていることがもうすでに怖い。恐怖だ。
あ、こっちに来る!
「ねぇ、この本探してるんだけど」
紙のメモを見せられた。タイトルを打ち込んで検索する。館内に在る。書架の番号の書かれた紙を男の子に渡す。
「わかんねぇよ、出してきてくれる?」
私は出来るだけ、できるだけ普通に見えるように、そうっと動いた。体が緊張でうまく動いてくれない。ぎこちなくなってしまう。関節が音をたてて軋んだ。
「そんなに怖い? 俺のこと」
耳元でささやかれて、ぞっと背筋に悪寒が走った。思わず持っていた紙を落としそうになる。
「蜂のことまだ怒ってる? ごめんな」
「えッ」
心臓が動く音が耳に響いて痛い。
「そんなに怖がるなよ、傷つくだろ」
そう言って男の子は笑った。気が遠くなりそうになる。それともあれは夢だったんだろうか。私が見た、小さなころの、夢と現実の境界がおぼろな頃の、幻覚で、私が抱いている恐怖はまったくなんの根拠もない、神経症的な、なにか症状に近い、それこそ私の自意識過剰が引き起こす、ものなんだろうか。あんなに生々しく、地面の感触を覚えているのに?
「美術の鎌田から聞いた。あのあとお前学校休んでたって?」
「あ、」
「俺のせいだったら、謝るよ。ごめん」
どうしよう? 頭の中がぐるぐるしてまとまらない。
「あいつああいう顔して意外と生徒想いっていうか、良い奴なんだな」
男の子があまりに屈託なく笑うので、私の感じている恐怖が、あまりに価値のないものに思えて、一瞬頭が真っ白になった。
「大丈夫? 顔真っ白だけど。でかい図体して、意外と繊細だよなw」
男の子の顔が不意に私の耳元に近づいてきた。
「それとも、あのときのこと、まだ覚えてるの」
体が震えだす。
「私、誰にも言ってない」
胸が押しつぶされそうになる。
「そういう問題じゃねぇよ」
男の子の足が私の足にかかって、床に手をついた。衝撃で少し手首をひねったかもしれない、痛い。
「俺、お前みたいな女が一番嫌いなんだわ」
死ねばいいのに。吐き捨てるようにその子は言った。男の子が本棚を蹴り飛ばした衝撃で、どさどさ、って体の上に本がたくさん落ちてきて、でも、痛い、っていうのはなぜかそのとき全然感じなかった。
心臓が痛いときは、体の痛みを感じないんだなぁ。
ってただ、思った。
**********
「大丈夫か?」
そのとき私が何を考えてたか、自分でもよくわからない。本を片づけなきゃだとか、誰か来て本を借りたいって言ったらどうしよう、対応できる人がいないなとか、いろんなことが頭の中をめぐって、それなのに、指の一本すら動かせない。頭の中はものすごい速さで色々なことが駆け巡っているのに、体がそれに少しも追いついてくれないのだ。
近づいてきた男の人の影を見て、ようやく私は少し顔を上げることができた。
「先生?」
なんで美術の先生がここにいるんだろう。そのときは気がつかなかったけど、今思うと、男の人への恐怖心とか、完全にマヒしていた。感情って、ある値を超えると、全然働かなくなるんだなって思う。
「怪我はない?」
覗き込んだ先生の黒目が私の額辺りをじっと見ていた。私はうなずく。実際には、自分が怪我をしているかどうかすら定かではないのだった。なにもわかららない。何も。断片が頭の中をいっぱいに埋め尽くしていて、何一つ言葉にならない。声にならない。行動に繋がらない。
鎌田先生の手が体の上の本を払ってくれて、ようやくなんだか、触れているタイルの冷たさに気がついたりして、ああ、私はまだ現実にいたんだ、みたいな風に思えた。先生は棚から落ちた板を拾い上げて、怪訝そうに言った。
「棚が外れたのか? ネジが折れてる」
ネジが?
その時急に心臓が何かを思い出したみたいに、バックバク動き始めて、困った。堰を切ったみたいに涙があふれてくる。
「え、ちょっと?」
先生も困っている。それはわかるのに、全然涙、止まらない。どうしよう。嗚咽になって、しゃっくりになって、でも、それは泣いてるっていうか、叫んでるみたいだった。あ、もしかして私、あのときも叫びたかったのかな? だれかに叫び声を、聞いてほしかったのかな。怖かったって、聞いてほしかったんだろうか。って気がついた。
大きな手が、ためらいがちに背中に触れて、あたたかいなぁって、思った。
「痛かったな、ひとりで怖かったよな、ごめんな」
なんで先生が謝るんだろう?
でもなんだろう、すごく、安心する。
先生の体にもたれかかったら、思っていたよりすごく広くて、制汗剤の匂いがした。それからなんだろう。すごく不思議な、なんか、おばあちゃんの家の匂いみたいな、そう、おばあちゃんの家の仏間みたいな懐かしいにおい。それが洗剤のにおいに混じって、シャツに染みこんでいる。そこに私の涙が染みこんで、なんだか変な、感じだった。
「落ち着いた?」
先生が私の顔を覗き込む。
私はようやく恥ずかしさを思い出して、取り出したハンカチで顔を覆った。多分涙と鼻水ですごい顔をしていたと思う。
「何があったの」
私は左右に首を振る。話せない。
「痛かった?」
頷く。
そっか、と先生は言って、地面に落ちて散らばっている本を拾い集め始めた。私も鼻をかんで、本を拾う手伝いをする。
災難だったね、と先生は気の毒そうに言った。私はなんて言っていいか分からなくて、うつむいた。
その時以来先生を見ると心臓がバクバクして、前より全然、顔を見られなくなった。なのに毎週美術の時間はあって、私はそれが苦痛で、恥ずかしくて、なのにどうしてか、待ち遠しく思ってしまう。
先生は生徒にもそこそこ人気があって、明るくて、愉しそうなのに、でもときどき、とても寂しそうな眼をしていた。途方に暮れている迷子の子供みたいな、困り果てた目で宙を睨んでいる。そしてときどき私と目が合うと、困ったような、悲しそうな表情をして、すぐにふっと目を逸らしてしまう。
先生の目はビー玉みたいにきらきらしていて透明だった。でもそれはなんていうか、大人みたいな目じゃなくて、子どものままどこかに立ち尽くしているみたいな。そんな印象の目だった。
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