04
鳩が怖い。
と言った生徒の声が耳から離れない。虚空を睨んだまま、現実に焦点の合っていない目。自分はその目をよく知っている気がした。臥せってばかりだった母の顔を思い出す。「正隆さん」母さんはよく、父さんの名前を呼んでいた。何も見ていない目で。
俺は何もできなかった。母さんが横になったまま弱っていくのをただ見ていた。母さんは窓を怖がった。太陽の光を怖がった。誰かが見ている。見張っているのだと言う。肌の内側から名もない悪霊に見張られているのだという。窓一面に水で濡らした新聞紙を張り、窓枠に梵字の書かれたお札を張り付けていた。ときどき母さんが何か喋る細い声を、俺は必死になって聞き取ろうとした。なにか俺に向けて語りかけられる声ではなかろうか、と思って囁き声に耳を澄ました。けれどもそれは、だいたいは空疎な独り言なのだった。母は俺のことなどほとんど目に入っていないらしかった。時々母の目に光が宿ることがある。俺はその時の母の顔を記憶に焼き付けようと、必死になってじっと目を見た。
けれども母は、俺の目すら怖がった。怯えていた。だんだんと母の黒目から光が失せていくのが分かる。こないで。母は震えながら言うのだった。
だから俺の記憶の中の母の顔は、いつもぼんやりと霞んでいて、確かな像を結んでくれない。
鳩、と聞いた時に頭をよぎったことがあった。いつだったか耳にした噂のことだ。頭の中で何かがひらめくようにはじけた。ばらばらだった単語が連なって線になった。あの子、あの少年。つまり佐多が怯えているのは、鈴木のことなのではないか。わからない、確証がない。証拠もないのに生徒を疑いたくない。それでも、ふたりともとても気になる絵を描く生徒だった。鈴木は技法に優れた心のない絵を描いたし、佐多は、均質で緊張感のある、神経質な絵を描いた。筆の流れを見れば、生徒の心の動きくらい察知できる。どこをためらって、どこを流してどこで息を吐いたか。
鈴木の絵にはムラがない。ものを美しくとらえることは出来ても、人間の表現に彩色がなかった。とても単調なのだ。とくに表情をとらえることに困難があるらしく、物理的な動きは表現できても、感情的な表現が未熟だ。
佐多の絵はそれとはまた違う、不気味さがある。表面上はとても均整に整っているのに、根本にあるものがまるでチグハグだった。
一瞬だけ、顔のない母親の残像が心に浮かんで、あわてて振り払った。母はもうこの世にはいない。俺が中学生の頃に、自ら命を絶った。
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