鈴木君(中学編)

 おいおい佐多さん学校休んでるらしいぞ、あの時のショックで。とクラスの男子に言われたけど、なんのことか咄嗟にわからなかった。蜂の。と言われてやっと思い出した。蜂を叩き潰す勢いで女生徒をぶん殴ってしまった。左目の上あたりを、辞書の表紙でバーンと。でもまぁ辞書って表紙が柔らかいから。そんなに痛くないんじゃないの。知らんけど。


 その日の休み時間、「ちょっと話がある」って美術準備室に呼ばれた。

「昨日の二時間目の休み時間、廊下で蜂を殺さなかった?」

「殺しました」

「その時のことを詳しく聞きたいんだけど」

「いや、それが。咄嗟に辞書を叩きつけるかなんかしたんですけど、それが近くにいた女子に当たって。っていうか、あの蜂、その人めがけて飛んで行ってたんですよ。人も多かったし、やるしかないかなって感じで。自分の体の上で蜂が死んだら、そらショックだとは思いますけど」

 俺はこの美術講師が嫌い。何考えてるかいまいちわからない。目が糸目で表情が読み取りずらいから。

「女の子と面識は?」

「ないです」

 ちらっと、目の奥を覗き込まれたような気がした。嫌な感じ。

「蜂って言ってもマルハナバチだったんだよね」

「ああ、そういう名前なんですか? デカかったから。怖いなと思って」

「そう。ちゃんとその子に謝った?」

「はい」

「あと鈴木君さ」

「はい?」

 思わず語尾が乱暴になる。ダメだな、イラついてる。

「こないだの課題、なかなか良かった。作品展に出してもいい?」

「嫌です」

「なんで」

「目的があって作るのって、下品な感じがするから。俺は不特定多数の人間に見せびらかすために、なにかを作ったりしたくない」

「下品ってあなたね」

 高尚なんだな。って言った鎌田の横をすり抜けて美術準備室を出ようとした俺を、鋭く呼び止める。

「ほんとに知らない子だった?」

「なんでですか」

「いや、あの子の目が、っていうか顔がそう言ってた」

「なんだよそれ」

「嫌な思い出とか、あるみたいだったから」

「本人に聞けよ」

 図星だったから、バタン、やや乱暴にドアを閉めた。





 あのときもし、踏みとどまらなかったら、どうなっていたんだろう。というのは時々考える。もしも本当に、あいつをあの石で殴りつけたら、俺の人生どうなっていたんだろう、って。


 


 俺が自分の指先に石を叩きつけたのを見て、あいつ青ざめた顔をしていた。勢いあまって、人差し指の爪が割れて血が出た。「なんで」女が言った。「人呼んできて」「え?」「誰でもいい、先生」「いや、でも、いいの?」「早く、行け」女の手が俺の手を取る。俺は振り払った。「なんで殺したの、鳥」女が泣きそうな顔で言った。地面には相変わらず鳩の死体が転がっていた。生きているときは跳ねるように動いていた体も、今となってはただの物だった。とにかくこれを片付けてしまわなければいけない。でも俺は。「なんでって?」「なんで」女がますます顔をゆがめる。


 理由を訊かれたのは、初めてだった。なんで。

 なんで殺すんだろう。わからない。



「怪我したら、痛いでしょ、血が出るでしょう」女が俺の手を取った。オレンジに近い鮮やかな朱色の血だ。ぷらんと中途半端にぶら下がった爪。「鳩だって、一緒だよ。怖いんだよ、痛いんだよ、悲しいんだよ?」「でも死んだら、痛くも悲しくもない」「え?」「自由になる」「嘘だよ」「本当だよ。体から自由になる。もう痛いことも辛いこともない。地獄もない」

 だって、この世こそがほんとうの地獄だから。


 女が逃げた後、俺は鳩を埋めて注意深く辺りに枯れ葉をまぶした。外からわからないように。そして少し場所を移動して、血の付いた石と一緒に地面に腰を下ろした。近くには校訓を刻んだ石のモニュメントがある。低いツツジの植え込み。小学校の裏庭には、電車の騒音を遮るためか結構なスペースが設けられていて、校舎をぐるり取り囲むように背の高い木が密に植えられていた。裏庭には普段、生徒はあまり来ない。職員用の出入り口になっていて、駐車スペースがあるのだ。生徒は近づいてはいけないようになっていた。だからまさか、見つかると思わなかった。



 指の怪我のこと、それから体に残っていたあざが見つかって、俺はそれらを全部自分でやっていることにした。佐多は鳩のことは言わないでいてくれたらしい。助かった。鳩を殺したことがばれていたら、最悪補導されていたし、最低でも通院を勧められていたと思う。けれどもばれなかったので、指の怪我を見てもらうこと、スクールカウンセラーとの面談を勧められただけで済んだ。ラッキーだった。

 母親が俺を迎えに来てその足で病院へ行った。ふたりで病院へ行くのは祖母が死んでから初めてのことだった。いつもは通院は祖母の役割だったし、母は俺が死にそうになっても病院には連れて行ってくれない気がしていた。実際、迎えに来た母親に車に乗せられたときは少しビビった。無表情の母を見て、とうとう殺されると思っていたから。


 父の前では、俺は木の実をすりつぶそうとしてて、誤って手をケガしたことになった。母親といるといつもこういうだ。母はすべての物事を自分い都合がいい風につくり変えてしまう。俺には自閉形質があって、手に負えない自傷癖があるとか、心を病んでいるのだとか、努力しても手に負えない難しい子だとか、そそっかしくていつもどこかをケガしているとか。相手が変わるたびに説明も変わる。俺にとっては万事がそういう感じだった。母親の口から出る七色の言葉。空疎な空想の浮ついた言葉。に現実も自分もなにもかも曲げられてしまう、取り込まれてしまう。


 俺にとって世界は簡単に俺を裏切る、厄介な装置だった。

 でも、体の中にあるものは嘘を吐かない。血が赤いとか赤くないとか、生ぬるい温度や意思に関係なく動く心臓とか。俺は時々殺した生き物の体を開いてみて、すべてがそこに収まっていることを確かめ、安心を得ていた。変わらないものを見つけたみたいで嬉しくなる。俺を裏切らないものを見つけた気がする。愛おしくなる。だけど俺には開いた体を元に戻すことができない。だからただ、手の中で温かいものが冷たくなっていくのを見ていた。ただ、見ていた。


 好きなものが動かなくなっていくのを見るのは哀しい。同時にすごく、愛おしい。まるですべてが俺の手の中に帰ってきたみたいに感じる。命の輝かしい部分の、すべて。



 今でも時々、人間を殺してみたらどうなるんだろう、と思う。

 あの時の俺は確かにあの女を殺そうとしていた。でも、できなかった。

 今の俺なら、どうするだろう。


 そういうことを、思った。

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