佐多さん2
あの男の子に会ってしまってから、もう三日も学校を休んだ。これ以上は見過ごせません、ってお母さんに言われてしまったので、おとなしく学校に行くしかない。でもまたあの子に会ったらどうしよう。心臓が凍りそうだ。すごく冷たくて、怖い。
もしかして私が男の人が怖くなったの、あの時からだったのかな。殺される、って思ったの、初めてだった。
人間は思い出したくないことを記憶から消すことができるらしい。あまりにショッキングで、私はあの男の子のことも、鳩のことも忘れていた。代わりに恐怖心だけが残っていたみたい。でももうだめだ、一度思い出してしまったら、もう忘れられない。考えただけで冷や汗が出てくる。怖い。体が震えそうになる。自分のおでこでハチを叩きつぶされたことより、あの時の方がずっとショックだった。
鳩を殺して、た
殺して、なんで?
わからない、けどあの時。あの子は私の頭に、いや、胸に、どっちだっけ、わからない。石を振り下ろそうとしてて、それで―――――――、あの子は自ら自分の手に、石を振り下ろして。爪がぱっくり割れて、血が、血が出てて、男の子は、「先生を呼んできて」って、呼んできていいの? って、なんであの時私も聞き返したんだろう。わからない。
結局チャイムが鳴って、あれはお昼休みの終わりを告げるチャイムだったんだけど、私は担任の先生を呼んで連れて行って、その間にあの子は綺麗に死体を隠してしまっていて、石に手を挟んで指を怪我した子、ってなってしまった。
そう思うとなんだか私が見たものも夢だったんじゃないかと思えてくる。いや。夢なんかじゃない、絶対に。だって体があの時の恐怖を、体の熱さを、冷たさを。震えを、はっきり覚えている。あの子はきっと、ある時点まで、私を殺すつもりだった。人から、明確な殺意を向けられた経験。初めてだ。本当に、あの時が初めてだった。
あの子が同じ中学に通っていると思っただけで、もう無理だった。
吐きそうになる。だめだ、考えたくない。
冷たい水で顔を洗って、心を奮い立たせてなんとか制服に袖を通した。
家を出た瞬間、声をかけられて、驚く。
担任の山本先生が迎えに来ていた。
「おはよう、佐多さん」
「先生……。なんで、家」
「学校まで歩かない? 少し話したいこともあるし」
「……」
私の表情を見てビビったのか、先生はあわてて、
「違うよ! あの日のことを聞くつもりは全然なくて! 佐多さんが休んでた間のクラスの様子とかね、そういうことを、お話しできたらなーって」
担任の、山本先生は若い。二十六歳だという。先生も十三年前は、中学生だったんだなぁ、と思うとすごく不思議な気分になった。
「あ、鳩」
先生が言って空を見上げた。
電柱の上に鳩が止まっていた。
「先生、初出勤の日に、鳩の糞被りそうになったことある」
「ほんとですか?」
「ほんとほんと。あと数センチずれてたら危なかった」
「運がつく、とか言うじゃないですか」
「ダジャレ? 佐多さんさては、お父さんっ子?」
お父さんとは、昔は仲良かったんだけど、、、、
「あ! ごめん、えっと、休んでたあいだのノートは全部プリントにまとめてあるからね!! 心配しないで!」
先生は私の顔色に一喜一憂して、なんだか可愛い。女の先生でよかった。思わずふふ、って笑いが漏れた。先生も笑った。
「佐多さん、笑ってる方がずっと可愛いね」
「先生の方が可愛いですよ」
言ってしまってから、あ、と思った。先生は身長が156センチくらい。ヒールを履いていても、私より小さい。嫌味に聞こえたかもしれない。
「ごめんねー、先生頼りないかな」
「いえいえ、違います。そうじゃなくて。親しみやすくて、いいなって」
先生はほっとした様子で、休んでいた間のクラスの話を色々聞かせてくれた。席替えをしたこと、合唱の練習が順調だということ。それからふと私の顔を見て、言った。
「そうだ、蜂の男の子ね、隣のクラスの子だったんだけど」
「え」
「悪気はなかったんだって。人ごみの方に蜂を飛ばすのをためらって、それで佐多さんのおでこに、バチン。だったんだって。すごく謝ってたよ」
「あ、はい……」
「美術の先生も心配してらして、顔真っ青だったよーって」
「蜂」
「ん?」
「の前に、でかいって」
「え?」
「でかい女って、言われるのが嫌で。まぁ実際デカいんですけど」
「そういうこと、言われることがあるの?」
「ときどき。あります」
そっかー、と先生は何度もうなずいた。
「私なんか小さいのがずっとコンプレックスだったけどね。ほら、中学生の男の子って大きいから、あんまりいうこと聞いてもらえないんじゃないかな? とか。数学の先生なんかすごく大きいから、あれだけ貫禄があったら、きっとすぐに静かにしてもらえるんじゃないかなって、思ったりするのよ」
佐多さんは、素敵だと思う。おっきくてすごく素敵よ。と先生がまっすぐな目で見上げるので、蜂から話をそらせたくて、身長の話をしたことになんだか胸が痛んだ。
教員用と生徒用の入り口は別になっている。校門をくぐって、先生と別れて、ほっとした気持ちで教室に急いだ。
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