佐多さん



 男の子が怖い。

 恋をしたらなおるよ。ってみんなが言うので、私はみんなのことも怖くて仕方がない。なんでも、恋をするとドラッグと同じくらいの効果があるんだそうだ。脳の中身が変わっちゃうんだって。なにそれ、こわくない? 私は怖い。


 


 このあいだ、お父さんが何気なく「髪の毛に何かついてるよ」って言って、ゴミか何かをとろうとしてくれたのに、「嫌」って言ってその手を振り払ってしまった。お父さんはすごく悲しそうで、違う、そんな気持ちにさせるために私は生まれたんじゃないのに、って思ってしまった。

 違う。お父さんが悪いんじゃない。でもなぜだろう、男の人を前にすると体がぎゅっとこわばって、喉が締め付けられたみたいになって声が出なくなる。


 以前、テレビで、性暴力の被害に遭った女の人が、似たようなことを話していて驚いた。お母さんがすぐにチャネンルを変えてしまって最後まで見られなかったけど、その人も私と似たようなことを言ってた。

「異性を前にすると体がこわばって動けなくなるんです」

 エフェクトのかかった声、モザイクのかかった顔。


 でも私は暴力を受けたわけじゃないのに、どうして。お父さんは優しいし、学校の先生だって、良い人たちだった。


 わからない。お父さんに申し訳ない。

「おむつだって、一生懸命替えたのになぁ」

 ってお父さんが笑ってて、その顔が寂しそうだった。

 お母さんが、

「もう、そういうこと言うから」

 って怒ったけど、違う。言葉にできないけど、そういうことじゃないの。

 わからない。なんでこうなんだろう。

 



「でけぇ女」


 って言われるのは割と慣れた。小学校の頃は散々からかわれたけど、中学になって全然言われなくなって。その代わり、時々上の学年の男の子に、呟かれる。

 別に言われなくても分かってる。いや、ほんとはわかってないのかもしれない。本当はまだ、130センチくらいだった頃のままの感覚でいる気がする。



 でも実際の私はでかい。誰がどう見ても、人より大きい。小柄な男の子は私の周りに近づきたがらない。からかわれるからだ。


 そういうのも、吐き気がするくらい嫌だった。誰かと比べて大きいとか小さいとか、どうでもいいことのような気がする。というか、気にしないでほしい。悲しくなるから。


「でかい女」


 その日も確かにそう聞こえて、目線を上げないまま通り過ぎようとした。美術室に入ってしまえばあの子たちからも見えなくなる。同じクラスの人たちはさすがにもう、私の身長に見慣れているのでとやかく言わない。もう少しの我慢だ。

 でもたまたま。本当にたまたま、窓から蜂が入ってきて、私の方にまっすぐ飛んできたらしい。女の子の悲鳴が聞こえて、「蜂だ!」って言う叫び声が聞こえた。顔を上げたときにはもう、目の目に蜂が迫っていた。目をつむる。次の瞬間、頭にものすごい勢いで何かがぶつかった。



 蜂とかじゃない。もっと大きい。



「うわ」

「かわいそー」


 というささやきが聞こえる。スパーンという音がした。しかも痛い。頭が痛い。


「おいおい、女の子の頭叩くとか、ちょっと」

「刺されるよりマシだろ。お前らだって蜂にビビってたし。殺したんだからいいじゃん」

「いや、さすがにもっと手加減しろよ、痛がってっぞ」


 ショックのあまり私は地面に小さくうずくまっていた。体の大きな女が何かを怖がるのは、滑稽かもしれない。


「英和辞書は凶器だろ」

「謝った方がいいって」

「わかったよ」


 全然納得してなさそうな声がして、おい、とすぐそばに声が降ってきた。


「ごめんな」


 目をあげる。体が凍り付いた。


「でも刺されるよりましだろ? ほら、蜂、仕留めたし」


 男の子の指が丸まった蜂の羽をつまみ上げた。まるまると大きな、マルハナバチだった。私はぱくぱく、とあえぐように口を動かし、去っていく男の子の背中を見ていた。


「大丈夫?」


 近くにいたクラスの女の子が近づいてくる。


「ひどいね、もっとちゃんと謝ってくれてもいいのに。サイテー」


 でも女の子の声はほとんど私の耳に入らない。



「心臓って、殴ると止まるんだぜ」


 




 耳にありありと蘇ってきた。あの声、あの子、

 息を吸うばかりで吐くことを忘れていた私は、ようやく息を吐いた。ひどく震えていて、そうだ、悲鳴って、こういう風に震えてしまって、声にならないんだ。


 あの時みたいに腰が抜けてしまって動けなくて、人が遠巻きに集まってくるのを感じていたけど、全然立ち上がることができない。


「どしたー、もうチャイム鳴るよ?」


 いつまでたっても廊下が騒がしいから、美術の先生が見に来たみたいだった。

 はい教室入って入ってー。と先生が手を叩く。周りの人が散っていく。チャイムが鳴る。側にいた最後の一人がいなくなる。


「どうしたの」


 鎌田先生に顔を覗き込まれて、震えあがって吐きそうになってしまった。

 男の子が、男の人が、怖い。



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