鈴木君

 八歳のときに祖母が死んだ。急な事故だった。車が突然突っ込んできたんだ。俺は車の運転手が助手席の女と喧嘩して、前を見ていないのを見ていた。知っていたんだ。だから俺は祖母を助けられたはずなんだ。避けろって教えられたはずなんだ。せめて止まれ、動くなって。



 現実には祖母は、俺を突き飛ばして事故に遭った。



 俺はあまり望まれない子供だったらしい。少なくとも父さんは俺を作る気はなかった。ということは、母さんには望まれていたはずなんじゃないか? でもあの人にはきっと、結婚の口実が必要だっただけで、俺自体は必要じゃなかったんだ。


 だから俺を可愛がってくれたのは、祖母だけだった。



「なんでそんなこともできないの? 私が笑われるんだよ、お前ができないせいで」


 母親の声は耳に触る。神経を直接削られてるみたいな、不快さがあった。


 だから俺は母親が言うことはあまり覚えていない。理由もなくよく怒鳴る女だと思っていた。いつも何かに怒っているらしかった。自分と似ているなと思う。親子だから。言葉にすると吐きそうだけど、事実だった。




 母親の怒りのスイッチはよくわからなかった。いつもランダムに思えた。発火から消化までの時間も、まるでランダムだった。いったん怒りに火のついた母親は、誰であろうと止められない。下手に口出しするとあとがしつこい。

 それに母は、一度怒るとまるで正気ではなかった。首を絞める、体にのしかかる、つまりなんていうか、虐待に近かった。大の大人に飛び掛かられる恐怖は、口でうまく説明ができない。何度も、もう死んだ。自分はこのまま死ぬんだ、と思った。


 裏返すと俺が怒った時も同じようだっていうことなんだろうな。自分が怒っているところを客観的に見たことはないから、ちゃんとはわからないけど。



 祖母が死んでからの一年はあまり記憶にない。忘れてしまった。ただすごく悲しかった気がする。頭の中に、祖母の体が冷えていくまでの映像が染みついて取れない。血がたくさんでていた。今まで見たことがないくらい、たくさん。どうして母親ではなく祖母が死んだのだろう? あるいは自分でもよかった。なのに、祖母は俺を生かして死んでしまった。


 俺は祖母がいないと生きられないことを、祖母も知っていたような気がする。だからあのとき、祖母にまで見捨てられたように思えた。





 小さいころ、母親の首をコップの破片で刺したことがあった。祖母が死んで半年は経っていたと思う。やっぱりというかなんていうか、祖母がいなくなって、母親がおとなしかったのは最初だけだった。そのうち歯止めが効かなくなって、俺が死ぬか、相手が家を出るか、という感じになった。母は父の財力を充てにしていて、離婚する気はさらさらないらしかった。つまりたぶん、俺が死ぬのが一番母の意に沿う。

 あの女に殺されるくらいなら、先に殺した方がマシだと思った。実際にやってみたら、思っていたよりも全然、人を殺すことは難しかった。テレビみたいにはいかない。今ならわかるけど、まず凶器の選定からして間違っていた。衝動に任せて叩き割ったガラスコップなんかじゃ、全然ダメ。だめ。


 母の怪我の手当は父がしたらしい。よくわからない。俺は途中から気を失っていたから。


「すまん」

 と父は目を覚ました俺に言った。何を謝られたのか、まったくもって意味が分からなかった。いつもそうなんだ。父親の言っていることも、母親の言っていることも、俺にはよくわからない。理解ができない。




 俺が十歳の頃、母に新しい男ができた。父の友人らしかった。父はそのころから様子が変だった。前より一層、休みもなく働くようになって、めったに家に帰ってこない。いつ死んでもおかしくない気がした。




 学校は嫌いだった。阿保みたいなことをやらされるし、ぬくぬく育った阿保しかない。阿保を見分けるのは簡単で、奴らはすぐに人を信じる。嫌いだった。良心とか真心とかを恥ずかしげもなく口に出す人間が。学校に火気を持ち込んだとして、いかに効率よく人間を駆除できるか、シミュレートして遊んだ。


 夢の中ではいつも反対だった。俺が駆除される方で、追われる方だ。夢の中でくらい自由にしてくれてもいいのに、俺の脳は俺を懲らしめたがった。




 人間は嫌いだ。でも動物を餌付けするのは好きだった。給食のパンをこっそり隠し持って、鳩や猫にやっていた。野生動物たちは、はじめは警戒していても、そのうち油断して俺に体を預けてくるようになる。動物の体は温かい。生きている生き物の体は温かい。循環系が作用しているからだ。抹消まで体温が維持されるようになっている。


 ときどきたまらなくイライラした。俺を信じ切っている様子が許せなかった。野生の本能を失っている。畜生にあるまじき怠慢だ。俺は時々彼らを殺した。


 生き物を殺すのは大変だ。でも、いくつか簡単なコツがある。コツを覚えてしまえばあとは楽勝だ。結局同じことの繰り返しなのだ。予習と復習と、反復。学校で教師が言っていることと同じだった。


 生き物の体は丈夫で、ある程度までは回復できる域があって、でもダメージがある一定を超えると、死んでしまう。取り戻せない。



 死んでいく生き物の目は何かを悟っているようで、綺麗だった。祖母の顔を思い出す。いや、思い出そうとしてもそのころの俺にはもう、祖母がどんなふうに死んでいったかもよく思い出せないのだった。


 ときどき、ああ、なんてことをしてしまったんだろう。時間が巻き戻ればいいのに、と思う。しかしいざ相手がちゃんと死ねないと、かえってイライラして、結局殺してしまうのだ。そのころの俺は、心臓のポンプ機能を逆流させて、ショック死させることを覚えた。一番キレイに済む方法だ。人間にも同じことができるだろうか。俺は母親を殺せるだろうか。今度こそ、殺される前に殺せるのだろうか。



 ところで、反復学習のときに一番仇になるのはなんだろうか。慣れだ。慣れてきたころ、気が大きくなって、俺はとうとう学校の校庭でそれをやった。そして鳩の死体を埋めるところを他人に見つかってしまった。穴を掘るのも結構手間で、あんまり浅いと野生動物に掘り返されてしまうし、でも人に見つからないためには素早く埋めてしまわなければならないという、ぎりぎりの見極めに失敗したのだ。


「なにしてるの」


 あの声、心臓がぎゅっと強く収縮する感じ。今でも思い出せる。

 見つからなければいいのに。バレなければしていないのと同じだ。


「血」


 髪の長い女子。唇が青ざめていた。はっきりと見られている。

 見つかってしまったからには、対処する必要が出てくる。黙らせるか、それか。


 試す?


 あの方法を。


 やり方なら散々練習して、よく知ってるじゃないか。



 さっき鳩を黙らせるために使った石を、俺はぎゅっと握り直した。

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