桜挿頭

楸 茉夕

桜挿頭

 その島は、桜が二箇月咲き続けるのだという。

 様々な品種の開花の時期がずれるため、結果的に二箇月間花が楽しめるという意味ではない。同一品種が一斉に咲きそろい、二箇月―――正確にはおよそ五十六日、一輪も散ることなく咲き続け、その日を過ぎると一晩で散り落ちる。

 古来より、数多の研究者が桜の謎を解き明かそうと島へ赴き、ありとあらゆる手段で持ち出そうと試みたが、それは一度も成功しなかった。

 桜を伴って島を出ることはできない。花びら一枚、枝の一節、どれだけ厳重に包もうとも、荷物に忍ばせようとも、必ず失われる。

 あるとき、船ごと沈んで多数の人々が犠牲になった。以来、桜を持ち出すのは禁じられた。

 それでも諦めきれない研究者たちは、必要な器具を島に持ち込むことを考えた。しかし、どんな道具も桜に触れると使い物にならなくなった。

 やがて、島には不吉な噂が囁かれるようになった。曰く、桜を見れば目を病む。枝を折れば気が触れる。切り倒そうとすれば命を落とす―――新たな犠牲者が出ることを防ぐために、意図的に広められた話なのかも知れないし、手を引かざるを得なかった研究者が、悔し紛れに語ったことかも知れない。

 いつしか寄りつく者もいなくなり、島は静寂を取り戻した。そして、少しずつ忘れられていった。



「お嬢ちゃん、本当に大丈夫かい?」

「大丈夫です。この間も無事でした」

「そうだけども……」

「また三日後、お願いします」

 乗せてきてくれた漁師は、心配そうにしながらも一刻も早くここから離れたいとばかりに戻って行った。

「よっ、と」

 朽ちかけた桟橋から陸地に飛び移り、ほっと息をつく。上陸することが目的ではない。ここから山を登らなければならない。

 彼女がこの島にくるのは二度目だ。最初は二月前、島の桜が咲くのを見たくて、地元の漁師に頼み込んで乗せてきて貰った。今回も同じ人だ。

 島の伝承は周辺地域に一層恐ろしく伝わっているようで、船で二時間ほどの距離にありながら、近付いたこともないという住民が殆どだった。たまに彼女のような物好きが訪れるらしいが、数年に一度いるかいないかといった程度らしい。

 遠目でもわかるほど、桜は変わらず咲いていた。島全体が山になっていて、その上三分の一が桜雲おううんに包まれている。彼女は嬉しくなってはしゃいでしまい、人の好い漁師には大層気味悪がられた。

「よし」

 バックパックから曾祖父の書き付けを取り出し、彼女は島の頂上を目指して歩き始めた。

 切欠は、数年前に行われた実家の蔵の大掃除である。積み重ねられた謎のがらくたの下から出てきた古い長持に、曾祖父の遺品が詰め込まれていた。その中の一冊にあった、不思議な島と桜の伝承に彼女は魅入られてしまった。

 少しずつ島の場所などを調べ、大学二年の春休みである今、ようやく訪れることができた。本当は島に二箇月留まりたかったのだが、さすがに現実的ではなく、書き付けから開花と散る時期を割り出して、そのときに向かうことにした。

 後に調べてわかったことだが、曾祖父は植物学者だったらしい。だから不思議な桜に拘ったのだろう。

 休憩しつつ道なき道を登ること数時間、陽が傾く頃になってようやく彼女は桜の森へ足を踏み入れた。普通、桜は満開になると一週間ほどで散ってしまうのに、ここの桜は二月経過した今でも満開のままだ。

 まるで誰かが植えたかのように、ある場所から桜の木だけになる。下草はあれど、他の樹木は一切生えていない。そのことも謎の一つだ。そして、桜の森に踏み込むと、鳥や動物の気配がぱたりとなくなるのも不思議だった。

(どうなってるんだろう……)

 少し進むとすぐに、頭上は桜花に覆われ、桜以外の木は視界に入らなくなる。彼女にとって桜と言えばソメイヨシノだが、それとはまた違う品種だ。調べようと写真に撮ったはずなのに、帰ってみるとそのすべてが―――SDカードに保存したものからクラウドにあげたものまで、すべて消えていた。

(前はうっかり保存し損なったのかもしれないし。今回はちゃんと保存しなきゃ)

 スマートフォンを取り出して何枚か桜の写真を撮り、しっかり保存して、彼女は一人で頷いた。念のため「SDカードに保存しました」というダイアログのスクリーンショットも撮っておく。これなら記憶違いはないだろう。

 何故だか、花や枝を持って帰る気にはならなかった。桜を傷つけてはいけない気がしたのだ。

 キャンプ二泊分の荷物を詰め込んだバックパックを背負い直し、彼女は再び歩き出した。陽が長くなったとはいえ、周囲は大分暗くなってきている。完全に暗くなる前にキャンプできる場所に辿り着かなければならない。

 きょろきょろとあたりを見回しながら歩いていると、小さな社が目に入った。

(あんなのあったっけな?)

 二月前も同じ道筋を辿ったはずだが、そのときは気付かなかった。社があるならお参りせねばと、彼女はそちらに足を向けた。

 社の周囲はぽっかりと開けていて、空が見えた。

 三人が手を繋げばぐるりと囲んでしまえそうな小さな社である。鳥居などはなく、重なった石の上にぽんと置かれたように建っている。

 鈴や賽銭箱もないので、彼女はただ柏手を打って目を閉じ、両手を合わせた。

(この間は気付かなくてすみません。ちょっとだけお邪魔します)

「何、気にすることはないよ」

「は?」

 応えるような声がした気がして、彼女は手を下ろして目を開けた。すると目の前に、白い人影が立っている。

「はあ!? 誰!?」

 思わず飛び退くと、人影は不思議そうに小首をかしげた。

「どうしたんだい」

「ど……どうしたも、こうしたも……」

 じりじりと後退ると、相手も同じだけついてくる。フィールドワーク中に熊に出会ったら下手に逃げない方がいいという先輩の言葉を思い出し、彼女は離れるのをやめた。―――相手はどう見ても熊ではないが。

(何者……? 男の人だよね? 白いけど)

 年齢は彼女と同じくらいか、少し上に見える。端正だが、日本人のような、そうでないような、不思議な顔立ちをしていた。白か銀色かわからない髪色に、白磁のような肌。纏う着物も白一色で、彼女の持つ知識の中では、平安時代の装束が一番近い。色彩を失ったかのような姿の中、瞳だけが淡い青を宿していた。

 明らかに普通の人間ではない。すわ幽霊かと身構え、しかし両足も影もあった。

「あの……」

「何かな」

 どうやら日本語は通じるようなので、彼女は思いついたことをぶつけてみることにする。

「あなたは誰なの? どこからきたの? いつからいたの?」

 彼は逆側に首をかたむけた。

「その問いに答える言葉を、私は持たない。だが、時の巡り合わせというのは不思議なものだ」

「はあ……」

 日本語は通じるが言葉が通じないタイプらしい。仕方がないので、質問を変えてみる。

「ここがどういう場所か知ってますか?」

「あの人は淡紅あわべにさとと呼んでいたな」

「淡紅の郷……綺麗な名前。あの人って?」

 応えず、彼は続ける。

「桜が咲いているうちは、往き来ができる。だから引き延ばした。月が満ち、欠け、再び満ちるまでの間」

「ここの桜、あなたが咲かせているの?」

 まさかと思って尋ねると、彼は一つ頷いた。

「だか、それも今日で最後だ」

「最後? ……嘘、今日?」

「始まりがあれば終わりがある。永遠不変のものなどない。その日に君がきただけのこと」

「そんな、でも……」

 彼女が情報の整理を終わらせる前に、彼は天を仰いだ。

「もう日が変わる」

「え?」

 腕時計に目を遣れば、デジタルの表示は「23:57」となっていた。あと三分で日付が変わる。瞠目し、つい先程、この社を見付けたときはまだ夕暮れ前だったのにと、彼と同じように空を見れば、見たこともないような星空の真ん中に満月がぽかりと浮かんでいた。

「おかしいよ! さっきは全然……急に真夜中になるなんて!」

 少なくとも八時間以上は経過していることになるが、彼女にとっては数分の出来事だった。ありえないと思いつつ、何度見ても時計の数字は戻らず、みるみる進んで行く。

「君に会えてよかった。先程は永遠不変のものなどないと言ったが、もしかしたら……」

 彼の言葉は途中で掻き消された。風が吹く。花びらが舞う。淡紅色が攫っていく。

「待って! もう少し話を……」

 荒れ狂う花びらに撒かれ、彼女は思わず腕で顔を庇った。ざあっという音すら聞こえそうな桜の嵐が天空へ吸い込まれていく。それはまるで、月が誘っているような。


 ―――さようなら、あかり


「――…さま!」

 彼女は彼の名前を叫んでいた。どうして彼が自分の名を知っているのか、自分が彼の名を知っているのか、まったく疑問に思わなかった。それが当然だと思った。



 朝日が眩しくて明は目を覚ました。肌寒さに身震いをする。どうやら、寝袋に入らず眠ってしまったらしい。

「ふあ……ああ!?」

 起き上がって伸びをし、桜が全部散っているのを目にして、声を上げる。

(嘘……全部散ってる。んもー、どうして寝ちゃったのわたし)

 周りには雪のように淡紅の花びらが降り積もっている。それはそれで果てしない絨毯のようで美しいが、やはり散り際を見たかった。

 明は己の上にも積もっているそれをそっと払い除ける。すると、膝の上に一輪だけ、桜の花がのっていた。散り残ったのだろうかと拾い上げ、少し眺めてから潰してしまわないように丁寧にしまい込む。何故だか、これは持って帰っていいような気がした。

「さて……ごはんにしようかな」

 迎えが来るのは明後日だ。初日に桜が散ってしまって予定が狂ったが、せっかくなのであと二日、島を散策しようと思う。



 帰ってから確認すると、やはり写真のデータはすべて綺麗に―――「保存しました」のスクリーンショットすらも―――消えていた。

 手元に残ったのは一輪の桜だけで、しかし、彼女はそれを研究材料にはしなかった。押し花にして、大切にとってある。

 あれほど焦がれた島と桜には、もう惹かれなくなっていた。

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