一駅

@nakamichiko

一駅

 最後の親孝行だと思った。夫にも子供たちにも好評で、母からは

「ありがとうね」と言ってもらった。


父はもう長くは生きられなかった。むしろ生きていることの方が不思議だと主治医の先生が言うほどだった。だがその不思議はやはり奇跡にはならず、日に日に父の体力は落ちてゆき、車いすでの生活になってしまった。

 私たち子供はそれぞれ家を持ち、遠方に住んでいたため、頻繁に実家に帰ることはできなかった。母はまだ元気ではあったが、子供として、娘として何かできないだろうかと考えて、今回のことは父が喜んでもくれるだろうと確信があった。


 父は幼い頃からの「鉄道ファン」だった。結婚する前まではそれこそ全国を駆け回り、ありとあらゆる路線を乗って写真に収めていた。ある列車が仕事を終えるときは必ずと言ってよいほど行ったという。今風に言うと、父は乗り鉄であり撮り鉄であり葬送鉄でもあった。その影響から私も鉄道が好きではあったが、その当時は「鉄道を好きな女の子」は皆無に等しく、その先陣を切るような強さが私にはなかった。それよりもクラスメートの「鉄ちゃん」から鉄道雑誌を見せられて

「この、入選した写真ってもしかしたらお父さんか親類の人? 」

「お父さんよ」

「すごいね! 時々記事も書いてるだろう? 」と一部受けしかしないことではあろうが、ちょっと自慢気になった。珍しい名字だったので嫌なことも多かったが、

「このことでプラスマイナスは完全にゼロだ」と幼い頃から兄弟で話していた。

だがもちろんこの趣味で一番被害を被ったのは母で


「ここがいいと思うんだ。小中高も近いし、買い物をするところも多いだろう? 」家を買うときに父は母に言ったらしいが、


「正直に言えばいいのにね、鉄道の駅の、線路の側に住みたいって」笑いながら話していた。そう、実家は私鉄の駅から歩いて十分足らずの所にある。この私鉄線はニ十キロにも満たない長さで、走行時間の半分は都会を、半分は田園地帯を走っているような路線だ。私の子供も甥姪も、幼い頃はこの電車に乗るのが楽しみの一つだった。もちろん私も。そして何より父自身はこれで通勤をしていた。

「車にお金をかけるくらいなら、みんなで電車で行こう」

と父は車の免許を持たず、家族旅行はいつも電車だった。自分たちの全く知らない駅をすいすいと行く、船の船長のようなその時の父の姿が目に焼き付いている。そして私たちが結婚して孫ができると、父はプラレール係で

「おじいちゃんとプラレールを見るのが楽しい」と誇らしげに孫たちは言った。だが大きくなって子供たちから言われたのは

「お母さん、プラレールで遊ぶとき真剣だったよね」

鉄道好きな女性、鉄女には人差し指より薬指の長い女性が多いというが、私はまさにそれだった。今生まれていれば間違いなくそうなっただろう。



「お母さんは家にいて、何かあったら連絡するから」

「そう、駅までは道が狭いし車も多いから気をつけて。お父さん行ってらっしゃい」

「ああ、楽しみだな」

父と二人、この私鉄に乗って遊ぼうと思った。一日乗車券を持っているので自由に乗り降りもできる。そして何よりこの路線の駅は路面電車の駅のように道路よりもほんのちょっとだけ高いか、ほとんど変わらないかのなのだ。そのまま車いすを押していくことができる。しかも低床車両といってホームと電車の高さがほとんど同じなため、車いすの乗り降りが楽なものも走っている。丁度反対側のホームにその緑色の電車が止まった。

「この電車かっこいいわね」

「そうだな・・・椅子の向きも洒落ている、子供が乗ったら喜ぶだろう・・・」

体の事があっても、それでも鉄道のことは良く知っていて、勉強も欠かさない人なのだ。

「今度乗るものもそうなのよ、初めて乗るの? 」

「いや、初めて導入されるときに乗ったきりだな」

「そうなのね」電車が来たので車いすを押し、二人で乗った。一駅間は乗り降りも含めて二分ほどで、あっという間に目的地に着いてしまった。


「ああ・・・変わってないね・・・」

「そうだな・・・あの時のままだ・・・結局写真は撮れなかったな」

「そうね・・・お父さんのカメラの腕をもってしても」

「ハハハ、人間の目にはかなわんよ、誰かが計算したら人間の目は画素で行ったら五億になるそうだ」

「え! カメラ確か二千万画素くらいでしょ? 」

「詳しく言うとまたいろいろあるんだがね、でもありえんよ、人間の目は絞りが1で、広角で、最高級のレンズだよ。あの時見た風景は、写真で撮っても本物には勝てなかっただろう」

「今だったら・・・簡単に作れてしまうでしょうけれど」

「ああそうだな・・・」


 それは私が小学校低学年の時の想い出だった。この駅から歩いて行ける大きな公園では、夏祭りと花火大会がある。毎年家族で出かけていたが、その日の私は何か機嫌が悪かったのか、理由は覚えていない、とにかく母と他の兄弟は先に出かけて、父と私は後から電車で向かった。もちろん父はカメラを首から提げていた。

「ああ・・・花火が始まっちゃった」乗客の誰かが言った。乗っていた電車から音が聞こえ、私はそうなったことが一層悲しく、どうしようもなくうつむいてしまった。父に引っ張られるように電車を降り、急いで会場に向かうのかと思ったら

「ここで見よう、行っても間に合わないから」と降りたのと反対側のホームに行った。するとその日の天候の加減なのか、花火が全体的に低く打ち上げられていて、田んぼの真上で大きく花開いて見えた。


「きれい! きれいね、お父さん! 」私の機嫌は一気に逆転し、人気のないホームから父と二人で見ていた。

「手持ちじゃ無理か」

カメラで花火を撮るのは難しく、まだフィルムの時代、無駄には出来なかった。そうしてしばらく見ていると、田んぼの中を電車が走ってくるのが見えた。そしてバーンと音が鳴って


「あ!!! 」父と二人声をあげた。


それは二人が目にした一瞬だった。大輪の花火の中に、走っている電車がきれいに収まったのだ。それこそすべてが偶然の一瞬だった。

しばらく声も出せずにいたが、幼い私は父に言ったことを覚えている。


「お父さん、今の写真に取れたら、きっと一等賞だよね」


「あれから毎年挑戦したけど駄目だったな・・・二年前もやったよ」

「でもそれに近いものは何度か撮れたじゃない」

「いやいや・・・あれは・・・見れただけで奇跡だった」

結局この駅で話をしたのが一番長い時間だったように思う。

そのあといくつかの駅で降りて、食事をしたりしたが、父に疲労の色が見え始めたのでそろそろ帰りましょうと言うと「そうだな、楽しかったよ」と

あまりにも早くお礼を言われた。帰りも低床車両に乗る予定だったが、やってきたのは別の、古いタイプの電車だった。しかも塗装自体がレトロ風で、父はそれを見て喜んでいるようだった。


「車いすですね、ちょっと待ってください」


時間的にワンマン運転なので、運転手が駅にある車いす用のスロープを出して、私たちが乗車すると、今度はそれをしまって、ということをしなければならなかった。

「時刻表では低床車両になっていたんだけど」

「仕方がないさ、点検で変わることもあるんだから」確かに時刻表をよく見るとそう書いてあった。二人で窓の外を眺めながら、あと四駅ほどの所で父がぽつりと言った。


「西山で降りよう」


 私はその言葉に驚いた。今いるこの駅から次の駅まではとても短く一分ほどしかない。その次からはまた二分間隔に戻る、つまりあと三分したら降りるというのだ。

今日一日父といてわかった。容体は本当に良くない。もしかしたらこれが父が乗る、最後の電車になるのかもしれないのだ。もう一駅、私たちの乗った三ヶ森駅まではさらに二分、つまり父は五分乗れるものを三分にしようといっているのだ。

私はその父の言葉に涙ぐんでしまった。

 

 昔昔、日本人はとても時間にルーズで、西洋の人は驚いたという。それが今では事故以外ではほとんど遅れることのない、世界屈指の鉄道の国になった。父のためのスロープの出し入れは列車の遅れにつながる。しかも私たちの降りる駅は乗降客数が多く、そんな中、一人でそんなことをしてはもっと大変になる。父の言う一つ手前の駅はそれとは真逆、だから、そこで降りた方が迷惑にならないだろうというのだ。

 

 今まで父は何千、何万という電車の写真を撮ってきた。運転手や保線区の人たちとの写真もあるが、それはほんの一部でしかない。父がこれからやろうとすることは、自分の最後の五分を三分にし、今まで自分が楽しんできた鉄道を守ってきた人たちへの「恩返しのようなもの」かもしれなかった。乗客の中にはきれいな色のキャリーケースを持った若い女性もいた。このあたりにはエアポートバスはたくさん走っている。この電車に乗ったということは、この路線の出発であり、終点の駅であるところから、さらにJRに乗るということだ。乗り遅れることのできない新幹線のチケットもある、そのことを考えての事でもあったのだろう。

あっという間に三分が過ぎ、父と私は人気の少ない駅で降り、運転手もスムーズに対処ができたようで、電車はすぐに発車した。父はとても満足げだった。


「この駅も大好きなんだよ」


谷間にある駅で、地図上では実家から最も近い駅になるが、それは直線的に見ただけのことで、実際は急坂がくねくねと続いている。


「この駅で降りたんだけど、ここまで来るのに大変だった」と父の鉄道仲間が何人も餌食になった駅だった。

「お父さんのお友だちの駅よね」

「ハハハ、そうだな、思い出の駅だ」

小さな旅は終わった。



 残念ながら本当にあれが最後の三分になってしまった。父の葬儀でこの話をすると


「そうなれたら幸せだろうね」父の友人たちはみな口々にそう言った。


私も自分の最後の時を、人のために削れる人間になりたいと思っている。

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