第三十七話 流れが目指す先

心法しんぽう、と言ったか?」

「うん? ああ、心のはたらき、心が生み出すもの、心王しんおうが司り、心王が現行げんぎょうさせること。それを心法と言うんだけれども、どうかしたのか?」

 首を傾げつつ投げ掛けられたいに、一刀斎は「うむ」と頷き言葉を続ける。

「おれが、師の自斎に教わったものがある。相手の心が発した気配を読み、己の心が描いた通りに剣を振るう。相手が如何様いかような剣を振るおうと、己の唯一無二を通し、あるいは、相手が如何様な剣を振るおうと、千変万化に応じてつための術。剣は心を以て振るうべしとして、その術を「心法しんぽう」と言うのだと」

「ほーう?」

 一刀斎の返しに、月白はなにか検討がついているのか、頬を緩めて目を細めた。

 なんとも含みのある面立ちで、どこか愉快そうにも見える。

「あの夜、金翅鳥王剣こんじちょうおうけん、というものの話をしてくれたな? 天狗魔道に堕ちた男を斬った剣だと」

「ああ、そうだな」

「あのときお前に言ったことは覚えているか?」

「ふむ、たしか……」

 金翅鳥王というのは、仏典において煩悩の元たる悪竜を食らい、病毒を焼き尽くす火を纏った神鳥であり、魔を払い、煩悩を斬り払う利剣を有する不動明王にも関係すると、まだ若い月白は滔々とうとうと語っていた。

 あのときは余りに褒めるものだからむしろ呆れたが、先も言ったとおり、その言葉によって一刀斎は己の見据えるべきものを定められたこともある。

 お陰で、脳裡に深く根付いていた。

「名を付けるだけあってお前の師は――いや、更に遡るかな? あるいは武芸者達の祖というのは、神仏の教えに詳しかったのかも知れないね」

 どのように興味をそそったのか。医術ばかりに感心を持っていた月白の目が煌々こうこうと光る。

 そしてふと気付く。月白のこのような目を見るのは久しぶりなのではないかと。

 この大坂で再会してからは医者としての務めを果たしつつ、日々にうんざりとしている様子で苛立ち顔であったり、冷めた顔をしていたりしていたが、今の表情はかつてのようである。

「そういえば、東国の新当流は神道に由来するらしい。おれも師の流派やその前についてはよく知らないが、関係あるのやも知れんな」

「他には、なにか言葉はあるか?」

「他か……」

 自斎から教わったのは他には妙剣、独妙剣、絶妙剣、真剣の四つだが、それらは一刀斎でも聞き知ったものである。

 なにか仏教では異なる意味があるのかも知れないが、敢えて聞くようなものではない。

 ならば他にあっただろうかと、一刀斎は脳裡を探る。――――そのとき、ふっと思いだした言葉があった。

 それは一刀斎が、今まで相対した中で最も強かった男が、一刀斎へと語った言葉。

 あらゆるを越えた純然じゅんぜん境地きょうち。あらゆる煩悩がぎ落ちた、自然の撃剣げっけん。この世のあらゆるものを斬り落とす利剣りけん。心法の究竟くっきょう

涅槃ねはん寂静じゃくじょう……という言葉は仏典にあるか?」

「…………なるほどそれは、武での意味を問わずとも、どういうものか推察できるな」

 白い指で、細く小さな顎を撫でながら月白は微笑んだ。目線は遠く空に向けられており、「かつて」を生きた見知らぬ何者かの姿を、見ようとしているようである。

「涅槃寂静、それは、きわみだよ」

「窮み――」

 それは、あらゆる武芸者が目指す者である。

 天下一の剣術遣いだと認められた一刀斎であっても、まだ遥か遠く見えぬもの。あるいは限りなく近く、だが分からぬもの。

 姿が判然とせず、遠くにあるのか、近くにあるのか。それすらも分からないが故に、目指しはしても届かぬ領域。

 見定めるため、鍛練を重ね続けるしかない際涯さいがいである。

「意も消え、我を離れ、心の裡から一切が消えた完全なる悟りの領域。心の中に本来存在しない、煩悩という種子しゅうじも立ち消え、清浄識せいじょうしきを取り戻した原初はじまり窮極きゅうきょく。その静かな安らぎを指して、涅槃寂静と言うんだよ。いったい、どういうときに使う言葉だ?」

「お前の義父おやじ殿どのの知り合いの柳生やぎゅう新左衛門しんざえもんから聞いた言葉だ。人間がそれぞれ持っている、斬り越えるべきなにか。それを斬ったときに残ったその者の本質、ただ目指すべき理想が見えるのだと。本人にとって、自然の撃剣――――心法の究竟くっきょう、理想の剣を指して、新左衛門は「涅槃寂静の剣」と語っていた」

 一刀斎の言葉を静かに聞いていた月白は、「ふむ」と目を閉じた。

 なにか思案しているのか、先ほどまで動いていた口は結ばれている。しかしながら口の端は上がっていて、頭の中では愉快な思案が紡がれているらしい。

「……うん、なるほどね。心法に迦楼羅天に涅槃寂静。一刀斎が、いや、その剣の流れが目指したものがおおよそ分かった」

「わたしの解釈でではあるが」と言葉を添えて、しばしの間目を瞑っていた月白はうんと頷いた。

 奔放であるが、それは月白の利発さ、聡明さ故の才走りである。

 多くの知識を有しているだろうと見込んで智恵を借りに来たが、正解だったようだ。正解過ぎるほどにだが。

「恐らくだが、その名を付けた剣士は、「自由」を目指したんだろう」

「自由……」

 それは、一刀斎の名にも所縁ゆかりあるものである。

 あらゆるしがらみをまとわず、一刀の元のみを住処とする事が出来る逸材であると。つよれ、そういう意を込めて、多くのしがらみに囚われ「自由に生きたい」と願った自斎が付けた名前である。

 また、一刀斎に涅槃寂静という言葉を教えた新左衛門もまた、一刀斎を指して自由だと語っていた。

「他に囚われず、自らに由る生き方を指して自由という。六識ろくしきに惑わされることもなく、ままならぬ束縛も意に介さず、ただ、我が内の心のみに生きることができる境地。それが自由だ」

 月白の言葉に、一刀斎ははてと眉間に眉を寄せる。その言い様では、まるで。

「しかし、先ほどお前は他者からの影響も心が生み出す力の素だと言っていただろう。噛み合わんのではないか」

「いや、噛み合わないことはなんてないさ。心の芯を磨いていき、己を知る、それは他人を知らねば出来ないことだ。先人の知恵を授かり、他人と競い合い、そうすることで己と他の違いを学ぶ。違うのだから、囚われる必要が無いのだと気付く。それから他への確執かくしつや嫉妬に無意味を感じ、己を鑑み、己の道を目指すことが出来るんだ。――まあ、言うは易いけれどね」

 眉尻を下げ、自嘲気味に口の端を緩める月白。

 月白は奔放ではあるが、多くに縛られている。義父ぎふはもちろん、女の身で医者を目指すという道の険しさもあるだろう。

 義父、曲直瀬まなせ道三どうさんへ抱く確執や、先日語っていた羽柴藤吉郎の側近たる兄弟子の成功と、医者としての確かな腕を持ちながら政務にも取り組むことに苛立ちを覚えていた。

 いま月白が語ったそれと、月白は掛け離れた場所にいる。

「――――ああ、そういえば話は変わるが、たしか明日だったか? 城に登るというのは」

「うん? ああ、そういえばそうだったな」

 月白との話に夢中で、すっかりと忘れていた。未だ月白が語った言葉は判然とせず、上手く理解できていない。

 靄がかかった様ではあるが、しかし。

(まあ、良いか)

 理解できないならば、理解できないことを悩むこともあるまい。元より一刀斎が知りたかったことは、ここで知れた。

 そのついでに月白と言葉を交わし、あの日の様な朗らかな笑顔を見ることが出来た。

 それだけでも収穫なのに、敢えてそれ以上を追い求め、思い悩むこともあるまい。

豊臣とよとみの朝臣あそんに会うのならば、隣には間違いなく全宗がいるだろう。理由は知らないが口添えもしたらしいし、なにやらお前に興味を持っているらしい。充分に気をつけろ」

「医僧相手になにを気をつければ良いんだ。健康か?」

「それは日々気をつけろ。全宗については兄弟子ではあるが、なにを考えているか全く分からん。医者としての務めもなぜ果たすのかさえだ。あれは名医の家系だが、「だからこそ」という意志を持つような者じゃあない。だから……」

「そう不安がるな」

 小言の様に言葉が止まぬ。そう察した一刀斎は制する。せっかく懐かしい顔を見たのだ。それを曇らせるのは一刀斎とて本意では無い。

「流石に城で刃傷にんじょう沙汰ざたなど起こせんが、まあ、なんとかなるだろう」

「全く、相変わらず能天気な奴だな」

 せっかく心配してやってるのにと唇をとがらせ、ハアと溜め息を漏らす。まだ元来持っていた無邪気さが顔を覗かせたままなのか、四十路も近い女がするには愛嬌が過ぎる仕草ではあるが、怜悧ながらも童顔な月白がやっても違和感はない。

 この年になって、と思うところもあるがしかし、この年になっても、とも思う。

 ――――何はともあれ、だ。

(明日は、無事に終わらせるとしよう)

 それを決めるのは、一刀斎ではないかも知れないが。

 少なくとも一刀斎は、月白の顔を見てそう決めた。


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