幕外 三

「越前を出る、とは……いとまを乞うということですか?」

「そういうことだの」

 隠居いんきょが告げた言葉に、助右衛門すけえもんは目を丸くした。

「はあ、まだくせに隠居したから耄碌もうろくしたかと思ったが、なんだ、まともなことも言えるじゃねえか!」

 だが豪放ごうほうとした義兄いとこは、大岩が転がり落ちるような笑い声を上げながら唐突な申し出に賛同した。

 これには助右衛門も呆れ顔である。

「…………たしかに、越前ここにいたところでなにか好事が起きることはないでしょう。簡単に殺されてやるつもりはないが、命を狙われるのも愉快ゆかいじゃない」

 普段は眠たげに落ちている弥二郎やじろうの目が、ギラギラと輝いている。弥二郎が好きなのは「武」であり、決して戦いや戦場ではない。

 助右衛門に似て命のやり取りなどまるで興味がなく、生を脅かされるなど、言語道断だ。

「自分も老公ろうこうの意見には賛成です! 山中で田畑をたがやすことになろうとも、自分は構いません!」

 弥三郎は、若い故に気が早い。優れた肉体と剣に対する熱意は持っているのに、頭を使おうとしないのは大きな難点である。

 他三人は、老公広家ひろいえの唐突な申し出に驚くほど容易く同調している。

「待て待て待て、話を急ぐんじゃない」

 しかしながら助右衛門は、乗り気で物騒な会話をする家族達を制止する。

「せつは身重ではらには子がいる。そんな状態で国を出ることなど出来ないだろう。それに若殿ははかりごとが失敗し、仕返しを警戒しているはずだ。暇を乞おうにも顔を合わせないかもしれない」

 仕えてるのは若殿ではなく今も壮健そうけんなその父である。とはいえ通す義理もあろう。

 特に弥二郎、弥三郎は当主よりも若殿に近いのだから、挨拶をするなら孫次郎だ。弥二郎に任せる前は、助右衛門が指南役だったこともある。

「……挨拶はしなければならないか、父上?」

「無言で立ち去るなど逃げるようなものだが、腹は立たないか?」

「いや、立つ」

 弥三郎に対するいに対して、大きく頷いたのは弥二郎である。

 狙われるのは不愉快だし、煩わしい悶着は嫌なのは間違いない。

 だがそれでも一端いっぱしの人。黙ってこそこそ逃げたなどと言われるのはしゃくである。

「俺は別に構わねえがな。媚びと忠心をない交ぜにしてる野郎共の目なんざ、腐ってるも良いとこだ」

 無精髭をまさぐるように、通家は顎を撫でる。構わないというその瞳は、この越前一乗谷に集う、朝倉家臣に対する蔑みの色に満ちている。

 いや、朝倉家臣だけではない。その中にはきっと、も存在している。

「……助右衛門の言にも一理ある。ならば、ひと月待とう。正月挨拶であれば若殿とて顔を合わせないわけにはいくまい。その時、伝えれば良い。それまで儂は、屋敷におればいいだけだからの」

「爺様は良いご身分だぜ」

 広家は結局、部屋に入って座ることもせず、言うだけ言って自室おくへと戻る。

 助右衛門は障子に映る影を見送って、ふうと一息、肺の気を入れ替えた。

「……さて、時間も空いた。弥三郎、久々に合わせよう」

「兄上とですか! ちょうど良い、伯父御おじごの相手も飽きていたところですので」

「言うようになったじゃねえか、餓鬼共」

 部屋を後にする子らの冗談を、通家は笑い飛ばした。

 通家の腕前は富田流平法の中でも三指に入る存在である。そんな通家の教えを受ける助右衛門の子らは、きっと師を越えるだろう。

「はてさてアイツらは、お前を越えられるかね、弥二郎」

「俺はもう弥二郎ではないよ、義兄御あにご

 弥二郎とは、印牧家長子に代々付けられる幼名である。当然助右衛門も、幼い頃は弥二郎と呼ばれていた。

 そんな幼少時代を知る通家は、今でも二人きりになると助右衛門を弥二郎と呼ぶ。

「渾名みてえなもんじゃねえか。気にすんじゃねえよ、印牧流祖」

 ――印牧通家は、富田の三剣と謳われる剣の名手。特に小太刀の扱いは無類であり、防御の腕前は岩崖いわがけでも打つかの如く。

 ただそれでも、「新派」の走りとして呼ばれることはなかった。

 守り続けた流儀を、己の形で打ち破り、離れ独りとなった剣士は、印牧の中では独りだけ。

「印牧流」を興したのは、紛う事なく印牧助右衛門吉広その者である。

 通家はまだ温い湯呑みを一息に飲み下し、「これが酒なら」とでも言いたげに溜め息を吐く。

「お前よお、越前離れるの乗り気じゃねえな?」

「…………やはり分かるか」

「剣合わせなくても分かるぜ。長え付き合いだからな」

 見通されたと、助右衛門は天井をあおぐ。天井の木目もくめは、見る度に違った顔を見せる。

 今日の顔は、くたびれた菩薩ぼさつだ。

「お前、越前ここが好きだったかよ?」

「いや、別に。国について深く思ったことはない。家も変わったし一乗谷に愛着もない」

 ただ、と助右衛門は一度区切り。

「師匠たちと剣の話が出来なくなるのは、辛いなあ」

 心法の師である富田とだ五郎左衛門ごろうざえもん。平法の師である富田とだ治部左衛門じぶざえもん

 助右衛門が剣に長じた理由は、この二者を強く敬い、その技とひたすら向合ったからである。

 師だけではない。義兄を初めとする富田の三剣と謳われた剣士達が、兄弟子にいたことも幸運である。

 彼らの技を目で見て学び、それぞれ異なる得意があると知った。

 その二つが元となり、師の教えに従いながら、己の得意を希求ききゅうする姿勢を生んだ。

 結果手に入れたのが、富田流より大きく離れた大太刀おおだち流儀りゅうぎ、天を摩する大上段。

 小太刀をもちい、源流げんりゅう念流ねんりゅうの代より続く受けの妙技より掛け離れたもの。

 それ故他の富田勢からは、揶揄やゆされる。

「だが富田流は、あの頃とは大きく変わっちまったぜ」

 分厚いまぶたの奥から、にぶ眼光がんこうきらめいた。

「ただ剣を習ってる奴が増えた。深めようとしない奴が増えた。前六つだけを手習いしただけで深奥を見たと言いやがる。受けのなんたるかを、理解せずにいる」

 先ほど通家は「構わない」と言っていたが、通家は、腕で押されば抜ける暖簾ではない。聳え立つ巨岩きょがんである。

「俺は許せんのよ」

 故に構わないとは、知らん振りをするわけではない。「クズが」と吐き捨て見下すだけだという、尋常でない敵意である。

 知りもしないのに知った気でわらう連中が。

 剣より権が好きな連中が、のさばるここが気に食わない。

 居心地が悪い。反吐が出る。

「俺は、越前ここが嫌いだ。文武両道とうたいながら、片道だけ高みにあると言う一乗谷ここがだ」

 現当主は、文武両道の士である。越前朝倉の隆盛を生み出した紛う事なき傑物である。

 しかし京から待避させた貴族がもたらした、典雅で優美な風流が、それまで武を誇っていた朝倉家中を染め抜いた。長きの平穏で脆くなった気骨が抜かれ、文字通りの骨抜きだ。

 そのことを、現当主はしと思っていないのだ。

 今の越前は、窮屈きゅうくつだ。

「俺はな弥二郎、自在に生きてえんだよ。俺にはここが、狭すぎる」

 たとえ愚かしいと言われようと。馬鹿げてると言われようと。おもままに生きていたい。

 それが、印牧通家の願望である。

「……狭すぎる、か……たしかに、そのいわおのような図体ずうたいではな」

「お前はどうなんだ? 弥二郎、お前はここが、狭いと感じねえか?」

「ふぅむ……」

 天井の木目に向けたまま、助右衛門は唸る。そのまま悩むかと思ったが、答えは瞬時に帰ってきて。

「俺は、別に俺と家族が住める屋敷さえあればいいな。……ああ。いや」

 もしかしたら、それでもまだ、広すぎる。

「剣を振れる広ささえあれば、俺は地獄でも構わないかもしれない」

 事も無げに、言い切った。

 それで通家ははたと気付く。助右衛門はこの越前を離れることにただ乗り気じゃないわけではない。

 助右衛門は、のだ。

 師匠から離れるのが辛いというのも、「剣を深めにくくなるから」という身勝手な理由である。

 今し方に自在でありたいとうそぶいた自分がちっぽけに思える。

 助右衛門こそ、自在に生きている。

 己のままに、自由自在に生きているのだ。

「……全く、お前にゃあ叶わねえなあ昔から」

「む? 昔は義兄御に負けてばかりだったと思うが……はて?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る