幕外 四

「う……く、ぐぅうう……!」

「せつ、大丈夫か、せ……」

助右衛門すけえもん様は出て行ってください! ここからは女の役目です!!」

 助右衛門がまだ弥二郎やじろうと、いや、そう名付けられる前から印牧家かねまきけに仕えた女房が、助右衛門を部屋から叩きだした。

 閉まるふすまから垣間見えたのは、妻、せつの苦悶の表情だ。

 初めての子である弥二郎のときや、重さ一貫を越えて生まれた弥三郎やさぶろうのときよりも、ずっと苦しそうであった。

「甥か姪が生れるとは、年明け早々そうそう慶事けいじじゃねえか」

 心配そうに襖を見る助右衛門に声を掛けたのは、通家みちいえである。

 喜ばしいと口で言っておきながら、酒を飲み酔っ払っても変わらない、いつもの巨岩のような力強さがあまり感じられない。

「むう……今日は弥二郎が若殿わかどのへの挨拶に付き添うのと。本家に顔を出すつもりだったのだが……」

 今日という日は、朝倉あさくらの次期当主孫次郎まごじろうに新年の挨拶と、暇乞いをするはずの日であった。

 ついで、そのことを本家にも報告するはずだったが、身重だったせつが急に産気さんけづき、切羽詰まった状態にある。

 今でも襖の奥から、時折せつが苦痛に喘ぐ声が聞こえてくる。

「なに、本家の方にゃ俺と爺様がいきゃあいい。弥二郎の付き添いは、弥三郎にでも任せとけ。そんなんじゃあなにも手につかねえだろうしな」

「すまない義兄御あにご……本家の方は任せた」

 助右衛門は通家に頭を下げると、すぐさま襖の方へと顔を向ける。

 そんな義弟ぎていを見遣りながら、まだ寝てるだろう広家ひろいえのいる屋敷の奥まで向かう。時折聞こえる、妹の叫びこえ歩幅ほはばを狭くしつつ。


「おはようございます」

「失礼いたす!」

「おや……これは助右衛門殿の子息しそくがたではないですか」

 朝倉のやかたを、弥二郎は訪ねていた。

 本来なら隣にいたのは助右衛門ちちおやだが、その助右衛門は家の大事、母の出産に付き添いたいと屋敷に残り、その代役に、弥三郎おとうとを連れてきた。

 出迎えの男は二人。片方は腕を組みこちらを睨み付け、もう片方は顎を上げ、明らかに見下すような視線を送ってくる。

 が、兄弟の背は高い。見下すようでいて、その視線はやや上向きだ。

 弥二郎はこの男たちを知っている。富田一門みうちで腕が立つが、妙に気位きぐらいが高く傲慢こうまんな気質を感じる連中だ。

 伯父おじ風に言えば、「剣より権を好んでいる」男どもである。

若殿わかどのに新年の挨拶に参りました」

「もう年が明けてしばらくたつが……?」

「我らのような末端まったんが、早くに来れば他の重臣じゅうしん方の面目も潰れましょう」

 潰してやりたい気持ちは密にし、一応の体裁ていさいは整える。

 しかしやはり性に合わない。臓腑ぞうふがぞわぞわ腹の内から暴れている。

「なるほど、それは良い心がけ……。ですが、残念でしたが、若殿はうたげ続きで体調を崩されまして、自室で休んでおられる」

「とはいえ、こちらにも伝えねばならない話がある。屏風びょうぶ越しでも壁越しでも構わないから、会わせてもらえないだろうか」

 渋る男に対して食い下がったのは弥三郎である。

 弥三郎も兄と同じく、なぜこうもへりくだらねばならないのかと胸の内で心の臓が暴れているが、それはもうしばらくの辛抱である。

 この越前より離れられれば、あとはこの奴輩やつばらに、頭を下げるどころか顔を合わせることもない。

 二人の男は顔を見合わせたが、ずっと黙っていた片割れが頷くと、口を交していた方も遅れて首を振る。

「……あい分かった。若殿は二階、登ってすぐの部屋におられる。弟殿は、広間の方へ」

「…………承知した」

 最後まで付き添いたがったが、体調が優れないというのなら無理に顔を合わせるわけにもいくまい。本音を言えば、あまり顔も見たくない相手でもある。

「では、いってくる」

 そんな弟を見遣り、弥二郎は階段へ歩みを進める。

 山の坂のような急な階段を、しかと足を上げて登る弥二郎。男は階段を上がってすぐと言っていたが……。

(しかし、静かだな?)

 年が明けてもう九日。臣下たちはもう新年の挨拶を済ましているだろうし、館の中も一段落ついたというところだろうか。

 ここまで来れば、すっかり平時と変わらないなと前に意識を戻せば、階段はもう終わろうとしていて視界が開けている。

 広がる廊下の左側、白銀しろがねいろの引手が目立つ竹に雀が描かれたふすま。さきの男が言ったとおりならば、孫次郎まごじろうがいるのはここだろう。

「若、こちらでしょうか。ご気分が優れないところ申し訳ないが、年明けの礼と、一つ、お伝えしなければならないことがあり、印牧かねまき弥二郎やじろう、参りました」

 襖をいきなり開けることなく、まず初めにと中に声を掛ける。だが中から返事はない。

 四度五度、足踏みをし、寝てもいるのかともう一度声をかけようとしたそのとき。

「……弥二郎か、顔は合わせられないが、構わない、入って良い」

 ちょうどいいところで、声が返ってきた。引手に手を掛け、開けながらふと思う。

 合わせられないなら、別に襖越しでも構わないだろうに――――。

「失れ――――っ!!」

 眼前。一つのが現われる。

 弥二郎は、そのの正体を知っていた。

 それはかつて、伯父おじと立合稽古をしていたとき、唐突に目の前に飛んできたと同じであり。

 瞬間弥二郎は、咄嗟に上体を反らした。半身になった目の前を過ぎったのは、引手よりも輝く、鋼色の刃。いつか見た、孫次郎の小脇差たんとうだ。

刺突しとつ、いや、投擲とうてき!)

 なかごを納める小豆あずき色の柄に、手は添えられていない。

 ならば、これを投げた本人は今、両手が空いている……!

「シッッッ!」

「ぐ、ぬぁああッ!!」

 室内を見たときにはもう、白刃を抜いた孫次郎がすぐそこまで迫っていた。完全に虚を突かれ、左腕が斬り裂かれた。

「っ、ちぃっ!」

 弥二郎は身を屈めて逃げるように廊下を転がり、階段へと身を投げ打った。

 完全に気を抜いていた。孫次郎が己の命を狙っていると身を以て知っていたのに、一度ばかりの失敗で諦めたかどうかなど分からぬのに、二人で会おうとしてしまった。

 思い出したのは、伯父御おじごの孫次郎に対する揶揄やゆ

 甲羅に閉じこもった亀が、唐突に噛み付くようなもの。

 いま孫次郎は、正に部屋という甲羅から、頑強なさついを飛ばしてきたのだ。


「何事だ!?」

 なにかが転げ落ちる音に、弥三郎は広間を飛び出した。目にしたのはすぐ側にある階段、その前に伏す兄の姿。

 その左腕からは、血がだらりと流れている。

「兄上、なにが……!」

「フン!」

 倒れる弥二郎に近付こうとした矢先、野太い腕に身体が抱き止められる。

 今まで広間に共にいた、自分らを出迎えた男たちの片割れである。

「これも主命しゅめいだ……! 悪く思うな…………!」

「断る!」

 剥き出しだった足に、弥三郎の踵が突き刺さった。

 足の甲が陥没かんぼつし、浮くはずの土踏まずが、冷たい床板にへばりつく。

 その一瞬、弥三郎をしかと抑えていたはずの腕が崩れた。

ッッッ!」

「グギィアア!」

 弥三郎はその瞬間を逃さず腕を振り払い、振り向き様、腰に差した脇差を振るう。

 振り上げられた刃は頬肉を抜け奥歯を割り、口蓋こうがいさえも斬り裂いて、平たい石のようであった男の顔面は、上半分だけ後ろに落ちた。

「兄上、無事か!?」

「左腕の感覚がない、右腕しか使えん!」

 使えない。一瞬それの意味が分からなかった弥三郎だが、その理由は直ぐさま理解した。

「者共であえ! 弥二郎達を亡き者にしろ、貴様らの総力を挙げて切り潰せ!!」

 階上かいじょうから響く、裏返り女子のようにか細い怒声どせい。孫次郎。

 その号令と同時に現われたのは、いったいこの静かな屋敷のどこに隠れていたのだろうか、十二十では足りぬ男共。

 男共の顔はみな、見覚えがある。その大半が、富田流を半端に学んだ剣士だ。

 弥二郎と弥三郎はすっかり囲まれ背中を預け合う。

 弥二郎が握るのは常寸の太刀、弥三郎が握るのは三尺ばかりの小脇差。

 この刺客共、全員斬り伏せるに足りるかどうか。

「懸れぇええい!!!」

 そんな疑念、抱く間もなかった。

 八方から迫る煌めく白刃と気狂いのような叫び声。多勢に無勢、しかし逃げ道はどこにもない。

 ならば。

「行くぞ、弥三郎!」

「……応!!」

 二人は己が手に持つ刀を、迫る相手に打ち振るう。

 弥二郎は片腕ながら、果敢かかんに攻めて正面から打ち合い手早く切り捨て、弥三郎は待ち、一人一人を的確に、確実にほうむって。

 弥二郎、弥三郎はまだ若い。ここにいる剣士達の誰よりも若かろう。

 ただそれでも、如きは生粋の剣客に、触れることなど叶わない。

ァアアアアア!」

セイッ、ォオオオアア!」

 何十人もいたはずの兵士達が、徐々に数を減らしていく。そして人垣が薄くなり始め、間もまばらに、待避経路の道が出来はじめる。

 もう少しで退散が出来る。そう確信した二人はより一層こころの奥へと気を込めた。

 ――――しかし。

「……っ」

 少なくなった共が、いきなり伏せた。広がる視界、低くなった人垣の奥。そこにいたのは。

「…………ん、が、あ」

 矢を番えてない、弓師の姿。その手に矢はない変わり、弥三郎の心の臓に、矢が深々と刺さっている。

「弥三郎! 無事か弥三ろ――ふ、ごふ……!」

 気が、反れてしまった。最後の最後まで、気を張り詰めなければならなかったのに。

 返しの深い尖矢とがりやが、弥二郎ののどを貫いて、最上三つのせぼねを砕いた。

 兄弟達の、動きが止まった。もはや命はたすからない。そんな死に体の身体に、たちは気にもせず、思い思いに刃を突き立てる。

 二人の大きい身体にくの内側で、刃と刃が互いにぶつかるほどの多さ。臓腑ぞうふのどれほどが、元の原型かたちを留めているのか。

 もはや兄弟達の肉体は、臓物の挽肉ひきにくが詰められた皮でしかない――――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る