第二十一話 身を焦がす熱

「すまんな、客人である御身おんみに用意をさせて」

「いえ、お気になさらず」

 一刀斎が留守を任されていた瑠璃光るりこうに現われたのは、曲直瀬まなせ玄朔げんさくと言う男だった。

 一刀斎も面識がある月白の養父おじ曲直瀬まなせ道三どうさんの養子を名乗っていたが、そう言えばかつて柳生やぎゅうていで、月白は兄がいると言っていた。彼がそうなのだろう。

葛湯くずゆでよろしかったですか?」

「……ああ、構わない」

 それはさっき月白が作ったものを飲んだのだが、客に用意までさせて無碍むげにするのは気が引ける。

 白い湯気の立つ湯呑みに口を付け、一口あおる。

「――――む、美味い」

 月白が作ったものより、数段と。いや、月白が作ったものも相当な美味さだったが、これはより美味い。月白が普段使うものとは、また別の生薬しょうやくも使っているのだろう。

「ならばよかった。今年の冬は一層冷えそうですから、強壮になるものを少々混ぜました」

妹御いもうとごが言っていた。御身は食に凝っているとか」

「食事は口より入って血肉となるもの。ならばその食事で滋養が取れれば、万病とは無縁となりますから」

 伏せられた目は小刀のようで、月白のものとよく似ている。道三の目とはまた違うから、父親がそういった目をしていたのだろう。

 仏像の慈愛溢れる目を、そのまま持ち合わせたかのような形と色だ。

「一刀斎様、あなた様のことは月白や養父ちちより耳にしておりました。若きころより武者修行の一人旅をしていたとか。今もその旅を」

「ああ。伊豆いずを拠点に気の向くまま旅をしている。医者の御身らに言わせれば、ろくでなしの類だ」

「医者の手前、その謙遜けんそんの返答には困りますね」

 月白は自分に素直な気質をしているが、どうやら兄も素直らしい。

 素直というのは便利な言葉だ。奔放ほんぽうにも従順じゅうじゅんにも使える。

「とはいえ、一つの目標を掲げ、邁進まいしんする気概きがい信念しんねんは見事なものと思います。高い志を持つことは、悪いことではないと。あなたのことは志ある方と月白が言っていましたし、手前もそうだと思いますので」

 どうやら京に戻ってから月白は、よくよく一刀斎のことを話していたらしい。兄の口振りから、散々聞かされたと見て取れる。

 なんともこそばゆい。そんな気持ちを葛湯と一緒に飲み込んで、一刀斎は本題に入る。

「して、御身はなぜ瑠璃光ここに? もしや、月白を連れ戻しに?」

「妹はここで立派に働いていますから、連れ戻そうとはとても。ただ毎年、年の瀬が近くなると年末には一度帰るよう勧めに来ているのです。……今日は間が悪かったようですが」

 たしかにもう月が変わる。あと数十日かで年も変わるのだ。実家に帰るのも自然だろう。しかし、玄朔の言いようではまるで。

「もしや月白は、帰っていないのか?」

「ええ、一度たりとも。数年前からここに赴き催促しているのですが……。養父ちちも連れ戻そうとは思ってはいないようですので。手前も月白いもうとの腕は知っていますし、医を以て衆生しゅじょうを助けているのならば、それでよいと」

 一度たりともということは、十年近く帰っていないことになる。月白は婚姻こんいんさせられそうになって逃げ出したと言っていたが、それほどまでに嫌な相手だったのだろうか。

「月白は女ながら、自立心が強いですから。人のものになる、もののように使われるということに忌避感があって当然です。養父ちちもあの日以来、月白をどうこうするのは諦めました」

 そういう玄朔は、ふぅと一つ溜め息を吐く。記憶の中の辛みと解放された安堵、二つ交じった息である。

「月白にはだいぶ苦労させられたようだな」

「ええ、才走ってはいますが、同じように気が逸り思い立てばすぐ動きますから。人生は短いとはいえ、手前には、生き急いでいるようにも見えます」

「…………たしかにな」

 月白は、天下一の医者を目指している。そのためのあらゆるしがらみを疎い、例え周囲からその夢を無理だと断じられようとも進んできた。

 年を取ってもなおその熱意に陰りはないが、その情熱に、身を焦がしているようにも思える。焦ると言う字に焦げるという字を使うのは、ただの偶然なのだろうか。

「行く道の長さを知ったとき、まだ先があるからと速さを緩めるか。まだ遠いからと全力で駆けるか。どちらが正しいのか、手前には分かりません」

 人間は、長い距離を常に速く駆け抜けるようには出来てない。一刀斎も体力に自信はあるが、京から伊豆いず伊東いとうまでを休まず走るのはまず無理である。あの富士の山を駆け上がることなど出来はしない。

 天下一への道は、それらよりも遥かに遠い。

「月白から聞きました。あなたも、天下一を目指す者なのでしょう。あなたは、どちらを選び取りますか。速さを緩めるか、全力で駆けるか」

「どちらでもないな」

 スパリと、一刀斎は考えるまでもないと即座に答えた。

 聞いた玄朔の方が答えに窮する始末だ。

「と、言いますと?」

「おれはただ、今を懸命に走ることだけをしてきた。天下一のために剣客の道を進んで来たが、今をこなせねば先に行き着くことなど出来ないからな。先を思うならばこそ、先より今を重んじねばなるまい。人はしょせん、今にしか生きられん」

 剣客の生き方というのは、生死の境を行くものだ。理想は先にあるとはいえ、死にかけることなどざらにある。

 理想を叶えるためにはまず、今を生き抜かねばならない。

 一刀斎はそういう世界で生きてきた。故に玄朔の問いに対して持ち合わせる答えはない。

「すまんな、参考にならんだろう」

「いえ……同じ天下一とはいえ、その違いを認識していなかった手前の不始末です。お気になさらず」

 そう言って玄朔は軽く頭を下げる。

 確かに、武芸者の道と医者の道は大きく違う。月白は武医ぶい同術どうじゅつと語っていたが、人を斬るわざと人を治すわざならば、後の方が困難だ。

 一刀斎が相対した中で最も強かった剣客は、誰より剣術を理解している今世無双は、「その方が難しいから」と、「殺さない剣」を極めようとしていた。

「天下一の医者とは苦難な道だろうな」

「ええ。……義父ちちは天下一の医者など、そんなものは要らぬと語っております」

 そういえばかつて、月白も同じことを言っていた。

 医者聖いしゃのひじりたる曲直瀬道三が言うのだから、なにか意図があるのだろう。

 しかし天下一の名医がいれば、救える者も多いと思うのだが……。

「なぜ、要らぬのだ?」

「はて、手前には分かりません。……月白が家を出るとき、養父ちちは要らぬ理由が分からぬ限り、まことの医者になどなれないと言っていました」

「僧侶らしい難解な話だ」

 物事を短絡的に考える自分には分からぬ世界だと、一刀斎は鞘越しに刃を撫でた。

 一刀斎の相対する問題は、たいていこれ一つで方が付く。月白はよほど、険しい道に身を置いているらしい。

「…………なにより養父ちちの言うとおりならば、真の医者はもう既に」

「む……?」

「……いえ、失礼しました。手前共の話です」

 なにやら意味ありげな玄朔の呟きに耳を傾けたが、玄朔はすぐにこうべを振り続きを言わない。

 一刀斎も気になるところだが、本人に言う気が無いなら追及も出来ない。

 その先を言わないならば、と。

「……昔の月白というのは、どういう風だったのだ?」

「昔の妹、ですか」

 不意に気になったことを、一つ訊ねる。

 柳生やぎゅうさとで一度、月白から身の上話を聞いたことがあった。自分は伯父の弟子にしてもらえなかったから、その医術わざを盗み取り学んでいたとか、他の弟子たちにこっそり知識をもらっていたとか言っていた。

 しかし過去の月白について知っているのは、その程度。それ以上は知らなかった。

 玄朔は目を閉じ、過去を思い返すように多少俯く。しばしの無言が続き、出て来た言葉は。

「今と大して変わりませんね」

 キッパリハッキリ、言い切った。溜めに溜められたあとに出された答えに、気が抜けて思わず体ががくんと下がる。

「そう、なのか」

「ええ、昔から自由じゆう奔放ほんぽうでした。医学書を勝手に持ち出して読んだり、薬種やくしゅを盗んでは薬を作ったり……あとは近くの野山に生薬となる薬草や動物を捕まえに行って、日が暮れても帰ってこず、弟子総出そうでで探しに行ったら一人で帰りけろっと夕飯を食べていたこともあります」

「それはまた、なんともはや」

 並でない行動力である。柳生の郷まで無断で付いてきたり家を飛び出し診療所を作ったりする今と、確かに変わらない。

「叱られても、妹は決して反省をしませんでした。全て自分の意志で行動し、自分に責があると自覚していたのでしょう。今の月白は子どものようでもありますが、昔の月白は、逆に大人びて見えました」

 幼くして成熟した精神も、大人になっても変わらなければ子ども染みて見える。なんとも面白い話である。

 月白というのは、とかく度胸がある果敢かかんな女だ。……だが。

「……妹は、強い。他の弟子にからかわれようと、蔑ろにされようと、笑われようと、自身の夢を諦めなかった。教えを受けなくとも、いえ、受けないからこそ自ら熱心に学び取り、知識を蓄え、医術を身に付けました。妹の腕は、今では誰しも認めるものになりました。ただ独りでも月白は、まことに強く……」

「一つ違うぞ」

 思わず、口を出した。

 突如入った否定の言葉に、玄朔の口が止まる。

 一刀斎と玄朔ならば、玄朔の方が月白をよく知っているに違いない。

 だが一つだけ、一刀斎が知っていることがある。

「奴は、常に孤独こどくだった。いつも頬笑んで見せながら、心のうちに不安があった」

 それはかつて柳生の郷で、月白が涙と共に漏らした言葉。

 誰にも認められず、導かれず、誰も手を取り合わなかった。それでも天下一の医者という夢を諦めずに進んだからこそ、月白の生は尊いのだ。

「月白が強いのは、周囲に負けず学んだからではない。不安を抱えながら、それを見せずに孤独の道を歩き続けたからこそ強いのだ」

 己の弱さに膝を屈さず、己を奮い立ててきた。

 一刀斎は昔の月白を知らないが、頭で描いたその姿を、瞼の裏に映すだけで胸が熱くなる。

 月白の持つ強さとは、周囲に負けないでは無く、己に勝つ強さだった。

「――――そう、なのですね」

 柳生の郷でのかつてを、つい話してしまった。

 月白は身内だろうと、いや、身内だからこそその思いを秘めていただろうに。うっかり漏らしてしまった。

 妹が秘めていた想いを知った玄朔は深く俯き、剃髪した頭を一刀斎に向けている。

「……手前が教えるどころか、あなたに教えられました。ありがとうございます。一刀斎様。――――月白にあなたのような理解者がいたことが、とても嬉しい。妹の強さを知り、兄として誇りに思います」

 上げられた顔は、まるで慈しみ溢れる仏のようで。

 身内に対する強い愛が、満ち満ちていた。

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