第二十一話 身を焦がす熱
「すまんな、客人である
「いえ、お気になさらず」
一刀斎が留守を任されていた
一刀斎も面識がある月白の
「
「……ああ、構わない」
それはさっき月白が作ったものを飲んだのだが、客に用意までさせて
白い湯気の立つ湯呑みに口を付け、一口
「――――む、美味い」
月白が作ったものより、数段と。いや、月白が作ったものも相当な美味さだったが、これはより美味い。月白が普段使うものとは、また別の
「ならばよかった。今年の冬は一層冷えそうですから、強壮になるものを少々混ぜました」
「
「食事は口より入って血肉となるもの。ならばその食事で滋養が取れれば、万病とは無縁となりますから」
伏せられた目は小刀のようで、月白のものとよく似ている。道三の目とはまた違うから、父親がそういった目をしていたのだろう。
仏像の慈愛溢れる目を、そのまま持ち合わせたかのような形と色だ。
「一刀斎様、あなた様のことは月白や
「ああ。
「医者の手前、その
月白は自分に素直な気質をしているが、どうやら兄も素直らしい。
素直というのは便利な言葉だ。
「とはいえ、一つの目標を掲げ、
どうやら京に戻ってから月白は、よくよく一刀斎のことを話していたらしい。兄の口振りから、散々聞かされたと見て取れる。
なんともこそばゆい。そんな気持ちを葛湯と一緒に飲み込んで、一刀斎は本題に入る。
「して、御身はなぜ
「妹はここで立派に働いていますから、連れ戻そうとはとても。ただ毎年、年の瀬が近くなると年末には一度帰るよう勧めに来ているのです。……今日は間が悪かったようですが」
たしかにもう月が変わる。あと数十日かで年も変わるのだ。実家に帰るのも自然だろう。しかし、玄朔の言いようではまるで。
「もしや月白は、帰っていないのか?」
「ええ、一度たりとも。数年前からここに赴き催促しているのですが……。
一度たりともということは、十年近く帰っていないことになる。月白は
「月白は女ながら、自立心が強いですから。人のものになる、もののように使われるということに忌避感があって当然です。
そういう玄朔は、ふぅと一つ溜め息を吐く。記憶の中の辛みと解放された安堵、二つ交じった息である。
「月白にはだいぶ苦労させられたようだな」
「ええ、才走ってはいますが、同じように気が逸り思い立てばすぐ動きますから。人生は短いとはいえ、手前には、生き急いでいるようにも見えます」
「…………たしかにな」
月白は、天下一の医者を目指している。そのためのあらゆるしがらみを疎い、例え周囲からその夢を無理だと断じられようとも進んできた。
年を取ってもなおその熱意に陰りはないが、その情熱に、身を焦がしているようにも思える。焦ると言う字に焦げるという字を使うのは、ただの偶然なのだろうか。
「行く道の長さを知ったとき、まだ先があるからと速さを緩めるか。まだ遠いからと全力で駆けるか。どちらが正しいのか、手前には分かりません」
人間は、長い距離を常に速く駆け抜けるようには出来てない。一刀斎も体力に自信はあるが、京から
天下一への道は、それらよりも遥かに遠い。
「月白から聞きました。あなたも、天下一を目指す者なのでしょう。あなたは、どちらを選び取りますか。速さを緩めるか、全力で駆けるか」
「どちらでもないな」
スパリと、一刀斎は考えるまでもないと即座に答えた。
聞いた玄朔の方が答えに窮する始末だ。
「と、言いますと?」
「おれはただ、今を懸命に走ることだけをしてきた。天下一のために剣客の道を進んで来たが、今をこなせねば先に行き着くことなど出来ないからな。先を思うならばこそ、先より今を重んじねばなるまい。人はしょせん、今にしか生きられん」
剣客の生き方というのは、生死の境を行くものだ。理想は先にあるとはいえ、死にかけることなどざらにある。
理想を叶えるためにはまず、今を生き抜かねばならない。
一刀斎はそういう世界で生きてきた。故に玄朔の問いに対して持ち合わせる答えはない。
「すまんな、参考にならんだろう」
「いえ……同じ天下一とはいえ、その違いを認識していなかった手前の不始末です。お気になさらず」
そう言って玄朔は軽く頭を下げる。
確かに、武芸者の道と医者の道は大きく違う。月白は
一刀斎が相対した中で最も強かった剣客は、誰より剣術を理解している今世無双は、「その方が難しいから」と、「殺さない剣」を極めようとしていた。
「天下一の医者とは苦難な道だろうな」
「ええ。……
そういえばかつて、月白も同じことを言っていた。
しかし天下一の名医がいれば、救える者も多いと思うのだが……。
「なぜ、要らぬのだ?」
「はて、手前には分かりません。……月白が家を出るとき、
「僧侶らしい難解な話だ」
物事を短絡的に考える自分には分からぬ世界だと、一刀斎は鞘越しに刃を撫でた。
一刀斎の相対する問題は、たいてい
「…………なにより
「む……?」
「……いえ、失礼しました。手前共の話です」
なにやら意味ありげな玄朔の呟きに耳を傾けたが、玄朔はすぐに
一刀斎も気になるところだが、本人に言う気が無いなら追及も出来ない。
その先を言わないならば、と。
「……昔の月白というのは、どういう風だったのだ?」
「昔の妹、ですか」
不意に気になったことを、一つ訊ねる。
しかし過去の月白について知っているのは、その程度。それ以上は知らなかった。
玄朔は目を閉じ、過去を思い返すように多少俯く。しばしの無言が続き、出て来た言葉は。
「今と大して変わりませんね」
キッパリハッキリ、言い切った。溜めに溜められたあとに出された答えに、気が抜けて思わず体ががくんと下がる。
「そう、なのか」
「ええ、昔から
「それはまた、なんともはや」
並でない行動力である。柳生の郷まで無断で付いてきたり家を飛び出し診療所を作ったりする今と、確かに変わらない。
「叱られても、妹は決して反省をしませんでした。全て自分の意志で行動し、自分に責があると自覚していたのでしょう。今の月白は子どものようでもありますが、昔の月白は、逆に大人びて見えました」
幼くして成熟した精神も、大人になっても変わらなければ子ども染みて見える。なんとも面白い話である。
月白というのは、とかく度胸がある
「……妹は、強い。他の弟子にからかわれようと、蔑ろにされようと、笑われようと、自身の夢を諦めなかった。教えを受けなくとも、いえ、受けないからこそ自ら熱心に学び取り、知識を蓄え、医術を身に付けました。妹の腕は、今では誰しも認めるものになりました。ただ独りでも月白は、まことに強く……」
「一つ違うぞ」
思わず、口を出した。
突如入った否定の言葉に、玄朔の口が止まる。
一刀斎と玄朔ならば、玄朔の方が月白をよく知っているに違いない。
だが一つだけ、一刀斎が知っていることがある。
「奴は、常に
それはかつて柳生の郷で、月白が涙と共に漏らした言葉。
誰にも認められず、導かれず、誰も手を取り合わなかった。それでも天下一の医者という夢を諦めずに進んだからこそ、月白の生は尊いのだ。
「月白が強いのは、周囲に負けず学んだからではない。不安を抱えながら、それを見せずに孤独の道を歩き続けたからこそ強いのだ」
己の弱さに膝を屈さず、己を奮い立ててきた。
一刀斎は昔の月白を知らないが、頭で描いたその姿を、瞼の裏に映すだけで胸が熱くなる。
月白の持つ強さとは、周囲に負けないでは無く、己に勝つ強さだった。
「――――そう、なのですね」
柳生の郷でのかつてを、つい話してしまった。
月白は身内だろうと、いや、身内だからこそその思いを秘めていただろうに。うっかり漏らしてしまった。
妹が秘めていた想いを知った玄朔は深く俯き、剃髪した頭を一刀斎に向けている。
「……手前が教えるどころか、あなたに教えられました。ありがとうございます。一刀斎様。――――月白にあなたのような理解者がいたことが、とても嬉しい。妹の強さを知り、兄として誇りに思います」
上げられた顔は、まるで慈しみ溢れる仏のようで。
身内に対する強い愛が、満ち満ちていた。
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