第二話 二つの約束

 伊東いとうは三方を山に、一方を海に囲まれた地域かたちである。それゆえに、情報がなかなか入ってこない。

 対岸たいがん三浦みうらと商売をして情報を手に入れやすい利市りいちや、利市から情報を得た織部によると。

 北条ほうじょうぐんは京に戻る織田おだぜい滝川たきがわ追撃ついげきし、大打撃を与えた。

 その勢いに乗った北条は、つい最近まで織田が実質支配していて、空白地帯となった甲信こうしん二州にしゅうへ―やらずとも良いのに―侵攻しんこう

 対するのは織田と深い関係にある、三河みかわ徳川とくがわ

 そこに越前えちぜん上杉うえすぎやら甲信の土豪どごうやらも動きだし、群雄割拠ぐんゆうかっきょの混戦状態となっていて、上野こうずけにまで戦乱が広がる始末。

 ようやく落ち着いてきた九月くがつの末、いよいよ出発時かと思いきや、今度は山の向こう、三島で―なんとも迷惑な話だが―戦が起きた。

 一刀斎は歯噛みしながら、被った笠を枕元に置く。

 部屋の片隅かたすみ用意よういされた旅仕度たびじたくは、使われぬまま夏を越した。

 結局、一刀斎が伊東いとうったのは、秋も深まってのことになった。

「では、今日こそおれは京に向かう」

「ええ」

 見送りにいるのは、とじ一人。織部や信太しんたたち他の者は、月終わりの雑事ざつじ奔走ほんそうしていた。

「……あの時は、こうやって見送ることが出来ませんでしたね」

「今さらなにを?」

 とじは、初めて三島神社を出たときの日を言っているのだろう。

 あの時、とじは物忌みするために一刀斎と顔を合わせることは出来なかった。

 だがしかし、旅の支度を調えるために部屋に戻れば既に用意されていて、そこには、今も一刀斎の花をくすぐる爽快な香りが残っていた。

「それに、近頃旅に出るときは、こうやって見送ってくれているだろう」

「……ええ、そうですね」

 相変わらずとじは、眉目びもくを動かさない。口をぴったり真一文字に結んでいて、真面目くさった表情だ。

 まあその点で言えば、常に仏頂面ぶっちょうづらの一刀斎も変わらないのだが。

弥五郎やごろう

 旅の始め、とじは必ず「早く帰ってきなさい」と言う。それが、この神社に帰ってきてから日常である。

 当然、そう言われるのだろうと思っていた。

「いつでも、帰ってきなさい」

「――――ああ」

 だが、今日は違った。

 きっと「旅の意味」の違いを認識して、言葉を選んだのだろう。

 今までのものは、剣をより深める為の修行のもの

 しかし今回一刀斎は、異なる目的を持って京へと向かおうとしているのだ。

 帰りは、いつになるか分からない。京に入って寺に参るだけで終わりかも知れないし、そのまま感傷かんしょうに浸りしばらく逗留とうりゅうするかも知れない。

 加えて、京にも近い自斎ししょうの元におもむかねばならないだろう。思えば、もう十何年と顔を見せていないしふみも出していない。

「しかし、船で行けばすぐでしょうに。伊勢いせまで行く船が出ているのですよ?」

船旅ふなたび無理むりだ」

 それだけは、生涯しょうがい絶対ぜったい遠慮えんりょしたい。

 甕割かめわりの柄頭に手を添えて、笠に指先を掛ける。

「織部や信太たちには、顔も見せずにすまないと伝えておいてくれ」

「分かりました。ですが、問題は無いでしょう。あなたは半年はんとし近く待っていたのです。その様子は、みんな見ています」

 確かに、だいぶ気を張っていたと思う。織部や信太は普段通りに接してくれていたが、女房にょうぼう巫女みこたちからは、距離を少し置かれていたような気もする。

「改めて言います。あなたの気が済むまで、帰ってこなくてよいですよ。女達が怖がるので」

「ハッキリ言うな……」

 それが、とじらしいといえばとじらしいのだが……。


 今思い返せば、十余じゅうよ年前ねんまえに京を出たのも十一月だった。

 京を囲う山々やまやまは、燃え上がる紅に染まっていた。

 その大火の如き秋の山は、かつてのまま。しかし。

「……これが、京なのか?」

 かつて居着いた下京しもぎょうを目にした一刀斎は、普段は半月のような目を見開いた。

 道は整えられ、家屋かおくもかつてのような襤褸屋ぼろやではない。

 まさしく「まち」の姿をしている。為政者いせいしゃが消え武芸者や無頼が跋扈ばっこしていたとは、まるで違う。

 なにより意外だったのは、京の支配者であった織田尾張守が死してまだ数ヶ月しか経っていないはずなのに、混乱した様子がまるでないことだ。

 道を行き交う人々はみな一様に生き生きとして、溌剌とした笑顔を浮かべていた。

 てっきり、悲嘆に暮れていると思ったが――――。

「そ、そこのあなた!」

 呆けて街を見ていた一刀斎に、何者かが声をかけた。

 いったい誰だと振り向いてみれば、綺麗な身形みなりをした僧だった。剃髪しているため分かりにくいが、声の質からして年は初老といったところか。

 だいぶ苦労したのだろう、額と目尻には濃いシワが出来ている。

 はてさて誰かと思い、名をたずねようとした直後。

「あなたは、外他とだ一刀斎いっとうさい殿ではないか!? かつて京で剣腕けんわんを振っていた、大野家おおのけ食客しょっかくの!」

「――――!」

 僧の言葉に、一刀斎は息を飲む。大野家とは一刀斎が京にいた時代、世話になっていた家だ。

 鞍馬くらまりゅう継承けいしょうし、下級かきゅうながら幕臣ばくしんとして、京に残って下京の警備を担っていた大黒柱がいて、丁寧で実直な次男と、幼いながらはなやかな娘がいて。

 そして。天狗てんぐ魔道まどうち、一刀斎が自ら斬った長男がいた。

御坊ごぼうは、いったい」

「失礼しました、拙僧せっそうは」

 一瞬、僧は息を整えて。

「……かつて大野家に、仕えていた者です」


 一刀斎は、僧に寺に招かれた。

 小さな仏像が置かれた本堂ほんどうと、裏に墓と供養塔、そして隣に小さな住まいがあるだけの小さな寺だ。こんなところに寺があっただろうかと、一刀斎は心の中で首を傾げた。

「しかし、いったいなにを話せば良いか……」

 一刀斎が通されたのは本堂。その中で僧と一刀斎は向かい合って座る。

 秋も深まった堂の中は薄ら寒いが、灯された燭台しょくだいは明るく輝いていた。

「……では、まず一つ聞かせてくれ、大野家は、どうなったのだ?」

 僧は「うぅむ……」と、眉を八の字にしてうつむいた。まなじりには、蝋燭ろうそくの火で黄色く光ったしずくが照った。

 嗚咽おえつこそないものの、深く、長く鼻息はないきが漏れている。

 しばらく、堂の中が静寂せいじゃくに包まれる。

「……大野家は、断絶だんぜつしました」

 唐突に吹いた秋の風が、戸を揺らす。それと同時に僧は、ハッキリと言い切った。

「――――そう、か」

 男の素振そぶりで、察しはついていた。

 だがしかし、大野家の安泰あんたいは一刀斎が織田尾張守に対して願っていたことである。

 尾張守がを違えたか。それとも、乱に巻き込まれたのか。

「……それは、陣三郎が由来か?尾張守が逝ったことと、なにか関係あるのか?」

「……? いえ、大野家が断絶……将善しょうぜん様が倒れたのは十年前、時の将軍、足利あしかが義昭よしあき様と織田尾張守との戦いのおりです」

 僧が語るに曰く。家から辻斬りを出してしまったことを織田尾張守に許された将善は、織田尾張守と将軍足利義昭の元で懸命に務めていた。

 しかし、次第に将軍と尾張守の対立が深まって行くにつれて将善は選択を迫られる。

 奉公衆ほうこうしゅうとして、将軍にじゅんじるか。

 恩顧おんこむくいるため、織田にしたがうか。

 だが将善は悩むことなく、家名を重んじ足利に付き、織田軍と戦う道を選んだという。

 しかしながら権勢けんせいは、既に天下を手中に治めつつあった織田側にある。

 他の奉公衆も一人、また一人と寝返って行き、最後は、呆気あっけなく死んでしまったという。

「……甲四郎こうしろう様と佐奈さな様は、以前から越前えちぜんへと逃れていた母君の元へと送られました。……甲四郎様は、共に戦うと言っていたのですが、将善様はそれを断固拒否して……」

「将軍家と共に、沈む覚悟をしていた訳か」

 大野将善と言う男は、義理堅い。例え今にも朽ち果て倒れそうな主家しゅかだろうと、代々継いできたなら守らねばならぬと、そう思ってしまったのだろう。

「私もその時に、ひまを出されたのです。私達まで、付き合うことはないと。……臆病風に吹かれた私は、それに応じてしまい、かといって、織田に寝返る度胸もなく当てもなくふらついて……将善様の死を知って、その霊を慰撫いぶするために僧侶となりました」

 なんとも情けない話だと、僧は奥歯を噛みしめる。

 この寺も、その為に彼が作ったものなのだろう。自分を情けないと悔やむ僧侶だが、恥を知らぬよりは遥かにマシだ。少なくとも、しかと向き合っている。

 大野将善の死を、惜しむ気持ちもある。だがしかし、将善は己の意志に従って生きた。ならば、その死を憐れと思うのは、筋違いだろう。

「……そういえば、統治していた織田尾張守が死んだというのに、京は落ち着いているな。乱れた様子も戦の気配も感じない」

「ええ……、実は織田尾張守が背後を討たれた十日ばかり後にはもう、謀反を起こした明智あけち羽柴はしば藤吉郎とうきちろう秀吉ひでよしによって征伐されました」

「……藤吉郎?」

 羽柴のせいは知らないが、という名には聞き覚えがあった。

 かつて熱田で出会った尾張の将が、「木下きのした藤吉郎とうきちろう」という名だったはずだ。

「その将、木下という名ではなかったか?」

「ああ、はい、その将です。中国に進軍していたのですが、他の軍勢が追撃ついげきに苦心し撤退てったいに手間取る中、羽柴軍は毛利家と即座に和睦わぼく、電光石火の転進てんしんで京へと戻って来たのです」

 一刀斎の脳裡のうりにいる「木下藤吉郎」という男は調子が良く、それでも人に好かれやすい気質をした者だった。

 よもや、そのような才気さいきがあったとは、存外ぞんがいに遣り手だったらしい。

「……いち早く戻った羽柴藤吉郎秀吉は、織田軍残党を主導しゅどうし混乱を治め、京を落ち着かせました。織田尾張守の葬儀そうぎも、彼が切り盛りしつい先日行われました」

「そうか……」

 どうやら、だいぶ間が悪かったらしい。やはり無理にでも、京を出るべきだったのだろうか。

(……まさか、こんな形で約束がたがえられるとはな……)

 炎のような男と交わした、二つの約束。

 一つは、一人の男の信念によって。

 もう一つは、謀反による死によって

 本人達の手では届かぬところで、意志が、関わらぬところで、叶えられることがなかった。

 常に人が取り巻くこの世は、戦火の火種が転がるこの世は、たった二人きりの約束でさえ、遂行することが困難だった。

「……ところで、一刀斎殿はなぜ京へ?」

「……目的は果たしたよ」

 大野家の顛末と、織田尾張守の最後。一刀斎が最も知りたかった情報ことは、既に聞いた。

 僧も、一刀斎の目に得心がいったのか。「そうですか」と頷いた。

「これから、どうなさるのですか? 京に逗留とうりゅうするので?」

「――いや、少しる場所がある」

 せっかく、京までのぼったのだ。

 隣国には、「会うべき男」がまだ一人いる。

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