進火(しんか)の章
天正京都編
第一話 戦火戦乱
輝く
「……ようやくか」
蒸すように熱いが空気の湿りも少なく、久々に見た
「
「ああ、おはよう」
密かに心躍らせていた一刀斎に声をかけたのは、神社の
元は三島神社の巫女でしばらく前に引退したが、まだ神社に残り、
ここに来た理由も、雑務だ。
はにかむように
そして。
『こら
『うべえ! 敷き布団引っ繰り返すんじゃねえよさほり! いてえだろうが!?』
つい一年前、
さっきまでの清楚な雰囲気はどこへやら。腹の底から出ている、力強い声が響いて、信太が畳を転がる音が聞こえた。
三十を超えても、なんともだらしない男である。
部屋から出て来たさほりは何事もなかったかのように、さっきと全く同じやんわり
…………女というのは、本当に恐ろしい。
「うう……、まともに起こしてくれる
「まず一人でまともに起きられるようになれ」
部屋から出て来た信太は寝間着姿のままで、寝癖で髪があちこち跳ねている。
四年前のあの日、三島神社に帰ってきてから、何度となく見てきた顔だ。
「えー……? …………おお、
どうやら忠告も聞き逃したらしい。間の抜けた
「とりあえず、朝飯かー」
「先に顔を洗った方が良いぞ、信太は」
ついでに、煩悩の
「おはようございます、弥五郎」
朝食を終えた一刀斎は、
女というのは、本当に恐ろしい。
とじと出会ってそろそろ二十年近くなるが、あの頃と全く変わっていない。
なにかの
「おはよう、とじ」
「今度は、いつ旅に出るのですか?」
とじは軽い雑談も介さずに、
四年前に帰ってからというもの、一刀斎は三島神社を拠点にして、武者修行としてしばしば隣りの国や、その一つ隣の国へと足を運んでいた。期間はひと月から半年の間ほどで、気が向いたら帰ってきている。
更に言えばつい先日、
「そうだな……早ければ梅雨が明けてからになるな」
「信太も信太ですが、あなたも
正直、その指摘には返す言葉もない。
一刀斎に稼ぎはない。騒ぎがあれば神社と近隣の村の用心棒をすることがあるが、伊豆の
力仕事や薪割りなどを任されることもあるが、正直言って、タダ飯食らいである。
「まったく、弟子でも取れば良いのに」
「別に、誰かに
腰に差した
そもそも、こんな山と海に囲まれた土地。剣を学びたいという変わり者はいないし、第一、剣士になるより兵士になる方が金を稼げる。
「……ああ、そういえばあなたが帰ってくる直前、
「む?」
北条と言えば
無論、この伊豆も支配化に置いている。
恐らく、どこかで一刀斎の噂を聞きつけたのだろう。「ようやく」といいたいところではあるが、なにせこの伊東は
「受けたのか?」
「断りました」
鋭い包丁で桃でも切るように、とじはスパリと言い切った。
「あなたがなにをするかは、私が決めることではありませんから。それに、あなたは誰かに仕える気は無いでしょう?」
「そうでもない」
鋭い包丁で桃でも切るように、一刀斎はスパリと言い切った。
「……そうでしたね、あなたには、約束がありました」
「まだ、遠い話だからな」
とじや織部には、その話はもうしてある。
空を見上げた一刀斎が思い出したのは、大きく燃える大火である。
時には、全てを燃やす
時には、人々を楽しませる
時には、人を和ます
そして時には、誰かの心に火種を付ける
そんな炎が持ちうる力の全てを、
京を出るその朝に出逢い、「天下一となった
旅の最中でも、織田尾張守の噂はよく耳にした。時の将軍さえ越える
日の本の中心である京に陣取った織田軍は各地へと手を伸ばし、他国の軍勢、
まるで
さっき話にあがった北条とも、今まさに戦を繰り広げているはずだ。
あの日、
織田尾張守は、天下と言える
夏の陽射しと関係なく、火に炙られているような感覚を覚える。
約束を守るときが、
――――ふと、一つの家族のことを思い出す。
(
そもそも、一刀斎が織田に付くことになったのは交換条件を出したからである。
辻斬りという
飯といえばそこで毎日食ったほどだ。一人の
彼らから受けた恩義に
その
家の主である
それでも逞しく生き抜いていることを、一刀斎はただ願うばかりだ。
「一刀斎はいるか!」
庭を駆けて来たのは、この伊東で、唯一「一刀斎」と呼ぶ織部であった。
こちらはとじと違い、髪には白髪が交じり、目尻のシワも深くなった。体力もなくなってきたのだろう。走っただけで息が乱れている。
「どうした織部、そんなに慌てて」
「そうですよ、社内ではしたない。
「す、すまないとじ殿、叱責は後にしてくれないか!
膝についていた手を出して、とじを静止する織部。
顔が上げられればその顔は、目を見開いて
言葉通り、なにやら大事件が起こったのだろうと、とじは一時引いた。
織部は深く呼吸をして、無理矢理息を整える。昔武芸を
「いいか、一刀斎」
一刀斎を、真っ直ぐ見て。
「――――織田尾張守が、死んだ」
「――――――――」
…………なに?
織部の部屋で、一刀斎は眉を
鼻の脇には汗がじわりと浮かんでいて、唇はもごもごと忙しなく動いている。
「話は、
そんな一刀斎の正面に座った織部が、話を始める。
その利市も馴染みの船乗りに聞いた話らしい。
曰く、京にて臣下に
織田尾張守が逗留していた五条の寺は大火に焼かれ、朝日よりも強く輝いていたという。
「……確かなのか?」
あの油断も予断もなく、
謀反を起こしたのは、よほど信頼していた配下なのだろうか。
「ああ、間違いないらしい。織田家の
不義理だ、というつもりはない。機があれば討つ。それがこの世の常である。
自分ら
一刀斎の
そして――。
「……っ」
一刀斎は目を大きく見開くと同時に立ち上がり、
「一刀斎ッ!」
障子に手を掛けた瞬間、
しかしそれでも、腰の甕割を握る手は、太い骨と張った筋が浮かんでいて、小刻みに震えていた。
「いま、京に向かうのは危うい。お前も知っているだろう。織田軍は今、日の本全土に火の手を伸ばしていることを」
それは確かに、一刀斎の知るところだ。
もはや、誰も成しえなかった日の本統一まであと一歩というところまで来ている。
「先も言ったとおり、北条は京へ撤退する滝川軍の背中を突くつもりだ。恐らく、他の織田勢に対しても追撃戦が行われるだろう」
「――だから、今は機を待てと。そういうのか、織部」
甕割を握る手が、より一層膨れあがった。血が集った拳は、燃えているかのように
「焦るな、一刀斎。被害にあったのは、その五条の寺だけだという。しかと時節を見極めて京を目指せ……お前がしないと決めたことをするな」
「…………。ああ。ああ、そうだったな」
無為に心を燃やせば
息を吸い、上顎へと舌を押し付け、
伸びる背筋に、力みはない。
「……京には、お前を乱すものがあるのだな」
わずかな沈黙の後、織部が
抑揚がなく、普段の穏やかながら温かみのある声とは違う、平坦な声である。
「……これは、悪しことだろうか」
「いいや」
三十を過ぎてなお、答えが見つからぬものがある。判断つかないものがある。
逆に
「お前は武芸者である前に、人間なのだ。……その心の乱れは、人として正しい乱れだ。しかし、いや、だからこそ。その乱れを穢れにはしてはいけない」
人の纏う気配を、久々によく感じ取った。
熱さの中にある、不安。きっと、あの若き日の夜のことを思い出していたのだろう。
一刀斎はあの日のように、気ばかり急いて暴れていた。
心によって剣は振られる。だからこそ、心王は正しくあらねばならない。
その心王を鑑みず一時の感情に駆られては、剣は乱れ、穢れてしまうのだ。
「……ああ、そうだな、織部」
一刀斎は、遙か遠い西を見遣る。
思い描いた人々の、無事を願いながら。
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