進火(しんか)の章

天正京都編

第一話 戦火戦乱

 久方ひさかたりによく晴れた。

 皐月さつきすえから始まった長雨ながあめは、六日むいかのちにようやく収まる。

 輝く天日てんじつまばゆく燃えていて、濡れた地面を乾かした。

「……ようやくか」

 天正てんしょう十年じゅうねん水無月みなづき始め。伊豆いず伊東いとう三島みしま神社じんじゃ

 社務所しゃむしょねたやかたの奥。伊東いとう一刀斎いっとうさいは自室から縁側えんがわに出て、日の光に目を細めながら空を見上げた。

 蒸すように熱いが空気の湿りも少なく、久々に見た快晴かいせい青空あおぞら鬱屈うっくつした気分がすいた。

弥五郎やごろうさん、おはようございます」

「ああ、おはよう」

 密かに心躍らせていた一刀斎に声をかけたのは、神社の女房にょうぼうのさほりである。

 元は三島神社の巫女でしばらく前に引退したが、まだ神社に残り、巫女頭みこがしらのとじの手伝いをしたり、雑務ざつむを行っている。

 ここに来た理由も、だ。

 はにかむように楚々そそと頬笑み、軽く会釈えしゃくをしたさほりは隣室に入る。

 そして。

『こら信太しんた! 早く起きなさい! 今日はようやく晴れたんだからやってもらいたい仕事があるの!!』

『うべえ! 敷き布団引っ繰り返すんじゃねえよさほり! いてえだろうが!?』

 つい一年前、織部おりべから宮司ぐうじぎょうを継いだ信太を起こしに来たのだ。

 さっきまでの清楚な雰囲気はどこへやら。腹の底から出ている、力強い声が響いて、信太が畳を転がる音が聞こえた。

 昨日きのうは、他の女房、明朗めいろう闊達かったつなゆずが叩き起こしていた。

 一昨日おとといは、もう一人の女房、凛と礼儀正しいしのが凄まじい圧を発して起き上がらせた。

 三十を超えても、なんともだらしない男である。

 部屋から出て来たさほりは何事もなかったかのように、さっきと全く同じやんわりしとやかな笑みを浮かべて、「それでは」と去って行く。

 …………女というのは、本当に恐ろしい。

「うう……、まともに起こしてくれるよめさんが欲しい」

「まず一人でまともに起きられるようになれ」

 部屋から出て来た信太は寝間着姿のままで、寝癖で髪があちこち跳ねている。

 四年前のあの日、三島神社に帰ってきてから、何度となく見てきた顔だ。

「えー……? …………おお、弥五郎やごろう、おはようさん」

 どうやら忠告も聞き逃したらしい。間の抜けた挨拶あいさつが返ってきた。

「とりあえず、朝飯かー」

「先に顔を洗った方が良いぞ、信太は」

 ついでに、煩悩のみそぎも出来れば良いのだが。


「おはようございます、弥五郎」

 朝食を終えた一刀斎は、まきを乾かすため屋敷の庭に並べていた。ちょうどそこに、とじが現われた。

 女というのは、本当に恐ろしい。

 とじと出会ってそろそろ二十年近くなるが、あの頃と全く変わっていない。

 なにかの神秘しんぴでも宿やどしているのか、声も顔も髪も、そして鋭い眼光も、どこにもおとろえは見えなかった。

「おはよう、とじ」

「今度は、いつ旅に出るのですか?」

 とじは軽い雑談も介さずに、率直そっちょく本題ほんだいに入ってきた。 

 四年前に帰ってからというもの、一刀斎は三島神社を拠点にして、武者修行としてしばしば隣りの国や、その一つ隣の国へと足を運んでいた。期間はひと月から半年の間ほどで、気が向いたら帰ってきている。

 更に言えばつい先日、梅雨つゆを三島でやり過ごすため三月からの旅を終えたばかりであった。

「そうだな……早ければ梅雨が明けてからになるな」

「信太も信太ですが、あなたも道楽どうらくものですね」

 正直、その指摘には返す言葉もない。

 一刀斎に稼ぎはない。騒ぎがあれば神社と近隣の村の用心棒をすることがあるが、伊豆の片田舎かたいなかで騒動が起こることは少なく、せいぜい野伏のぶせ足軽あしがる崩れがごくたまに山から下りてくる程度だ。

 力仕事や薪割りなどを任されることもあるが、正直言って、タダ飯食らいである。

「まったく、弟子でも取れば良いのに」

「別に、誰かに剣術これを伝える気もないからな。そもそも、ここらに教えてもらいたい者もいないだろ」

 腰に差した甕割かめわりを撫でて、鼻息を漏らす。

 そもそも、こんな山と海に囲まれた土地。剣を学びたいという変わり者はいないし、第一、剣士になるより兵士になる方が金を稼げる。

 所詮しょせん兵法へいほうというものは、でしかない。

「……ああ、そういえばあなたが帰ってくる直前、北条ほうじょうがたから仕官しないかと誘いがありましたよ」

「む?」

 北条と言えば関八州かんはっしゅうを支配する、東国とうごく覇者はしゃである。

 無論、この伊豆も支配化に置いている。

 恐らく、どこかで一刀斎の噂を聞きつけたのだろう。「ようやく」といいたいところではあるが、なにせこの伊東は僻地へきちである。情報も入らないし出ていかない。

「受けたのか?」

「断りました」

 鋭い包丁で桃でも切るように、とじはスパリと言い切った。

「あなたがなにをするかは、私が決めることではありませんから。それに、あなたは誰かに仕える気は無いでしょう?」

「そうでもない」

 鋭い包丁で桃でも切るように、一刀斎はスパリと言い切った。

「……そうでしたね、あなたには、約束がありました」

「まだ、遠い話だからな」

 とじや織部には、その話はもうしてある。

 空を見上げた一刀斎が思い出したのは、大きく燃える大火である。

 時には、全てを燃やす戦火いくさび

 時には、人々を楽しませるまつ

 時には、人を和ます囲炉裏火いろりび

 そして時には、誰かの心に火種を付ける燈火ともしび

 そんな炎が持ちうる力の全てを、双眸そうぼうに宿していた武将、織田おだ尾張守おわりのかみ

 京を出るその朝に出逢い、「天下一となったあかつきには」と仕官を約束した男だ。

 旅の最中でも、織田尾張守の噂はよく耳にした。時の将軍さえ越える権勢けんせいを手にし、自らが擁立ようりつした足利あしかが義昭よしあきさえ京から追放ついほうしたという。

 日の本の中心である京に陣取った織田軍は各地へと手を伸ばし、他国の軍勢、ことごとくを撃ち破っているという。

 まるで燎原りょうげんほのおの如き勢いは、全くおとろえるところがない。

 さっき話にあがった北条とも、今まさに戦を繰り広げているはずだ。

 あの日、未熟みじゅくだった一刀斎はその気魄ねつに飲まれないよう必死であった。

 織田尾張守は、天下と言える畿内きないだけでなく、日の本全てを手中に収めようとしている。

 夏の陽射しと関係なく、火に炙られているような感覚を覚える。

 約束を守るときが、刻一刻こくいっこくと近付いている予感がしていた。

 ――――ふと、一つの家族のことを思い出す。

大野おおののみんなは、どうしているだろうか)

 そもそも、一刀斎が織田に付くことになったのは交換条件を出したからである。

 辻斬りという天狗道てんぐどうちた鞍馬くらまりゅうの剣客、大野おおの陣三郎じんざぶろう。その家族に一刀斎は、三年ものあいだ世話になっている。

 飯といえばそこで毎日食ったほどだ。一人の立派りっぱ器量きりょうを持った父と、ひたきで礼儀れいぎただしい次男じなん、そして、はなやぐむすめ

 彼らから受けた恩義にむくいたかった。その一心で、京を乱した辻斬りを、大野家から出したことを織田尾張守に不問にしてもらったのだ。

 その対価たいかが、「天下一の剣豪となって、仕官すること」であった。

 家の主である大野おおの将善しょうぜんは責任感の強い男だ。自責の念もあるだろうし、彼らに対する向かい風も強いだろう。

 それでも逞しく生き抜いていることを、一刀斎はただ願うばかりだ。

「一刀斎はいるか!」

 かつてに思いをせていた時、意識が社内まで戻ってきた。

 庭を駆けて来たのは、この伊東で、唯一「一刀斎」と呼ぶ織部であった。

 こちらはとじと違い、髪には白髪が交じり、目尻のシワも深くなった。体力もなくなってきたのだろう。走っただけで息が乱れている。

「どうした織部、そんなに慌てて」

「そうですよ、社内ではしたない。信太しんたに後を継がせたとはいえ、あなたはまだここの代表で」

「す、すまないとじ殿、叱責は後にしてくれないか! 大事だいじなのだ!」

 膝についていた手を出して、とじを静止する織部。

 顔が上げられればその顔は、目を見開いて瞳孔どうこうも開いている。

 言葉通り、なにやら大事件が起こったのだろうと、とじは一時引いた。

 織部は深く呼吸をして、無理矢理息を整える。昔武芸をたしなんでいたお陰だろうか。その呼吸法は一刀斎も舌を巻くほどである。

「いいか、一刀斎」

 一刀斎を、真っ直ぐ見て。

「――――織田尾張守が、死んだ」

「――――――――」

 …………なに?


 織部の部屋で、一刀斎は眉をひそめていた。

 鼻の脇には汗がじわりと浮かんでいて、唇はもごもごと忙しなく動いている。 

「話は、利市りいち伝いなのだが……」

 そんな一刀斎の正面に座った織部が、話を始める。

 その利市も馴染みの船乗りに聞いた話らしい。

 曰く、京にて臣下に奇襲きしゅう染みた叛乱はんらんったのことだ。

 織田尾張守が逗留していた五条の寺は大火に焼かれ、朝日よりも強く輝いていたという。

「……確かなのか?」

 あの油断も予断もなく、神通力じんつうりきのような耳目じもくを持っていたあの織田尾張守が急襲を許すなど、とうてい考えられない。

 謀反を起こしたのは、よほど信頼していた配下なのだろうか。

「ああ、間違いないらしい。織田家の関東かんとう管領かんれい滝川たきがわ伊予守いよのかみが京に戻ると北条に告げたそうでな。北条もこれを機にと、同盟どうめい破棄はきして戦準備を始めているそうだ」

 不義理だ、というつもりはない。機があれば討つ。それがこの世の常である。

 伊達だて酔狂すいきょうで国を治めている者などいないのだ。

 自分ら武芸者ぶげいしゃのように、気分だけでは戦えまい。

 一刀斎の脳裡のうりに浮かんだのは、京で過ごした日々とそこで出会った人々の顔。

 そして――。

「……っ」

 一刀斎は目を大きく見開くと同時に立ち上がり、大股おおまたで障子に向かう。

「一刀斎ッ!」

 障子に手を掛けた瞬間、突如とつじょひびいた大音声だいおんじょうに、揺さぶられていたこころほのおが無理矢理正される。

 しかしそれでも、腰の甕割を握る手は、太い骨と張った筋が浮かんでいて、小刻みに震えていた。

「いま、京に向かうのは危うい。お前も知っているだろう。織田軍は今、日の本全土に火の手を伸ばしていることを」

 それは確かに、一刀斎の知るところだ。畿内きないからこの東国とうごくまで、織田家は日の本を手中に治めるため進軍している。

 もはや、誰も成しえなかった日の本統一まであと一歩というところまで来ている。

「先も言ったとおり、北条は京へ撤退する滝川軍の背中を突くつもりだ。恐らく、他の織田勢に対しても追撃戦が行われるだろう」

「――だから、今は機を待てと。そういうのか、織部」

 甕割を握る手が、より一層膨れあがった。血が集った拳は、燃えているかのようにあかに染まり、熱さえ発しているようにも思えた。

「焦るな、一刀斎。被害にあったのは、その五条の寺だけだという。しかと時節を見極めて京を目指せ……お前がと決めたことをするな」

「…………。ああ。ああ、そうだったな」

 血気けっきに逸り、衝動しょうどうのまま動くのはだ。

 無為に心を燃やせばあばれて、あたり構わず燃やしてしまう。それは一刀斎もむ、天狗道への門を開くも同義どうぎである。

 息を吸い、上顎へと舌を押し付け、心拍しんぱくを正す。一刀斎は障子から離れて、再び畳へ座した。

 伸びる背筋に、力みはない。

「……京には、お前を乱すものがあるのだな」

 わずかな沈黙の後、織部がうてきた。

 抑揚がなく、普段の穏やかながら温かみのある声とは違う、平坦な声である。

「……これは、悪しことだろうか」

「いいや」

 三十を過ぎてなお、答えが見つからぬものがある。判断つかないものがある。

 逆にたずねた一刀斎に、織部はしかと、否と返した。

「お前は武芸者である前に、人間なのだ。……その心の乱れは、人として正しい乱れだ。しかし、いや、だからこそ。その乱れを穢れにはしてはいけない」

 人の纏う気配を、久々によく感じ取った。

 熱さの中にある、不安。きっと、あの若き日の夜のことを思い出していたのだろう。

 一刀斎はあの日のように、気ばかり急いて暴れていた。

 心によって剣は振られる。だからこそ、心王は正しくあらねばならない。

 その心王を鑑みず一時の感情に駆られては、剣は乱れ、穢れてしまうのだ。

「……ああ、そうだな、織部」

 一刀斎は、遙か遠い西を見遣る。

 思い描いた人々の、無事を願いながら。

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