第六話 業火の利剣

 ほおろす。親指おやゆびぬぐえば、ゆびはらあかまり、手のひらまでしたたった。

「おまえが辻斬りなのか、陣三郎じんざぶろう殿どの

しかり」

 陣三郎のやいばは、ぐ一刀斎をいている。

 一刀斎はぷたつにたれた木刀ぼくとうて、甕割かめわりに手を掛けた。

 しかし、抜くことはなく。

「なぜ、お前のような男が辻斬りなど」

「決まっていまする。──天下一の剣士となるため」

「……なんだと?」

 すみたしたかのような、くろひとみで陣三郎ははなち、そのまま言葉を続ける。

 いつもの真面目くさった言葉尻で。しかし、吐かれる言葉は、生臭なまぐさく。

「先のお役目やくめにて、手前てまえは多くの戦場いくさばわたあるいた。無我むが夢中むちゅうで剣を振るい、はじめて敵を切り伏せたときに気づいた。……武は、人の体を砥石といしとするもの。人を斬ってこそ、武の腕をきわめるための道であるのだと」

 刀を下段げだんに下ろし、いまだ刀を抜かない一刀斎を見据える陣三郎。その目はやたら寒々さむざむしく、思わずぶるいする。

「一刀斎殿、御身おんみであるならば分かるのではないか。天下一に近付くには、人を斬る他ないのだと!」

 一刀斎が首をそむけると同時に、頭があった場所を突風とっぷうが吹き抜ける。恐ろしく早い天狗風てんぐかぜ

 刀を抜き放とうとするが、脳裡のうりに浮かんだのは、佐奈の顔。刀を抜くことができず、入れ違うように陣三郎の後ろへ抜ける。

 柄糸つかいとのひらのシワが合わない。前まではあれほどしっかり噛み合っていたはずなのに、刀をどう持っていたのか思い出せない。

「──御身には失望した、一刀斎」

 一向いっこうに刀を抜かない一刀斎に対し、陣三郎の目は冷えきっていた。くらくらい、水底みなそこどろのような目である。

 背に、あぶらあせが吹き出した。

「人を斬ることをうとむのであれば、その腕を置いて行け。御身には、剣を握る手など要らぬ──!」

 陣三郎がかり来て、中段に構えた刀を振り上げる。纏う気配はあらしまかぜ。天狗天狗と言われてきたが、今ではあの陣三郎こそが、魔風まふうを吹かす天狗であろう。

 狙いは腕かと、足に力を込める。だが、瞬時しゅんじ

ャアア!」

「ぐっ!?」

 目の下五分ごぶを飛び来る切っ先。上頬と鼻が一文字いちもんじに切り裂かれる。気配けはいわずかなズレを読みそこねていれば、顔を引くことは叶わず目を切り裂かれていただろう。

 一刀斎は、大きく飛び退いた。

けるのはうまい。しかしながら、その弱腰よわごし心底しんそこ失望しつぼうした」

 一刀斎は呼吸を整え、天狗と化した陣三郎を真っ直ぐり、渇いた喉から言葉を絞る。

 人に戻せぬものかと、一縷の希望を抱きながら。

「大野殿から継いだ鞍馬くらまりゅうに、どろる気か」

「父の腕ではもうえた剣は振れまい。手前こそが大野の鞍馬だ」

「甲四郎に顔向けできるか」

「甲四郎には御身おんみの首を以て、武とは何かの道を示す」

「佐奈が、泣くぞ」

 最後のその訊いに、陣三郎は目を細める。心の底から、不可思議ふかしぎな様子で、首をかしげて。

「だから、どうしたという?」

 陣三郎は、言ってのけた。

「武の道を行けぬ女子を、どうしておもわねばならない?」

 一刀斎は、答えを聞いてはたと気付いた。

 陣三郎は、魔道まどうちた。

「貴様──!」

 かたなおもい。こころれる。だがしかし、だからなんだというのだろう。この男を、このままのさばらせてよいのかと。

 一刀斎は甕割を抜く。月明かりなどないはずなのに、その刀身はえていた。

 甕割を燃やしているのは、はげしくえるこころほのおか。

「やっと、その気になったか一刀斎!」

「貴様は、ここで斬る……!」

 甕割を中段に構え、陣三郎へと斬りかる。陣三郎はその端正たんせいな顔を鬼神のようにゆがめてわらい、真正面から剣を合わせた。

 両者の剣の腹が触れる。互いに剣筋けんすじゆずる気はないと、相手の気を食み呑みこまんとむすび合う。

「そうだ、一刀斎! 意志を燃やし、そして手前の命を狙え! 相手を殺してこそ、相手をその足に斬り伏せ重ねてこそ、天へ至る道となるのだから!」

「黙れ!」

 陣三郎の剣を、力任せに切り落とし、首めがけて突きを放つ。しかし。

「軽いッ!」

 さかく風は、甕割かめわりを巻き返す。

 炎をみだもてあそくるかぜに、一刀斎の突きは不発ふはつに終わる。逆に今度はその風が、炎の真っ心、一刀斎の心の臓めがけて飛んできた。

「くぅっ」

 間一髪かんいっぱつ、身をてんじて刀をける一刀斎だが、陣三郎の吹かす禍つ風は、常にまとわりついてくる。

 陣三郎の心は天狗道へとちきった。だがしかし、その思いは純然じゅんぜんわたり、剣技けんぎおとろえはない。むしろ一心いっしんとなり、まどうことなく命を刈り取る風となる。

 きたたかめたその剣技わざには、一切のかげりがない!

 一方、一刀斎はいまだ心が揺れている。吹き荒ぶその天狗風に、居着いつく間すら与えられない。

 ただただ、燃えるだけで。

ォオオオオアアアアアアア!」

「ぐ……ッ!!」

 体の中心を、正しくねらった斬撃ざんげきめきること叶わず、そのまま吹き飛んだ。いったいあの体のどこに、己を吹き飛ばすほどの力があるのかと陣三郎を睨む。

「違うな……」

 今は、己の方が軽いのだ。ただ魂の炎だけがはげしく燃えて、そのいきおいを弱めてきたに過ぎない。

 自分は、このまま死ぬのだろうか。いや、自分が死ぬわけないのだと、思ったことは一度もない。死を感じたことは、幾度いくどもあった。その度に、ただ死を越えることが出来ただけだ。

 今度こそ、死んでしまうのか。いや、殺されるのか。

 どうせ、死ぬなら。

「もう一度、見たかったな……」

 あのけがれきった死の泥の中、明るく咲いた、無垢な花。赤く、赤く、小さく咲いた赤蓮華あかれんげ

 何より綺麗だった、小さな、花。

「赤……」

 瞼に映った、赤い蓮華。しかし、それは一瞬で。頭を迸った一言で、赤い蓮華が炎に変わる。

『武ってのは窮めたらよ、そりゃあ、綺麗なモンが出来上がるんだぜ』

 それはいつかの、雷を秘めた夏雲なつぐもの言葉。脳裡に響いたその言葉に、無意識むいしきに体がピクリと動く

『研ぎ澄ませば研ぎ澄ますほどに、武は清められていくのよ。剣と、同じさあ』

 目を開き、己が手に持つ刀を見遣みやる。

 黒銀こくぎんに輝くその刀身は、炎のように輝いていた。

気枯けがれた感情で炎を乱すのではない。魂の炎を乱さぬ剣士となったなら、今一度、ここに戻ってこい』

『魂の炎を御すのだ。弥五郎』

 己が最初に、先生と仰いだ男の言葉。そして続いて、響いたのは。

『剣とは心だぞ、弥五郎』

 自由に羽撃く、大鳥の言葉。

 ──ああ、そうか。

「そうだったな」

 今一度、刀を握る。

 柄糸の細やかな凹凸が、手の小さなシワと異様に馴染む。

 先程まで、心まで乱れていた炎が、直くと伸びる。

 コレで終わりかと思いきや、意外な言葉が最後に出て来た。

『人が死ぬのはやるべきことが全部終わった時だ』

 今はもう、顔も思い出せない男の言葉。その言葉も、どのような声音で放たれたかなど覚えていない。

 ――ああ、まだ、ならばまだ、おれは終わりではないだろうよ。

「陣三郎」

「む……!?」

 今にも消えそうだった炎が、再びち上がるのを見て、陣三郎は瞠目どうもくする。

 いや、いきおいだけであれば、先の感情を燃やしていた炎の方が苛烈かれつだった。

 だが、しかし、だというのに、今の炎の方が、大きく見える。

「さっき言ったな。斬り伏せ重ねてこそ、天に至る道になると」

 一刀斎の訊いに、陣三郎は「然り」と頷く。

「人を斬り殺めてこそ、武は頂点へと近づけるのだ」

「そんなわけがあるか」

 バッサリと、一分いちぶの間もなく一刀いっとう両断りょうだん。言葉を用意する間などなく、陣三郎は口ごもる。

 一刀斎は、言葉を続ける。

「己を高めることなく、死体の山をきずいて天にのぼろうと。それじゃあ、お前自身は、なにも変わってないだろう。ただただ小さい人の身のままだ。そんなんで、天下一の剣豪になれるはずなどない」

 一刀斎が立ち上がり、刀をてんたかく、大上段だいじょうだんへとかかげ上げた。

 その姿。天へと火の手を燃やす炎。いや、きよかがやき、あかるくきらめき、ただしくひかり、なおりつけるその姿は、燃える鳥。

「いいか、陣三郎」

 陣三郎を見遣る目は、赫々かっかくと燃え照っている。

「天下一の剣豪とは、最も強い者ではない。──もっと綺麗きれいな、武をきわめた者のことをいう!」

 大上段を保ったままに、気勢きせいいてかる一刀斎。

 陣三郎は、逆にその意気を飲み干してやらんと殺意の陣風じんぷうを巻き上げる。

 武が綺麗なのだとのたまう男など、消し飛ばしてやらんと全霊ぜんれいをもって刀を切り上げた。

 だが。

「なにッ」

 振り下ろされる太刀を、巻き返せない。

 全力で吹かしたはずの禍つ風が、逆に炎に飲み込まれかける。

 無意識に、逃げるように退いた。

 沸騰ふっとうする血で赤くなった肉体からだに汗が吹き出る。だがしかし、汗で体が冷めることがない。

 目の前で燃える炎の剣士。その熱に当てられて、身体中が熱く燃えるかのようだ。

 陣三郎は、鬱陶うっとうしい体の熱を、追いやるように、える。

「一、刀斎ィイイイイイイイイイ!」

 まるで験力げんりきのような縮地しゅくちの踏み込み。それに続くは、刃の烈風れっぷう

 その剣は乱れることなく、真っ直ぐ立てられた刃筋はすじは正しく一刀斎の中心を狙う。

 間違いなく、その太刀は美しいものだった。「天下一」に届きうる、綺麗きれいな剣へといたれるものだった。だがしかし、その剣を振るう者は、すでに天狗道へ墜ちてしまった。

ェエイッ!!」

 陣三郎の荒ぶる剣を、一刀斎は容易たやすくいなす。まるで誰にも掴めない、炎のごとく。振るわれる剣を、甕割の鎬で逸らしさばいている。

 とどめない荒風あれかせは、絶えること無く一刀斎を攻め立てる。だというのに、そのけんは、一刀斎をとらえきることが出来ない。

「なぜだ……! なぜ届かない!」

 思わず、腹に貯めた気を吐き付ける。しかし一刀斎は、輝く瞳で陣三郎をただ見つめ、「当然だろう」と答えた。吹き荒ぶ風音の中にありながら、その声はよく通る。

「武と死に因果はないんだよ陣三郎。――それをあやめて、人を殺めることを目的にした時点で、お前の剣は昇ることなく墜ちきった。お前の武は、濁っている」

「黙れぇ!!」

 刃の嵐は、より一層荒ぶった。これがまさしく嵐であれば、山のことごとくを散らすだろうと言うほどの颶風ぐふう

 一刀斎もより意識を深め、虚実きょじつ混じる剣を捌く。

 その熾烈しれつきわまる、静かな炎と荒ぶる風が交わる世界に、現れたのは。

「こ、こちらです大野おおの殿どの!」

「これは、なにごとだ!」

 男が二人、けんち合っていると聞き、とくといそいで来てみれば。

 一人は実の息子であり、将来を楽しみにしていた陣三郎。

 もう一人は残りの子ども達がよくなついていた、たぐまれなる剣士、一刀斎。

 両者ともに真剣を抜いて、っている。

「ま、まさか、今回の騒動は、外他とだ一刀斎いっとうさいの」

 部下の一人のつぶやきに、将善は即座に「違う」と返す。

 見れば分かる。なにせ当流とうりゅうけんさばき。己が教えてきた剣の技。それに乗せられている思いなど、見ただけで分かる。

 なぜだ。と将善は奥歯おくばむ。あまりの悔しさに、握った拳が手の肉をぐ。

「なぜ魔道まどうに堕ちた、陣三郎!!」

 しかし斬り合う二人には、将善の言葉は届かない。

 いや、届いてはいるが、反応する余力よりょく余裕よゆうもない。

 陣三郎は魔道に堕ちた。だがその剣はり上げられたものであり、将軍護衛ごえいの任に当たり、多くの戦を切り抜けてきた実力は確固かっこたるものである。

 それをしのぐには、一刀斎も全力持って当たるしかない。

 だが。

「天下、一に」

 陣三郎が、息を切らしながら声をあげる。

「人を斬り越え、天下一へと至るのだ!!」

 同時に、最も剣の正道せいどうし、己がみがいた構えをとる。

 相手の中心を見据みすえ狙う、突き狙いの中段。

 一刀斎もまた、大上段へ剣を構えた。

「……一刀斎殿ォッ!」

 将善が、二人の気迫を割かんばかりに声を張る。

「陣三郎を……! つじりを、ってくれ!!」

 その言葉に、一刀斎の体が一瞬止まる。

 しまった。と将善はハッとする。一刀斎の心を止めてしまったか。

 ならそのすきを、陣三郎の剣は──!

もらった──!」

 陣三郎の剣が、きりがごとき気流きりゅうを描く風となり、一刀斎の胸へと迫る。

 これで終わりだ。誰しもが、そう思った。しかし。

ァアアアアアアアアアアアア!」

 突風を、この闇夜やみよを生み出す叢雲むらくもをも、切り裂かんばかりの咆吼ほうこうひびわたる。

 ──そして。

「──ああ、そう、だったのか──」

 陣三郎の刺撃しげきは、一刀斎を大きくれていて。

「これが、天下一にいたる、剣、なのか」

 甕割の太刀たちは、陣三郎の肩を大きく断ち割っていた。

「ああ、これは──本当に──」

 仰向けに、陣三郎は倒れ込む。叢雲がかかっていたはずの空は、いつの間にか晴れていた。

 心に吹いていた禍つ風も、いつの間にか止んでいる。

 頭に巣食っていた焦燥の虫も、先の剣に恐れを成して逃げていった。

 身をむしばんでいたつるぎどくは、一刀斎の炎に消し飛ばされた。

 ああ、それにしてもさっきの切り落としは、

 ──きれい、だったなあ。


父様とうさまじん兄様にいさま、お帰りぃ!」

 いぬこくに入るころだというのに、佐奈さなは起きて二人の帰りを待っていた。

 こう四郎しろうも、もしかしたら武勇ぶゆうが聞けると思い寝ずにいた。

 子守こもりとして残っていた、将善の弟子の女房にょうぼうに、「お父上ちちうえが帰ってこられた」と言われ即座そくざに部屋を飛び出した。

 だから、気づかなかった。女房のその悲しそうな顔に。「お父上」としか言わなかったことに。

「……え」

 消沈しょうちんする父の背中には、敬愛けいあいしていた兄の姿。

 その顔は、とても綺麗な夢でも見ているように穏やかで。

 その肩の傷なんて、なんでもないという風なのに。

「……う、そ、や」

 佐奈は、ひざからくずち、

 甲四郎は、呆然ぼうぜんくして。

「辻斬りに、やられたのですか……!」

天狗てんぐさま……天狗様は!?」

 甲四郎はなみだをこらえて父にい、佐奈はその場にいない、ひそかにしたう男を呼ぶ。

「……一刀斎殿は、見事みごと辻斬りを斬り伏せた」

「そう、なのですね……、一刀斎殿が、兄上の、仇を……!」

「違う」

 大野将善は分かっていた。これから言う言葉が、どれ程二人を傷つけるものなのかを。

 だがしかし、言わないわけにはいかなかった。

 なかったことにしたくはなかった。

 一刀斎のその利剣りけんで、最後の最後に、陣三郎の煩悩ぼんのうが焼き払われたことを。

「……その辻斬りとは、この、陣三郎だったのだ」

 父のその言葉に、甲四郎は絶句ぜっくした。佐奈は、夜空に浮かぶ月さえも、らさんばかりに、泣き叫んだ。

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