第27話 救い
逆さ語の呪文を唱え終わった曽根崎は、力を使い果たしてその場に倒れ込んだ。ずっと流れていた詠唱も、今は聞こえなくなっている。
足の骨を折られた老人の悲鳴を無視し、景清は曽根崎の上体を起こして声をかけた。
「曽根崎さん、大丈夫ですか!」
「……ん……」
うっすら開かれた目から覗く真っ黒な瞳は、しっかりと景清を捉えている。その様子に、景清はホッと息をついた。
「立てますか?」
「無理かなぁ。このまま運んでくれ」
「僕も気持ち悪いジイさん追い出したばっかりで、疲れてるんですよね」
「お互い満身創痍だな。よくやったよ、ほんと」
「ええ」
「祭壇裏に抜け道があるそうだ。とりあえずそこまで行けば、なんとか……」
曽根崎の言葉と老人の叫びに混ざるように、ぢり、と何かが焦げる異音がした。次いで、木製のものが焼けていく匂いも。景清は、気のせいかと思いつつも祭壇側に目を向けた。
ただの確認であったのだ。まだ神経が過敏になっている自分の、取るに足らない思い違いであると。
「……そ、ねざき、さん」
しかし、その光景を見た景清の声は、恐怖でぶつ切りになった。曽根崎の体を持ち上げた腕からも、急速に温度が失われていく。
――そこには、あるはずのない炎の影が、薄く揺らめいていた。
曽根崎の行動は速かった。景清の頭を抱き寄せ視界を奪うと、すぐさま再びマイクに手を伸ばす。
「忠助! ケース24!!」
大音量の指令に、教団員を縛り上げていた阿蘇は、それらを放り出して友人の元に走り出した。そして藤田と柊の腕を取り、強引に床に伏せさせる。
「ちょっと、いきなり何よ!?」
「俺が肩を叩くまで、目をつぶって耳を塞いで絶対に動くな! いいな!?」
「オーケー、愛してる」
「遺言不要だバカ藤田!」
一方の曽根崎は、景清を引き寄せたまま考えを巡らせていた。
――召喚呪文の詠唱は、確かに逆さ語で打ち消した。だから、道は途切れたはずだ。
道が途切れたならば、クトゥグアは来られない。あれだけ面倒な手順を踏まねばならないのだ。最後の詰めを誤って、大目に見てくれるような代物ではないだろう。
――ならば、今来ているものは、何だ?
いや、なんでもいい。なんでも構わない。とにかく、なんとかしてここを切り抜けなければ。
曽根崎にしがみついてガタガタ震える景清を引きずりながら、曽根崎はマイクが置かれていた演台の影に隠れる。そして彼の耳元で、記憶を曇らせる呪文を囁いた。
手放しそうになる理性を繋ぎとめようと、歯を食いしばり、己の腕に爪を立てる。その甲斐あって、やがて景清はハッと曽根崎を見上げた。
「……僕は、何を……」
「……突然すまんが、今えらいことになっている。とりあえず目をつぶっていろ」
「わかりました。……召喚阻止に失敗したんですか?」
「いや、多分成功していたと思う」
「なら、何が起こっているんですか」
「わからん。もしかしたら、道を辿って別の何かが来てしまったのかもしれない」
「別の何かって……。それなら、対処法は」
「祈れ。それしかできない」
なんとも頼りない曽根崎の言葉の後、出し抜けに、熱を伴った爆風が演台越しに巻き起こった。剥き出しの腕が熱に焼かれる痛みに、景清は呻き声を上げる。
曽根崎はスーツの上着を頭から景清にかぶせると、その上から彼を覆うよう抱きしめた。
「……もう喋るな。熱に喉を焼かれるぞ」
「……!」
「耐えろ。私の予想では、これはただの影だ。出てこようとしたものの、道が途切れて思い叶わず、しかし未練がましく手を伸ばした何かの影だ。だから、呪文で作った道の効力が切れれば、自ずと影も消える」
曽根崎の言葉の説得力を、景清は推し量ることができなかった。だが、彼の行為が、自身を犠牲にしても自分を守る為のものだということだけは理解できた。
だから、景清は抵抗する為に声を出そうとした。しかしその前に、覆われたスーツの上から曽根崎に口を塞がれた。
「……喋るな、と、言ったろ」
曽根崎の声は掠れていた。――熱い。噴き出る汗が一瞬で乾くほどの熱さに、少しずつ意識が朦朧としていく。
それでも、景清はもがいた。体格差で押さえ込まれながらも、彼を止めようとした。
熱はどんどん上がっていく。貴重な水分であるはずなのに、景清は泣き出しそうになっていた。
「……バカだな、君、は」
だというのに、曽根崎は、笑っていた。炎の中、笑い声を含んだ言葉を景清の耳に落とす。
「……だか、ら、私は、救われたんだ」
一際酷烈な熱風が、爆音と共に破裂した。
――最後まで、景清は、曽根崎の顔を見ることができなかった。
その男は、平凡な人間であった。
ごく普通の家庭に育ち、ごく普通に進学を選択し、ごく普通に就職した。
それだけで素晴らしい事なのであるが、男はそう思わなかった。
男は、自分ほど恵まれていない人間はいないと思っていた。
己の歴史を振り返れば、常に負け続けていたように感じる。いつも自分は、不平等を被る側だった。その不満は、歳を重ねるごとに強くなっていった。
ある日、男は露店で一冊の本を買った。それはとても古いもので、本棚にあるだけで有識者の一員となった気分になれそうな本だった。
だから、貢をめくったのもただの気まぐれで、本気で読もうなどとは考えていなかったのだ。
しかし、その本は男の全てを変えた。
そこに書かれていたのは、強大な炎の神の存在と召喚方法、そして人間の精神に潜り込み破壊してしまう呪文だった。
初めは半信半疑だった男も、試しに唱えてみた呪文の効力を目の当たりにすると、この本の素晴らしさを信じざるを得なかった。
男はこの世を憎んでいた。ただ肩がぶつかっただけの人間にすら、激しい憎しみを燃やした。そして遂には、己を不当に扱うもの全てを不浄とし、審判の日には炎の神による裁きで消してしまおうと目論んだ。
その為に、生ける炎の手足教団を作り上げた。教団と呪文と憎しみで、男が手に入れられぬものは無かった。金も、女も、賞賛も、何もかもが手に入った。しかし、男はまだ世界を憎んでいた。
男は、この世界にただ一人生きていれば良かったのだ。
炎の神に選ばれし崇高なる自分が、燃え尽きた地球で一人踊る姿を夢想していた。
その為に、一時的に自分の血を広める必要があった。後継者にしていた孫は、いつか自分がその体を乗っ取る為のスペアだった。もう一人の孫も利用し、その子供を神の器にするよう仕向けた理由は、誰もいなくなった世界に自分の血が流れていない人間がいるのが耐えられなかったからである。
完璧で素晴らしい計画であったはずなのに、またこの世界は男をコケにした。
まず、後継者は多くの他人の血をその身に混ぜてしまった。そのような体に入るなど、吐き気を催す嫌悪である。男は孫を手放した。
そして、壊れかけていた神の器は、よりにもよって男を “ 普通の人間 ” であると言い切った。尊く、崇められるべき男を、不浄の血が混ざった人間如きがそのように言ったのである。
男の憎しみは膨れ上がった。なんとしても、炎の神を召喚し、全てを滅ぼそうと強く決めた。
だから、怪異の掃除人を殺し損ねたにも関わらず、祭壇から熱を伴った爆風が巻き起こった時、男は歓喜したのだ。これで、世界は燃え尽くされる。黒焦げになった死体を踏みつけ、好きな歌を歌うことができる。
男は、炎に向かって両手を伸ばした。
それに応えるように、祭壇から顕現した三枚の花弁のような可憐で凶悪な炎は、男を頭から呑み込んだ。口から入り込んだ意思を持った邪悪は、男の細胞組織一つ一つを念入りに舐めて燃やし、殺していく。
最期の瞬間まで、男はここで死ぬのだと気づくことはなかった。
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