第22話 呼吸と涙
気を失った男の前に立ち、僕はぼろぼろと泣いていた。……ほんと、マジでみっともないなぁ。この歳になって、こんなに泣いて。
殴った手がジンジンと痛む。胸糞の悪い痛みだ。金輪際、味わいたくない。
汚いものを擦り付けるように、ジーンズで手を拭いた。
「景清君」
曽根崎さんが、片手を上げながら近づいてきた。そして、涙でひどい顔になっている僕に向かって、何の脈絡も無く言う。
「私をパパと呼ぶか?」
「誰が……呼ぶかよ……」
「だよな。じゃ、これをやろう」
差し出されたのは、一枚の紙切れ。そこに書かれてあったのは――。
「……借用書?」
「そう、借用書。三千万円の」
「……なんで、こんなものを」
「君なら欲しがるかと思ってな。私は別に一切を肩代わりしてもいいんだが、そういうの君は嫌うだろ」
「……」
――そうやって、なんでも分かっているような顔をして。
いつも、僕が一番欲しい言葉を用意しやがって。
これじゃ、返そうったって、永遠に追いつきゃしないじゃないか。
僕はまた湧き出してきた涙を袖で拭い、その紙を両手で受け取った。それはまるで、僕の自由そのもののようだった。
「……利子は?」
「なんと無利子だ。良心的だな」
「……何十年かかっても、返します。これは、今まで僕が生きてきた時間です」
「うん、いくらでも待つよ」
「……僕の人生を取り戻してくれて、ありがとうございました」
「うん」
「これでやっと、弱い自分から抜け出せそうです」
借用書を握りしめて言った僕のその一言に、曽根崎さんはきょとんとした。
「何をおかしなことを言ってるんだ。君が弱い時なんて、今まで無かっただろ」
「……え?」
「少なくとも私は、君が弱いと思ったことはないよ」
僕を慈しむように、彼は目を細めた。
「あんな地獄に身を置いて、よく生き延びてきたな。普通ならとっくに死を選んでいてもおかしくはないというのに、君は生きていてくれた。……そんな人間が弱いわけあるか。君は強い。私はちゃんと知っているさ」
息が止まる。――その瞬間、感情が、怒涛のように溢れ出した。
目の前にいるはずの曽根崎さんが、一気にぼやけて見えなくなる。
――必死で、生きてきたのだ。いつか出会えるかもしれない、自分の居場所を探して。ただそれだけが、喉から手が出るほどに欲しくて。
探して、探して、ただ生きていたら、いつの間にか隣に、もじゃもじゃ頭の胡散臭い三十路が立っていた。
彼との時間は奇妙で、不気味で、そのくせやたらと笑っていた気がする。僕は、あんなに怒鳴ったり、笑ったり、呆れたりできるのだと、自分でも驚いたのだ。
ただ生きてきたそれだけを、あなたは強さだと言ってくれた。
――あなたといると、とても楽に呼吸ができるんだ。
涙を抑えることができず、僕は両手で顔を覆って上を向いた。
「……クソ曽根崎……!!」
「なぜここで罵倒が出てきた」
「一生覚えてろよ……!!」
「心配するな。君のような稀有な人間を、私が忘れるわけないだろ」
「ぐううう……!!」
泣き止みたいのに、涙が止まらない。最後に泣いたのは、一体いつだっただろうか。
「ぼみゃぁぁぁ……ぶええびぃ」
「……」
「のぎゅうばみょおおお」
「……君、泣き方ヘッタクソだな」
「うるせぇぇ……」
曽根崎さんは、僕の背中に冷たい手を当ててくれていた。それで多少は落ち着きつつあるのが自分でもどうにも解せないが、今は泣き止むことを優先しようと思った。
しかし、ここは敵地のど真ん中だ。曽根崎さんは待ってくれても、他はそうはいかない。近づいてきた足音を敏感に感じ取った曽根崎さんは、ピリッとした空気をまとい僕を庇うように前に出た。
「……やはり、こいつは使えなかったか……」
その声を、僕は知っていた。何度となく聞いた、僕の深層にこびりついた、声。
そうだ、泣いてる場合じゃないな。まだやることは山ほど残っている。僕は腕で顔を擦り、闇の中から現れた老人の名を呼んだ。
「――龍三郎様」
「久しいな、景清。己が役目の為、自ずと戻ったか」
「……」
杖をついた老人に、僕は返事をすることができなかった。なぜなら、僕はこの召喚の生贄になる気など毛頭無かったからだ。
しかし、真っ向から否定するには、まだ勇気が足りない。……怖いのだ。僕は、この藤田龍三郎という老人が。
「……彼を渡すわけにはいきません。それに、今模様を描かれている二人の精神は、どちらも壊れてなどいない。一方は金で満たされ、一方も見ての通り元気いっぱいです。これでは、儀式などやりようがないのでは?」
僕の代わりに、曽根崎さんが応答する。対する龍三郎様は、にんまりと恐ろしい笑みを浮かべた。
「お前が、噂に聞く怪異の掃除人か」
「ええ。曽根崎慎司と申します」
「景清が世話になっているそうだな」
「彼は勤勉なので、こちらが助かっているぐらいですよ」
「なるほど、礼を言わねばならないな。……もう少し顔をよく見せてくれ」
龍三郎様は、僕らに向かって手招きをする。――誰が行くものか。僕が曽根崎さんを留めようと、腕を引こうとした時だった。
いきなり、体が後ろに引き倒される。振り返ると、白装束が僕を羽交い締めにし動きを封じていた。
「曽根崎さん!」
僕の声に反応した曽根崎さんの姿が、あの時の阿蘇さんと重なる。彼の背後にも、教団員が迫っていた。
「逃げてください!」
刃物を持った教団員が曽根崎さんに襲いかかる。それを持ち前の反射神経でかわし、少し離れた場所で素早く体勢を立て直した曽根崎さんだったが、その場所でも別の教団員が彼にハンマーを振り下ろそうと待ち構えていた。
それをギリギリで避けるも、次から次へと闇からその身を現す教団員達に、次第に曽根崎さんは埋もれていく。
「……出来るだけ惨く殺してやるといい。皮は全て剥げ。目玉は片方だけ抉り出せ。指は落としてもいいが、命乞いができるよう舌は残しておくのだ。ああ、ちゃんと神の器が彼奴の姿を見られるように執り行うのだぞ。それが最も、神の器の精神を殺す薬となるだろう」
龍三郎様は、楽しそうに曽根崎さんの未来を命令する。
……そんなもん、訪れてたまるものか!
僕は、力の限り抗った。曽根崎さんも、器用に集団の中から抜け出し走って逃げる。しかしここで、一人の教団員の手から、一本のナイフが放たれた。
その光景は、スローモーションのようだった。
曽根崎さんの背に、ナイフが刺さる。彼は静かな衝撃に足を止めると、そのまま膝をついて地に伏した。
「……曽根崎さん?」
嫌だ。怖い。認めたくない。
教団員は、曽根崎さんに群がろうと走り寄っていく。まずは何から始める気だろうか。そのペンチを、何に使うのだろう。ハンマーで、何を叩き壊すのだろう。
「やめろ! その人に触ってみろ、全員ぶっ殺してやるぞ!」
僕の叫び声に、男の悲鳴が被さった。
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