第21話 三千万円の価値

 考えてもみてほしい。僕の人生における価値観を作り上げ、並々ならぬ影響と傷跡を残してきた人間が、出会って一年にも満たない三十路のオッサンに目の前で殴り飛ばされたのだ。

 落ち着いて応じろという方が無理である。


 綺麗なフォームで父を殴りつけた曽根崎さんは、荒々しく息を吐いて前髪をかき上げた。


「……うん、ひとまずスッキリしたな」


 人間性おかしいな、この人。やっぱり呪文を唱え過ぎたのだろうか。

 曽根崎さんは、目を白黒させてひっくり返っている僕の父の前までやってくると、しゃがみこんで目線を合わせた。


「どうも初めまして。景清君の雇用主の曽根崎慎司と申します」

「……は……」

「ご存知の通り、怪異の掃除人をしております。お陰様で忙しく、優秀な景清君にはいつも助けられてばかりです」


 先ほどの行動を謝りもせず、マイペースに自己紹介をする曽根崎さんに、父は言葉も無いようだった。しかし遅れてやってきた痛みにようやくハッとすると、傲慢な態度で彼を怒鳴りつける。


「なんだお前は!突然人を殴って……!後で警察に届け出てやるぞ!」

「勿論構いません。ただし、私も事情を説明させていただきます」


 そう言うと、曽根崎さんは胸元のポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見せた。そこで起動していたアプリは、数分前から録音機能が働いていたことを示している。

 目に見えて変わった父の顔色に気づかぬフリをしながら、曽根崎さんは続けた。


「……大切な部下が、自分を父と名乗る変な模様の全裸に脅され、しかも連れて行かれようとしたんです。彼を守る為に、少々強引な手段を取らざるを得なかった」

「こんなもの……何の証拠にも……」

「ええ、むしろ私があなたを殴った確たる証拠になるでしょう。構いませんよ。重要なのは、これがなかなかショッキングな会話内容であることです。色々使い所はありそうですよ?勤め先に送るのも良し、下世話な雑誌に投稿するも良し、最近では動画サイトに上げて小遣い稼ぎにする事を考えつく人もいるそうですね」

「そ、そんな……そんな事は、犯罪だ!」

「いずれにしても、あなたが被害届を出して示談もしないと仰るのであれば、私には傷害罪の前科がつきます。どうせ前科がつくのであれば、この際好きにさせていただきますよ」


 そう言うと、曽根崎さんはこれ見よがしにスマートフォンを振った。その顔には、やはりこの場にそぐわない柔らかな笑みが口元に宿っている。

 示談――。この一言に、父は目を光らせて反応した。


「示談……そうだ、示談してやろう!お前も逮捕されるのは御免だろう!恩に着るといい、その分慰謝料は貰うが、それで前科者にならないのなら安いもの……」

「それならばきちんと弁護士を挟みましょう。相場は大体十万から三十万だそうですが、私にとっては端金です。……ああ、そうだ。あなたが多くの物事を金銭で解決してくれるという物分かりの良い方だというのなら、一つ提案があるのですが」


 曽根崎さんは、わざとらしく顎に手を当てた。その目は、彼の左足首につけられたアクセサリーの石と同じ真っ黒な色をしている。

 そして、一呼吸置いた彼は、今まで聞いた中で一番酷く、とんでもない発言をした。


「私に、彼――竹田景清を、売ってもらえませんか?」

「……あ?」

「え?」


 つい、僕も反応してしまった。

 こいつ今なんつった?


「おや、通じませんでしたか?すいませんね、程度の低い人間と普段あまり会話をする機会が無くて、知能指数のピントを合わせるのが難しいんです。つまり、あなたと景清君との縁を、私が買い上げたいと、こういう話ですよ」


 どさくさに紛れて父を馬鹿にしつつ、曽根崎さんは早口で言った。しかし、父は突拍子のない彼の提案を処理する事に必死で、そこに触れている余裕は無いようだった。


「ど、どういう意味だ。人間を買うなど……」

「先ほど、あなたは嘆いて仰った。生贄になるだけしか能の無い人間を育てる為に、今まで多くの金を無駄にしてきたと。私からすれば、勿体無い話です。初めて喋った日、名前を呼んだ日、夢を語った日、テストで満点を取った日、転んだ日、忘れ物をした日、卒業した日、大学生になった日――それら全ての日に、あなたは彼と言葉を交わすことができた。その時に彼が伝えたかっただろう言葉が、どれほど私にとって興味深いか、あなたにはお分かりにならないでしょう」

「……お前が、何を言っているか、さっぱり……」

「私にとって、彼の生きてきた時間は、非常に価値のあるものなのです。本来であれば、金銭的な対価に代替することなどできない。しかし、人より金に価値を置くあなたであればこそ、景清君の人生を私が買い取ることも可能かと考えました。……さて、いかがでしょう」

「……」


 父は、何も喋らない。しばらく待っていた曽根崎さんだったが、待ちかねたように三本指を立ててみせた。


「三千万円」

「……!」

「養育費と高校までの学費で、大体二千万円ぐらいでしょうか。更に、父親だからこその苦労を鑑みて、プラス一千万。どうです?恐らく弁護士を挟んでも、ここまでの額にはならないと思いますが」

「さ、さんぜ……!し、しかし……」

「私は約束を守りますよ。事実、この通り録音もしています。言質と取っていただいて結構です」

「……」

「条件は一つだけ。今までの景清君との関係性、それら全てを放棄することです。つまり、この三千万円を受け取ってしまえば、あなたと景清君の親子関係は消滅し、まるっきり赤の他人となる。……まあ、悪い話でもないでしょう」


 父は、悩んでいるようだった。もっとも、僕を差し出す事を躊躇っているのではない。いかに金額を釣り上げられるか、そして了承したとして、この状況からどう逃げるかを考えているのだ。


 その浅ましい父の姿に、スッと僕の中の何かが冷えていくのを感じた。


 曽根崎さんは、そんな僕の変化を確認した後、どこからともなく紙とペンを取り出す。そして、何事かを書きつけ、父に差し出した。


「どうぞ。いわゆる手形というものです。地上に戻った後、正式な手続きをさせてください」

「……」

「ご安心を。私と景清君は用事があるので、まだここにとどまります。あなたは、そこの扉から出て行くだけでいいのです。召喚だの何だのより、三千万円の方が価値があると思いませんか?」

「……」


 父は、震える手でその紙を受け取った。舐めるような目で内容を確かめ、じわじわと笑みを広げていく。


「景清」


 突然、名を呼ばれた。僕は、冷めた目を向けて返事をする。

 それは、この世の全ての内で最も醜い言葉だった。


「お前を育ててきて良かったよ」


 彼は、三千万円の証書を、生まれたての我が子を愛でるがごとく、大切に抱いていた。


 ……なんだ。


 あれほど望んだ言葉を父から貰うには、こんなことで良かったのか。


 ならば。


 ならば、僕は――。


 左足に力を入れる。体を起こし、まっすぐに全裸の男を見つめた。そして、床を蹴って駆け出す。


「……変な!模様の!全裸の!オッサンが!」


 三歩下がって距離を置いた曽根崎さんは、どことなく満足そうだ。あれも後で殴ろう。


 だけど、まずはこっちだ。


「馴れ馴れしく!偉そうに!」


 右拳を振り上げる。目の前の男は、自分の視界に映る光景を信じられないのか、口を間抜けに開けていた。

 叫ぶ声が震えている。僕は、泣いていた。


「僕の名前を、呼ぶな!!!!」


 力いっぱい、拳をその顔面に叩きつけた。

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