第17話 三つ目の呪文

 その暗い目をした子供は、いつも一人だった。


 なんでもそいつは親がおらず、引き取られた先の祖父も関わってはいけない怖い人であるという。彼の姉が困った人であったことも、その子供の孤独に拍車をかけていた。

 友達はみんな、親からそいつと遊ばないよう言われていたらしい。


「……お前さ、いつも何見てんの?」


 だというのに、どうしてあの時、俺は声をかけたのだろう。そいつは驚いたように俺を見上げて、眩しそうに目を細めた。

 そして、存外あどけない声で言ったのである。


「蟻」

「蟻? 黒いやつ?」

「黒いのも、茶色いのもいる。大きいのも、小さいのも」

「へー。こいつは?」

「名前は知らない。見てるだけだから」


 つまらなそうに、彼は言った。俺はそんなそいつを見て、ふと幼稚園の本棚の中に昆虫図鑑があった事を思い出した。


「調べようぜ」


 気づいたら、俺はそいつの手を取っていた。


「せっかく見つけたのに、名前知らないなんて勿体無いだろ。行こうぜ。一緒に探してやるからさ」


 そいつは、大きく目を見開いた。その目は、まるで初めて人間の声を聞いたような、そんな驚きに満ちていた。

 俺につられて立ち上がったそいつは、しげしげと俺を見つめながら、尋ねる。


「……君、名前は?」

「俺? 阿蘇忠助ってんだ」

「そう。ただすけ」

「長いから短くして呼べよ。みんなそうしてるから」

「じゃあ……ただ君」

「ん。お前は?」

「僕は、藤田直和」

「なおかず。なんだよ、お前も名前長いんじゃん。それじゃナオだ。ナオ、行こうぜ」

「うん、ただ君」


 手を繋いで、明るい日差しの中を二人で走っていく。あの蟻の名前は、結局何といっただろうか。


 いきなり、場面が暗転する。さっきまで繋いでいた手の向こうには既に誰もおらず、代わりに地面に倒れ伏した兄がいた。


「やめろ! 忠助には手を出すな! 呪文は全て俺が引き受ける……!」


 兄の視線の先には、忘れられようもない、グロテスクで忌まわしい黒い影。そいつは、兄の言葉を嘲笑うように、数本ある足で彼を踏み潰した。

 人間の半身が、呆気なく潰れる音がする。絶叫が、俺の耳をつんざいた。


 俺はその光景を、ただ、無傷で見ていた。


「……兄さん、俺は……」

「や……め……! 逃げ……!」


 兄は、なおも俺に声をかけ続ける。即死してもおかしくない怪我だろうにギリギリで生きているのは、あの影のせいだろう。俺が、呪文を受け取る選択をするのを待っているのだ。


 ―――なんでもいい。ここで、兄を失ってたまるものか。


「……大丈夫だ、兄さん。三つの内の一つを引き受けるだけなんだ。全然、大した事じゃない」

「……ッ!」

「早く寄越せ、バケモノ。俺の覚悟は、とっくに決まってんだよ!」


 黒い影は、いよいよ蔑み笑うように口を大きく開けた。









 長い夢から、ようやく阿蘇は覚めた。目眩のする頭を押さえ、気怠い体を起こす。……ここは、病院か。恐らく、呪文を唱え終わって気絶していた所を、救助されたのだろう。


 真っ先に浮かんだのは、景清のことであった。自分が油断したせいで、彼は教団に連れ去られてしまった。そのことを思うと、刺された場所が熱を持ち疼くようだった。


 阿蘇は、患者着をはだけ、刺された場所を確認する。うっすらと跡にはなっているが、完全に傷は塞がっていた。


 ―――彼が黒い男から得たのは、 “ 治癒の呪文 ” である。回復力にムラはあるものの、使い所さえ選べば、兄の持つ二つの呪文に比べて圧倒的に背負うリスクは少なくて済むものだった。


 とはいえ、無論呪文の影響はある。阿蘇は体を折り曲げると、近くに置かれていた洗面器に嘔吐した。咳き込みながら、胃液が出るまで吐き続け、それから荒い息を整えようともせず水の入ったペットボトルを煽った。


「……行かねぇと」


 口元を拭い、まだフラつく足を地面に下ろす。そして、周りの荷物を抱えてドアを開けた。


 ばったりと、絶世の美女に出くわした。


「まー、酷い顔。いつも最悪の人相してるけど、今日は殊更ね」

「……柊、何でここにいる」


 いつも通りの柊に頭が痛くなるのを感じながら、阿蘇は問いかける。対する柊は、押し付けるように服の束を手渡した。


「アンタならどうせ怪我も大した事ないだろうと思って、着替えを持ってきてあげたのよ。ほら、部屋に戻って早いとこ着替えちゃいなさい」

「着替えって、これ警察服じゃねぇか。どうやったんだよ」

「まあボクの美貌を使えば一撃よね。アンタのお偉いさんとはちょっとした付き合いがあるのよ」

「なんだその不正感ある理由」

「あと発砲許可も貰ってきたわ。三発までならオーケーですって」

「場合によっちゃ見逃せねぇぞ」


 呆れたが、今はここでこいつと漫才をしている暇はない。阿蘇はため息をつくと、服を柊に押し返し、その場で患者着を脱いだ。


「ちょっと、何乙女の前で着替えてんのよ。恥を知りなさい」

「似たようなの毎日見てるだろ。今時間ねぇんだ。シャツくれ」

「あーもう、男臭い男ってホント嫌。男は全般的に嫌」

「知るか」


 ぶつくさ言う柊を放置し、阿蘇はさっさと着替える。そして、拳銃に弾が入っていることを確認した。


「……三発だったな」

「ええ。それ以上は始末書」

「大丈夫、ちゃんと収めるよ」


 目を閉じて、イメージトレーニングをする。……あちらの状況がどうなっているかは、行ってみないとわからない。だからせめて、どんな場合でも対応できるようにしておきたい。

 いざとなれば、躊躇わず人を撃てるように。


 阿蘇は目を開ける。そして、スマホを取り出した。


「……ここに行けばいいんだな」


 地図上に示された位置を柊に見せると、彼女は頷いた。


「多分ね。山の中だったから」

「しっかりしろよ。命かかってんだぞ」

「そんなことぐらいわかってるわよ。だからボクもついて行ってあげるんじゃない。さ、行きましょ」

「ああ。……軽トラどこ置いてる?」

「さあ? どこかの警察署の前だったと思うけど」

「いい加減にしろよお前。あれ借り物なんだぞ」

「後で何とでもなるでしょ。新しくオープンカーでも借りなさい」

「そんなご機嫌な車で死地に行ってたまるか」


 言い合いながらも、二人はまっすぐに前だけを見て、白い廊下を進んでいく。おぼろげな夢の記憶は、既に懐かしい名前を呼ばれたことしか思い出せない。その名前を呼んだ誰かの姿を、阿蘇は自分の深い所へ沈めていった。

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