第13話 あなたの狂気に沈んでも

 目の前でドアが閉まる。近づいたと思った距離が、今また決定的なまでに離れてしまった事実を突きつけられた僕は、詰まる胸を鷲掴みにした。


 ――だけど、こうするしかない。


 痛いぐらいに胸元を握りしめ、決意する。


 ――僕は、僕にできることをしなければ。


 部屋の隅で呟き続ける曽根崎さんを振り返る。そして彼の前まで進むと、しゃがみこんだ。


「曽根崎さん」


 両肩を押さえて、呼びかける。しかし、彼は焦点を合わすことすらせず、ひたすら言葉を並べていた。

 肩を揺さぶってみる。――反応無し。

 頬にビンタをくらわせる。――反応無し。

 味噌汁を食べるか聞いてみる。――反応無し。


 打つ手無し。


「どうしようかな」


 舌と言わず金槌でも入れてやろうか。それなら少しは黙ってくれるかな。


 それにしても、そもそもこの人はどうしてこんなことになってしまっているのだろう。僕は腕を組んで考えた。

 ……原因は、ほぼ間違いなくあの不気味な呪文を詠唱したせいだ。あの時、呪文を聞いた人はみんな、動きを止められてしまっていた。強い力を持つ分、精神面にかかる負担が大きいのかもしれない。


 この部屋に来た時、藤田さんは、曽根崎さんはダメかと思ったと言っていた。

 つまり、曽根崎さんは覚悟していたのだ。あの場所で、自分が発狂してしまうことを。


 ――こんな僕を助ける為に。


「……僕が、あなたを見捨てるわけないでしょうよ」


 言ってみるが、曽根崎さんには届かない。変わらず、彼は狂気の彼岸に身を置いている。

 僕はうつむき、顔を覆った。

 どうしようもない人だ。あなたがいなければ、僕があの場所に帰る意味など無いのに。


「曽根崎さん」

「天の主第二次世界大戦テケリリ生まれたばかりの七本足」

「……帰ってきてくださいよ」


 今だって、ずっと何かを呟いているのは、呪文を唱えているつもりなんでしょう。あいつらを足止めし、僕を逃がす為に。


「そこに、僕はいないんです。ここに僕はいるんです」

「菩提樹脳髄に浸るカボチャ蛇男」

「曽根崎さん、僕と逃げましょう」

「ピーターソンと血の雨緑肌クラウド領域」

「曽根崎さん……」


 どうしていいかわからない。狂気に沈む彼を、引き上げる術が見当たらない。


 ――僕では、曽根崎さんを助けられない。


 吐きそうなほどに苦しかった。僕ではやはり駄目なのだろうか。彼の口から腕を突っ込んで、心臓を掴み引っ張りあげたい衝動にかられる。

 そんなことをしても、曽根崎さんは戻ってこないのに。


「……」


 曽根崎さんを見つめる。ふと、諦めに似た達観が、僕の胸に去来した。


 ――そうだよな。僕が曽根崎さんを引っ張り戻すなんて、どだい無理なんだよ。

 この僕ができることなんて、たかが知れているのだ。


 僕は、曽根崎さんの温度の無い両手を取った。


「曽根崎さん、聞こえますか」

「神秘二元一次方程式不気味の谷現象」

「……今、そちらに行きます」


 脱力しきった両手は重たく、持ち上げ続けることは困難である。僕は彼の手を床に置いて、その上に自分の手を重ねることにした。


「あなたがこちらに来ないなら、僕が行きます。僕も、あなたの狂気の中に沈みます。そうすれば、きっと声ぐらいは届くでしょう」

「ディアトロフ峠黄昏時魔女の住処」

「……ブロッケン山」


 僕は、あなたにどれほどの物を貰ってきたか知れない。

 だから、少し返すぐらい、いいでしょう。


「四つの署名青ゲットの殺人事件同調圧力」

「コナンドイル九頭竜川の河口付近態度の変容」

「アルコール依存症髪が伸びる人形」

「断酒日本人形の製法」

「三平方の定理窒素固定エススピードシャブ」

「a2+b2=c2 空気中の窒素から作ったアンモニアを窒素源として同化する働き覚醒剤」


 曽根崎さんの口から出てくる言葉に対応する答えを、僕は淀みなく返していく。少しずつ、彼と脳を共有しているかのような、不思議な感覚に囚われていった。


「ヘモフォビアネクロフィリアジャックオランタン」

「血液恐怖症死体愛好萎びたカブ」

「巻層雲白鳥の飛羽山松不思議の国のアリス症候群」

「薄曇万葉集笠女郎大きさの変容」


 問答は続く。とめどない彼の言葉の洪水を、目を閉じてただ受け止める。

 静かだった。埃っぽい部屋に、僕と曽根崎さんのボソボソとした声だけが、満ちていた。


「八尾比丘尼酸っぱいブドウ朝東風」

「不老不死寓話春の朝の風」

「電子レンジの生卵破れたソファーお守り」

「爆発四散八つ当たりオニキス」

「昨日食べた物時給四千円」

「味噌汁ご飯焼き魚アルバイト料」

「……景清君」

「はい、ここにいます」


 曽根崎さんの顔が上がり、惚けたように僕を見る。目の下のクマは濃いし、涙や唾液でぐしゃぐしゃの酷い有様だったが、そんなことは構わない。

 僕は、改めて彼の両手を取り、言った。


「おかえりなさい」


 曽根崎さんは、泣き出しそうに顔を歪めた後、力無く僕の肩に頭を預けてきた。

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