第11話 利己主義者は己の為にそこに立つ
それは人間の声と呼ぶには、あまりに荒々しく、そしておぞましいものだった。だが僕は、その声の主を確かに知っていた。
「――!」
僕は、彼の名を呼んだはずだった。しかし、喉は締め上げられ、手足は凍りついたように動かない。それは、母を始めとした他の教団員も同様だった。
「……まったく、不愉快だ」
時が止まったように誰もが制止した世界で、背の高い白装束が一人悠然と歩いてくる。そして、僕の前で足を止めた。
「私は、目の前で君の尊厳を踏みにじられて黙っていられるほど、お人好しじゃないぞ」
怒りを隠そうともせず、男は冷たい両手で僕の頬を包んだ。……いや、違う。彼は、僕の両耳に栓を押し込んだのだ。
周りの音が一切聞こえなくなる中、男は母の眼前まで迫ると、紳士的な仕草でその仮面を外す。同時に、自分の仮面も親指で押し上げた。
「どうもお初お目にかかります。景清君の雇用主の、曽根崎慎司と申します」
曽根崎さんは、笑いながら母に話しかける。その手には、つい先ほどまで彼女が持っていた棒が握られていた。
母の目が、恐怖に揺れる。
「困るんですよね、勝手にうちのお手伝いさんを連れて行かれちゃ。仕事が回らなくなったら、どうしてくれるんですか」
何を言っているのだろう。僕では、口の動きだけで彼の言葉を把握することはできない。
曽根崎さんは不気味な笑いを浮かべたまま、火花が散る棒を母に近づけていく。
「あなたは、景清君の中身に興味が無いと言いましたね。なんて都合がいい。私はむしろ、中身さえあればそれでいいんです。全身指だらけの存在になろうが、ヤニ中になろうが、手足がもがれようが、彼が竹田景清である限りそれでいい」
「……!」
「とはいえ、中身だけ取り出す方法なんて存在しない。ありえない。つまり、残念ながら、あなたの目論見と私の目的は最終的な所で一致しない。だから、あなたが景清君を殺すというのなら、私はこうするしかありません」
曽根崎さんは、母の首筋に金属の棒を軽く当てた。親指が、スイッチの上に乗せられる。
額に脂汗を浮かべる母の耳元まで口を近づけ、彼は囁いた。
「……景清君を、貴様ごときの欲望に浪費させてたまるものか」
曽根崎さんの親指がスライドする。母は一度絶叫するように口を開けると、そのまま倒れ込んだ。
――口を開ける?
腕を動かしてみる。いつのまにか、僕の体に自由が戻っていた。
「曽根崎さん!」
他の教団員も気づいたのだろう。じりじりと、母を見下ろす曽根崎さんを取り囲むように移動している。中には、ナイフや血がこびりついたハンマーを手にしている白装束もいた。
「……やはり、あれぐらいじゃ駄目か」
一方の曽根崎さんは、疲れたように肩を落とし、教団員を振り返った。
「仕方ないな」
そして、彼は再び口を動かし始めた。その動きはなんとも奇妙で、恐らく飛び出す音は日本語ではないのだろうということだけ理解できた。
その詠唱が進むにつれ、教団員の動きが鈍くなっていく。誰も彼も、手に持っていた武器を次々と落としていった。
だがその時、曽根崎さんに異変が訪れた。
体を折り曲げ、膝をつく。両手は首に当てられており、そのまま苦しそうに這いつくばった。それでも、彼はまだ詠唱を続けている。
僕は、横たわっていた台から飛び降りると、曽根崎さんの元に駆け寄った。
「曽根崎さん! もう、いいですから……!」
逃げましょう。そう言いかけた言葉を手で遮り、彼はうつむいたままでドアを乱暴に指差した。
――一人で逃げろということか。
「ふざけんじゃねぇ!」
曽根崎さんの腕を無理矢理自分の肩に回し、立たせる。殆ど力が抜けたような彼を引きずるように、僕はドアまで走った。
「とっとと逃げますよ!」
体当たりに近い勢いでドアを開けた弾みで、耳栓が取れてしまった。まずい、と思ったが、既に曽根崎さんは詠唱をしていなかった。
しかし、彼は呟き続けている。その内容を聞いた僕は、背中を気持ち悪い虫が這ったかのようにゾッとした。
「地方自治体の廃棄区分塩化ビニル樹脂五月雨ピタゴラスの定理クラウド多変数関数論損益分岐点」
「……なんですか?」
「芥川龍之介の自殺都々逸死亡推定時刻ブードゥーロアペテロツングースカヴォイニッチ手稿」
「曽根崎さん」
「ファラリスの雄牛取り替え子水銀を飲む病人ウサギの巣穴」
「曽根崎さん!」
曽根崎さんは、だらだらと唾液と涙を流しながら、虚ろな目で訳の分からないことを口走っている。僕が声をかけても、一向に反応する気配は無い。
どうして、こんなことに。
いや、それを考えるのは後だ。まずは、ここから逃げなければ。
「なんでもいいから、足は動かしてくださいよ!」
再び、曽根崎さんを引っ張って走り出す。どこへ逃げていいやらわからない。とにかく、外へ出なければ。
考えるに、曽根崎さんが教団員に仕掛けた何かは、時間が経てば解除されるのだろう。だったらモタモタしている場合ではない。
「こっちだ!」
聞き慣れた声に顔を向ける。ドアから半身を出した白装束に一瞬ビクリとしたが、すぐにそれを知った顔と認識した僕は、曽根崎さんを連れて中に滑り込んだ。
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