第1話 この手を取れ
その日の事務所は静かだった。なぜなら、曽根崎さんは柊ちゃんの出版社に原稿を届けに行っているからだ。
まあ、恐らくそれは口実で、オカルト雑誌の出版社に集まる情報を仕入れに行くのが本当の目的だろうが。
僕は、手に持った封筒に目を落とし、本日何度目かのため息をついた。――今から、僕はこれを曽根崎さんの机に置いて、帰らねばならない。彼が帰って来る前に。彼が僕を見つけてしまう前に。
あの人は、どんな顔をするだろうか。
僕は、彼の机の前に行くと、封筒を手放した。
それからは振り返らずに、ドアまでまっすぐ歩いて行く。事務所に鍵をかけると、合鍵はもう不要なのでドアに備え付けられたポストの中に入れた。
――これで全部おしまいだ。
「あれ、景清君」
しかし、どうも神様は僕を嫌うようである。ちょうど帰ってきた曽根崎さんが、階段から僕を見上げた。
「今日はもう帰るのか」
「……はい、すいません」
「……何かあったのか?」
「いえ」
「そうか」
うつむいて、曽根崎さんの横を通り抜ける。すれ違う瞬間、僕は彼に言った。
「それでは、曽根崎さん」
「おう、また明日」
何の疑いもなく、彼は明日も僕が来ると思っている。その事実に胸が詰まりながら、僕は階段を降りていった。
事務所の鍵が開く音がして、曽根崎さんの足音も遠ざかる。
これでいい。こうするしかない。
喉にせり上がるほどの感情を踏み潰すように、僕は走り出した。
その時だった。
「景清ーーーーーー!!!!」
地を揺らすような怒鳴り声に、僕はつい足を止めてしまった。振り返ると、曽根崎さんが事務所の窓から顔を出し、物凄い形相でこちらを睨みつけていた。
左手には、握りつぶした封筒。
「辞表ってどういう事だ!! 今そっち行くからな!!」
え? 来んの?
僕は、急いで逃げ出した。
「待てコラ景清!!」
呼び捨てである。これはマジギレだ。冗談抜きで、捕まったら何されるかわからない。
全速力で足を動かしたが、相手はあの曽根崎さんである。振り返ると、もうすぐそこまで迫ってきていた。
「速っ!!?」
そしてあえなく捕まった。なんでこんなに足速いんだよ。アシダカグモかよ。
普通こういうシーンって、僕が退場してしんみり終わるんじゃねぇのか。
「つーかーまーえーたーぞー」
猫のように襟首をつかまれ、曽根崎さんの顔と同じ高さまで持ち上げられる。怖い怖い怖い。すいませんすいませんすいません。
曽根崎さんは、目を逸らせる僕に不気味に笑いながら言う。
「この私から逃げられると思わないことだな……」
セリフも表情も完全に悪役のソレである。僕は、観念した。
「……すいませんでした……」
「まったくだ。一体どういうことか、しっかり説明してもらうぞ」
はい、と僕はうなだれた。その様子にあらかた気は済んだのか、曽根崎さんは大きく息を吐くと僕を降ろしてくれた。
「……事情ぐらい教えてくれ。これを私に寄越すのは、それからでも遅くないだろ」
そう言って、彼はしわくちゃになった辞表を僕に押し付けた。僕はそれを受け取り、頷く。
情けない事に、曽根崎さんがそうしてくれることを心のどこかで期待していた僕は、安堵で涙腺が緩みそうになるのを必死で堪えていた。
「すまんが、お茶は自分で入れてくれ」
そして事務所に戻り、ソファーに座るのはいつもの曽根崎さんである。僕は素直に従い、お湯を沸かして温かいお茶を二人分入れた。
相当熱いだろうそれを、曽根崎さんは一気飲みする。
「……何があったんだ」
その声に、僕を責める色は一つも無かった。彼の言葉に勝手に勇気を貰い、僕は口を開く。
「……父が、訪ねてきました」
「お父様が?」
「はい」
両手に持ったお茶の表面が揺れている。そこでようやく、自分が震えているのだと気づいた。
「……父は僕に、大学を辞めて家に帰ってくるように言いました」
「うん」
「そして、ある宗教に入信しろと。そこに入ることで、やっと役立たずのお前は人の役に立つことができると」
「……」
「……神を呼ぶための、生贄になれる。そう父は言いました」
「……そうか」
「僕は、断りました」
そう、僕は断った。思えば、生まれて初めて父に反抗したのかもしれない。
しかし、当然許されるはずがなかった。
「……父は、曽根崎さんの名前を出してきたんです」
「私の?」
「はい。我が教団は強大だ。怪異の掃除人だろうが、我らの目的を邪魔立てするのならば、消すことは容易い、と」
「……なぜ、君が私の元で働いている事を知ってるんだ?」
「黒い煙草の件があったでしょう。あの時の助教授が、父と同じ神を信仰していたんです」
「なるほどね」
曽根崎さんは、足を組んで上を向いた。その口は、不愉快そうにひん曲がっている。
「勿論、そんな脅しがどこまで本当かなんて、わかりません。だけど、これ以上僕に関わっていたら、確実に曽根崎さんはあの教団に目をつけられてしまう。……あの人たちは、目的の為なら手段なんて選びません。それだけは、避けたかったんです」
「……」
「それに、僕が行かなければ、別の人が犠牲になると父は言いました。価値の無いお前が、価値ある他人の命を見捨てるのかと。それで、僕は、何も言えなくなって……」
ドン、と鈍い音がした。顔を上げると、うつむいた曽根崎さんがソファーの背を拳で殴りつけていた。拳はめり込み、皮が破れて中の綿が飛び出してしまっている。
僕は、頭を下げた。
「……すいません。何か気に障りましたか」
「……君は、腹が立たないのか?」
今にも破裂しそうなほどに怒気を孕んだ言葉が、曽根崎さんの口から漏れる。
――腹が立たないのか、だって?
ポカンとした僕を置いて、曽根崎さんはゆらりと立ち上がった。
「私は、腹が立つ。君を蔑ろにする、父を自称する人間が。君を犠牲にしようとする、その教団が。卑劣で、俗悪で、下衆で、実に、実にはらわたが煮えくりかえる」
「……曽根崎さん」
「さっき君は言ったな。私が教団に目をつけられることを避けたいと。その勘違いを、一つ訂正してやろう」
「勘違い?」
曽根崎さんの目は射るように鋭く、全てのものを憎悪しているかのようだ。彼は僕の隣に立つと、腰を屈めて息がかかるほど近くに顔を寄せる。
真っ黒な瞳は、吸い込まれそうなほど深い色をしていた。
「――教団が私に目をつけるんじゃない。私が、ヤツらに目をつけるんだよ」
いっそ傲慢ともいえるその自負に、僕はようやく思い出す。――そうだ。この人は、いつもそうだった。
誰もが触れたがらない怪異に触れ、解決しては辻褄を合わせる。
まるで、この世の綻びを繕うように。
「ありえないものを、無かったことにする。それが、私の本領だ」
怪異の掃除人たる彼は、背筋を伸ばしてそう言った。そして、顔を上げた僕を見て、妖艶に笑い手を差し伸べる。
「――だから、この手を取れ。生贄だの教団だの、君を取り巻く怪異も、曽根崎慎司が一つ残らず消してやろう」
彼は、悪魔か、鬼か。もしくはただの人であるが故に、その提案ができるのか。いつかの時のように僕の目の前に出された手は、冷たい温度で僕を待っている。
――腹が立たないのかって?
ふつふつと、押し込められていた感情が沸き立つ。誰も、自分自身でさえも、この感情を名付けようとしてこなかった。
虐げられ、見捨てられ、それでも家族だからと。
――冗談じゃない。
「……そうですね。僕としたことが、すっかり弱気になっていました」
曽根崎さんの手を掴み、ソファーから立ち上がる。それから、彼の真似をして口をひん曲げて笑ってやった。
「……もうそろそろ、僕も潰してやろうと思ってたんですよ」
自分の呪いを。降りかかる怪異を。全て、綺麗に消してしまえるならば。
「依頼をお願いします」
「私は高いぞ?」
「構いませんよ。今はツケにしても、一瞬で返済してみせます」
「それでこそ景清君だ」
軽口のやりとりも、タッグを組むのも、いつも通りの流れだ。ならば、今回も立ち向かってやろうじゃないか。
僕は、彼の手を握りしめ、無理矢理に震えを止めた。
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