第18話 始末

 ――気づけば僕は、あしとりさんの前に立っていた。彼女は、耳まで裂けた口をガパガパと開け閉めし、歯を打ち鳴らしている。

 その歯の数は、およそ普通の人間では考えられないほど多く、口内をびっしりと埋め尽くしていた。


 ……もしもあの時に曽根崎さんを差し出していたら、彼の幻覚が目の前でこの口に食われていたのだろうか。それを見なくて済んだのは、僥倖と言わざるを得なかった。


 あしとりさんは不安定な体を曲げて、僕を見つめる。


「クレルノ、ナーンダ」


 ――さあ、来たぞ。


 恐怖と期待で震える体を抑えながら、例の言葉を思い出す。人差し指で自分の頭を指し、無理矢理不敵な笑みを浮かべてやった。


「……僕の……頭の中の……」


 舌が重たい。うまく回らない。僕を覗き込むあしとりさんの開ききった目から、だらだらと血が流れ出した。

 ……負けてたまるか。僕はその目をじっと見つめて、言った。


「……あしとりさん」


 突然、彼女は聞くに耐えないおぞましい咆哮をあげた。体を左右に大きく揺らし、そのたびに肩から飛び散った血が僕の服を汚す。

 そのまま、あしとりさんはバタリとうつ伏せに倒れた。しかしなぜか首は180度回っており、グロテスクな格好でこちらを見ている。


 裂けた口が、笑った。


「正解」


 それは、いつか聞いた黒い男の声だった。











 眼前に現れた昆虫は、照りつける太陽光に怯んだように十本のギラギラした脚を縮めた。それを見た曽根崎が、藤田に言う。


「今だ!」


 その言葉を合図に、曽根崎の捨てたスタンガンを拾った藤田が、最小限の動きであしとりさんに電撃をくらわせる。辺りに焦げた匂いが広がるも、果たして効果のほどは――。


「どけ、藤田!」


 藤田がその場にしゃがむと、巨大銃を肩に乗せた阿蘇が昆虫に向け火炎を放射した。最大火力の炎は数秒で尽き、まだ炎の中に原型を留める影を確認した曽根崎は、入れ替わりに液体窒素を噴射する。その間にも目を凝らし、彼はあしとりさんの動向を見極めた。


「……駄目だ、生きてる!」


 液体窒素の漂う靄の中から、昆虫が飛び出てきた。羽を小刻みに震わせ、狙いを藤田に定める。


「させるかよ!」


 藤田を蹴り飛ばし、阿蘇が前に躍り出た。そのまま、手に握ったノコギリをあしとりさんに叩きつける。複眼に刃がめり込み、どろりとした黒い液体が滲み出てくる。


 ――効いた。


 しかし、阿蘇が次の行動を起こす前に、黒光りする脚はノコギリを鷲掴むと、簡単にひん曲げて見せた。それでバランスを崩した阿蘇の頭めがけて、すかさず昆虫は飛んでくる。

 だが、そうは問屋が卸さない。ナイフを構えた藤田が前に立ちはだかると、阿蘇がつけた傷口に重ねるよう的確に振るった。それを間一髪かわした昆虫が後ずさったその上には、曽根崎が振りかざしたチェーンソーが待っていた。


「――これでも、貴様には生温いぐらいだ」


 チェーンソーの刃が、あしとりさんの体を真っ二つに割いた。










 あしとりさんは消えたのに、まだ僕は夢から出ることができないでいた。

 まあ夢は夢だし、いつかは覚めるだろ。僕は、黒い靄の中をアテもなく歩くことにした。


「曽根崎のお役には立てましたか?」


 いつのまにか、僕の隣を黒い男が歩いていた。僕は無視し、ズカズカと靄を踏んで突き放す。

 だが、ヤツにとっては意味の無い抵抗なのだろう。全く息を切らす事も無く、彼は僕に追いついた。


「あなたは、その身を捧げる事で、曽根崎の役に立った。素晴らしい」

「そりゃどーも」

「ですが、まだ足りない」


 僕は歩みを止めない。男は、笑っていた。


「あなたの壊れた自尊心の器を満たすには、まだ足りない。まだあなたは、自分を犠牲にできる」

「……」


 これは、夢だ。ギリ、と歯ぎしりし、僕は意識を集中させる。

 男は、大袈裟な身振り手振りで朗々と続けた。


「我が身を犠牲にすれば、皆があなたを憐れみます。そして、自己犠牲の英雄として讃えます。あなたにとって、損は一つとしてない。何故なら、あなたの身はあなたにとって価値の無いものだから」

「……」

「価値の無いものを差し出して、価値のある物を手に入れる。まったく、無駄がない。あなたになら、それがわかるでしょう?」


 右手に確かな感触を得る。僕はそれをしっかり握り直すと、全体重をかけて男の腹部に突き刺した。冷たく黒い血が、僕の右手を濡らす。


「……アンタ、さっきからうるさいんだよ」


 男の口から吹き出た血だろうか。僕の頭に、べちゃりと生臭い液体が落ちた。


「曽根崎さんの役に立つとか、僕を犠牲にするとか、そんなん知るか。こちとらそのせいで、三十路のオッサンに泣きつかれてるんだぞ」

「……あなたは」


 男は何か言いかけた。それを遮り、僕は夢で生成したナイフで更に男の腹肉を抉る。


「いいから僕の夢からさっさと出て行け!これ以上ここにいるなら、何度だって殺してやるぞ!!」


 見上げた男の顔は、目も鼻も無く、口だけしか無かった。その口は僕に向かって短い呪詛のようなものを唱えた。あるいは、ただの悪態だったのかもしれない。


 男の姿は瞬時にかき消え、辺りに光が満ちた。直感的に、僕は目が覚めるのだとわかった。


 ――まあ、今更手伝えることなんて残ってないかもしれないけれど。


 ナイフを投げ捨て、黒い血で染まった手をズボンで拭いた。

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