第16話 僕の世界に

「景清君?」


 曽根崎は、姿の見えない青年の名前を呼んだ。見えないとはいえ、恐らくキッチン裏などで拭き掃除などをしているのだろう。そう思い、彼は続けた。


「聞こえたか? あしとりさんは、回を重ねるごとに “ より大きなもの ” を要求してくるんだ。だから、似た大きさのものだと却下され、更なる大物を要求される」


 しかし、景清からの返事はない。流石におかしいと思った曽根崎は席を立ち、彼を探しにいく。


「だから、最終的にあしとりさんを追い出そうとするなら、ヤツの大きさは人間の頭ぐらいだから――」


 その次の言葉が出てくることは無かった。曽根崎は、キッチン裏で気を失って倒れている景清を見つけたのだ。


「景清君!」


 駆け寄り、抱え起こす。声をかけながら強く揺さぶるも、彼はまったく意識を取り戻さない。


 ――しまった。彼はまだ、この事を知らない。


「景清君、聞こえるか! いいか、絶対に私をあしとりさんに差し出すなよ!」


 声を張り上げたが、景清は腕の中でぐったりと目を閉じたままである。


 あしとりさんを追い出すには、頭の中のあしとりさんを指定しなければならない。しかし、その前にあしとりさんより大きい他人を指定してしまうと、二度とその夢の中ではあしとりさんを差し出す事ができなくなってしまうのだ。


 この時点で、曽根崎の考えている計画は頓挫する。しかし、それだけでは終わらない。


 “ 他人 ”より大きく、価値のあるもの。その次に夢を見た時に要求されるものは――患者の全てではないか。


 曽根崎は、何度も彼の名を呼んだ。


「景清君! 頼む! 目を開けろ!」


 景清は、死んだように深く眠り続けていた。









 夢を見ている。冷たく、肺にまとわりつくような灰色の靄の中、僕は立っていた。


 目の前の、あしとりさんを見据えながら。


「……なんで、僕はここに来てんだよ」


 耳まで裂けた口は問いに答えず、代わりにガラガラの声であの言葉を囁く。


「クレルノ、ナーンダ」


 腕がもがれた肩口から、血の塊がべちゃりと落ちた。一本足で不安定な体は、ゆっくりと左右に揺れている。しかし、愉快そうに歪んだ目だけは、ずっと僕の顔に向けられていた。

 怖い。逃げたい。こんなもの、一秒たりとて相手にしていたくない。


 だけど、今回だけは別だ。僕は、失った左手の爪を隠すように拳を握った。――曽根崎さんをこいつに差し出せば、僕は拷問を免れることができる。


「……それって、他の人でもいい?」


 あしとりさんに尋ねると、ヤツはゲタゲタと下品な声で笑った。僕は、それを肯定と捉えた。


「なら、僕がアンタにやるのは――」


 言いかけて、ふと、不安が胸をよぎった。


 こいつに曽根崎さんを食べさせたら、僕は彼を認識できなくなる。

 失われた認識は、あしとりさんを直接叩けば元に戻るかもしれないと曽根崎さんは言っていた。しかし、それはあくまで推測だ。首尾よくこいつを倒したとしても、全てが元通りになるとは限らない。


 阿蘇さんの言う通りだとしたら、声は聞こえるだろう。だけどそれだって、本当にそうなるかどうかなんて、わからない。

 ただ一つ確実なのは、次に僕が目を覚ました時――。


 ――僕の世界から、曽根崎さんが消えてしまう。


 感情が壊れてて、鬱陶しくて、バカ舌で、だらしなくて、やたら背筋だけは伸びてる、あのオッサンが。

 迷いなく犠牲にできると言った時の、少し傷ついた顔が蘇る。あの人、目つきは悪いのに、ああいう表情をされるとボールを取り損ねた老犬を連想するんだよな。


 知らぬ間に、笑いが溢れていた。


「……アンタにやるものだけどさ」


 僕の笑い声に、あしとりさんはどことなく不愉快そうにしていた。それを無視して、自分の前髪を摘み、尋ねる。


「例えば、僕の髪の毛とかって、どう?」


 突如、耳元であしとりさんが絶叫した。ああもう、うるさいな。ダメならダメと言えばいいだろ。


 そんじゃ、これでいいや。僕は右側の髪をかきあげた。


「……僕の右耳をくれてやるよ」


 ――本当、僕はバカだな。


 目が覚めた時にどう曽根崎さんに言い訳しようと考えながら、迫り来る口に目を閉じた。









 目が覚めると、またしても僕は曽根崎さんに抱えられていた。……なんて顔してんだこの人。今にも泣きそうにして。


「景清君、私が見えるか」


 ああそうか。曽根崎さんは、僕が曽根崎さんを差し出したままだと思っているのか。僕は彼の顔を見上げたまま、ぼんやりと言う。


「……見えますよ。不審者面までしっかり認識してます」

「こんな時まで君ってヤツは」


 泣きそうな顔が、怒り顔に変わる。ホッとしたのだろうな、これは。

 っていうか、自分を食べさせるよう指示したのは曽根崎さんだろ。そんなに僕が認識できなくなるのが嫌だったのか。

 だがそれを尋ねる前に、彼は僕に言った。


「……寝ている君に、声が届いて良かった。君を大変な目に遭わせる所だった」

「声?」

「あれ、聞こえてなかったのか。じゃあ、君は自力で真相に辿り着いたんだな。すごいじゃないか」

「真相?」

「……んん?」


 ……なんか話がすれ違うな?

 まだ頭の回転が鈍く、何が起こっているかわかっていない僕に、ようやく話を飲み込んだ曽根崎さんがゆっくり解説してくれた。


「……あしとりさんが要求するものは、回を重ねるごとに、より大きなものじゃないといけなくなるんだ。だから、他人である私を丸ごと食べさせていたら、君の頭の中のあしとりさんを指定できなくなる所だった」

「うわ、あっぶねぇ……」

「そして、恐らく次に見る夢で、君は全てを食われて廃人になっていた」

「危ねぇ!」


 そんな危険な提案をするんじゃない!

 一気に頭がハッキリし、僕は飛び起きた。同時に焼けつくような痛みが右耳に走り、手で押さえてうずくまる。


「……右耳を差し出したんだな」


 痛みで答えられない。曽根崎さんは救急箱を持ってきてくれながら、申し訳なさそうに言う。


「すまない。もっと熟慮すべきだった」

「……ッ」

「気休めにしかならないかもしれないが、痛み止めだ。飲むといい」


 錠剤を奪うように受け取り、水で流し込む。その間にも、曽根崎さんはやたら手際良く僕の頭に包帯を巻いてくれていた。


「……それにしても、だとしたらどうして君は私の名を挙げなかったんだ。実際に私が苦しむ訳でもないのに」


 包帯を巻いてくれながら、抱いて当然の疑問を彼は口にする。しかし、それは僕にとって都合の悪い質問だった。

 だから、僕は大袈裟に痛がってごまかした。だが曽根崎さんにはわかっているのか、包帯を巻く手は緩めず、「そんなら全部解決した後もう一度教えてくれ」と一言だけ言った。


 それまでに、素晴らしい理屈が思いつけばいいのだが。

 ひとまず、今この難を逃れただけ良しとする。


「とにかく、もう一刻の猶予もないな」


 曽根崎さんは僕の手当てを終えると、立ち上がってスマホを手にした。これは、何の前触れもなく、気絶した僕のことを言っているのだろう。悠長に全ての準備を待っていれば、またあしとりさんに呼ばれてしまうかもしれない。

 彼は、電話をかけていた。阿蘇さんだろうか。


「……ああ、由良? 私だ。曽根崎だ」


 一体誰にかけているのだろう。


「頼んでおいた物についてだが、できているか。……よし、それじゃ忠助に預けてくれ。……え? 調節ができない? いや、いい。最大出力さえ出せたらいい」


 スマホを耳から離すや否や、また別の人に電話をかける。それも終えると、曽根崎さんは僕に顔を向けた。


「歩けるか、景清君」

「……え? なんです?」

「立って歩けるかと聞いたんだ。無理なら私が背負う」

「……」


 僕は、まだ激痛を伴う右耳に触れた。その真横で、恐る恐る指を鳴らしてみる。


 指の音は、聞こえなかった。


「……まさか、君」


 曽根崎さんの口が動くが、その位置でその声量だと、僕には何を言っているのかわからなかった。

 何が起こったかを察してショックを受ける曽根崎さんに、僕は無理矢理笑顔を作る。


「……どうやら、聴力まで取られたようです」


 みっともないことに、その声は震えてしまっていた。

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