第14話 蝙蝠は選択する
――お母さんは、お姉ちゃんの事が嫌いだった。
「お姉ちゃんの事は真似しちゃダメよ。あれは私とあなたにお金を落とす為だけに生きてるの。あなたは私に似て本当に可愛いのに、どうしてあれはアイツに似てしまったのかしら。さあ、ご飯に行きましょう。あれは一人で適当に済ませるでしょ」
――お姉ちゃんは、お母さんの事が嫌いだった。
「お母さんのようになっちゃダメだよ。私が働いて、涼香を学校に行かせてあげる。なんであんなのが母親なんだろう。あいつに涼香は渡さない。私は学校を卒業したらすぐ一人で暮らすから、涼香もおいで。お姉ちゃんと一緒に、あんなのがいない場所で幸せに暮らそう」
私は、二人の仲を取り持つべきだったのかもしれない。だけど、それができなかった。
この人達に逆らえば、その嫌悪が私に向くんじゃないかと思うと、耐えられなかったのだ。
「ありがとう、お母さん。ご飯楽しみだな」
「ありがとう、お姉ちゃん。一緒に暮らそうね」
私はいつも、傍観者だった。家族である事と、私には優しいという事実を盾に、いつかお母さんとお姉ちゃんは分かり合えると自分に言い聞かせていた。
だから、お姉ちゃんのSNSを見てしまったあの時、私はその狂気に触れる事ができなかった。勿論、怖かったというのもある。だけど、本当のところはたった一つの理由からだ。
この期に及んで、私は関わりたくなかったのだ。板挟みとなり、貼り付けた笑顔で矛盾した二人の望む言葉を吐き続ける事だけが、私という存在だったから。
結果として、お姉ちゃんは殺された。お母さんも、廃人同然になって入院した。
私は、生まれて初めて自由になった。
「――だけど、大怪我をしたお母さんが夢の中に出るようになって、とうとう君を罵ってきたんだね」
青ざめながら長い独白をした涼香に、藤田は阿蘇が入れてくれたホットミルクを差し出した。彼女は一口飲み、小さく息を吐く。
「私への罰だと思った。私がお姉ちゃんを止めてれば、お母さんはあんな目に遭わなかったから。お母さんを止めていれば、お姉ちゃんは殺されなかったから」
「……」
「……せっかく自由になったのに、私、何していいか全然わからないの。今まで、お母さんやお姉ちゃんの言うことばかり聞いてたから」
「そっか」
「藤田さん、私どうしよう。どうしたらいい?お母さん、怒っているんだわ。お見舞いにも行ってないの。どうすればいいのかな?」
すがりつく涼香に、藤田はそっと体を寄せた。――なるほど、頭を冷やしておいてよかった。上目遣いに見上げてくる彼女に、彼は真摯な眼差しを向ける。
「涼香ちゃんは、どうすべきだと思う?」
「……え?」
予想だにしない言葉に、涼香はポカンとした。
「オレは涼香ちゃんの司令塔じゃないから、君に指示なんてできない。自分のことは自分で決めなきゃ」
「え……でも、私わかんない」
「そもそも涼香ちゃんは、お母さんのお見舞いに行きたいと思ってるの?」
「……わかんない」
「そうか」
うつむく涼香は、まるで子供のようだと藤田は思った。実際、何かを考え決定するという点に関していえば、彼女は殆ど成長する事なく生きてきたのだろう。そうなった原因を大きく占める二人が、あんな結末を辿るとは、なんとも皮肉なものだった。
どことなく、藤田の中で彼女の姿が甥と重なって見えた。
「……自分で考えて決めるのって、すごく怖いよな」
涼香の顔を見ることなく、藤田は言った。
「オレも、家を出て行く時、怖かった。前言ったっけ?オレ、実家から勘当くらってんだよ」
涼香は驚いたように顔を上げ、首を横に振る。それを見て、藤田は自虐的な笑みを浮かべた。
「……実家が宗教やっててさ。それがどうしても肌に合わなくて、抜けたいって直談判したんだ。それからまあ一悶着あって、結局殆ど夜逃げ同然に家を出ることになったんだけど」
「……そんなことが」
「でも、そのおかげで今は楽に息ができるよ。家にいた時と違って、全部自分で考えて自分で決められるから」
「……」
それは本当の事だった。藤田は、無意識に左腕をさすりながら思う。――あの時、胃が捻れそうなほどの覚悟を決めて逃げ出したことへの後悔は、全く感じていない。
涼香は、一瞬羨望の眼差しを藤田に向けた後、またうつむいた。
「……私、藤田さんみたいに強くない」
「意外と最初の一歩が一番勇気いるんだぜ。そこからは積み重ねだ」
最初の一歩、と涼香は口の中で繰り返す。……自分の話が、彼女の何かを変えるとは思わない。なんでこんな気が滅入るような話をしたんだろうな、オレは。
――まあ、この分だと他に情報は無さそうだ。涼香に気づかれないよう、藤田はため息をつく。――今の精神状態の彼女を、無理に問い詰める訳にはいかないし。
そんなことを考えていた時だった。
「涼香さん」
ずっと黙っていた阿蘇が、口を開いた。その目は、鋭く彼女を捉えている。
「一つだけ、確認したい事があるんですが、構いませんか」
涼香は、ビクリと体を震わせた。それを見た藤田は、慌てて間に入る。
「阿蘇、お前……」
「いや、うん、わかっちゃいるんだけどな」
「だったら――」
「こっちもこっちで引けねぇんだよ。わかるだろ」
「……」
阿蘇は正しい。今は、景清の為にあしとりさんの情報を集める事が最優先だ。涼香の見たものは、あしとりさんに引きずられたただの悪夢であり、命に関わるものではない。
ただ、彼女が追い詰められるだけである。
――それがまずいんだろうがよ。
どうやら、自分は彼女に同情しているようだった。
「藤田さん、私、大丈夫です」
苦い顔をする藤田を制し、涼香は言った。
「阿蘇さん、なんでも聞いてください」
こうなれば、藤田には止める理由がない。黙って、引くことにした。
阿蘇は相変わらず厳しい顔つきをして、尋ねる。
「お母さんを止めていればお姉ちゃんは殺されなかった、と言いましたよね。あれ、どういう意味ですか」
「どういう、とは」
「その言い方だと、美知枝さんは、最終的に明確な殺意を朱美さんに対し抱いていたように聞こえます。そして、あなたはそれを知っていたと」
「……」
「それが、俺たちにとって大きな情報になるかもしれない。教えてくれませんか」
阿蘇の鋭い目つきは、怒っているのではなく、あまりにも真剣だからだ。長い付き合いの藤田には、それがよくわかる。
だが、一方の涼香も、見えない恐怖に首を絞められている。きっと彼女の抱える事実は、告げれば母親が不利になるもので、言ったと知られれば後で責められるのだろう。
だから、藤田は両手で彼女の手を握った。
それを涼香は、珍しいものを見るようにしげしげと眺めた。
「……藤田さん」
「何?」
「……最初の一歩が一番怖いんですよね」
「うん」
涼香は、藤田に包まれた手にもう一度目をやり、それから阿蘇の顔を見上げる。
手は震えていたが、その目は強く光っていた。
「……母の症状がだいぶ進んでいたある日、私は母に言われたんです。あれを食べさせれば、全部丸く収まる、と」
「あれ、ですか?」
「姉のことだと思います」
あしとりさんに朱美を食べさせることで、美知枝は被害を免れようとしたのだ。
「――その次の日から、母は姉を認識できなくなりました」
阿蘇は頷いた。それはそうだろう。もしもあしとりさんが認識を奪う怪異ならば、当然美知枝の世界から朱美は消える。
しかし、それだけでは終わらなかった。
「……姉の声は、消えなかったんです」
「それって、朱美さんの声が美知枝さんに聞こえてたってことですか?」
「はい。でも、姿は見えないままです。お母さん、それで本当におかしくなっちゃって。……だから、私が様子を見に行った時に」
――アンタは私が殺したはずだ!
――なんでまだ私を苦しめるんだ、憎い、憎い!
――アンタさえ、いなければ。
「……母は、後から私が見ていたことに気づきました。絶対に誰にも言うなとそれだけ言うと、気絶してしまって……。次に目が覚めた時には、今のように正気を失ってました」
涼香は、深く息をついた。これで、彼女の話はおしまいだった。藤田は、最後に力を込めて彼女の手を握る。
「話してくれてありがとう、涼香ちゃん」
「藤田さん……。私も、話せてよかった」
力が抜けたように目を伏せる涼香に、阿蘇も頭を下げた。
「重要な情報を教えてくださって、本当にありがとうございます」
「あ、はい。少しでもお役に立てたなら……」
「十分過ぎるほどです。あなたのおかげで、判断材料が増えました」
そう言うと、阿蘇はスマホで電話をかけ始めた。――電話の向こうにはきっと、難しい顔をした彼の兄がいるのだろう。藤田は阿蘇を眺めながら、先ほどの涼香の話について考えていた。
あしとりさんは、他人を食べることができる。
ならば、それを繰り返していけば、景清は自分の体を失った認識に囚われずに済むのではないか?
――あくまで、時間稼ぎにしかならないが。それでも、あんな結末を辿るよりは百倍いい。
甥への憂慮に眉間に皺を寄せる藤田を、開けっ放しのベランダから覗いた青白い月だけが、静かに見ていた。
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