第12話 あしとりさんの夢

 僕は夢を見ていた。

 温かい靄に包まれているような、心地よい夢。できることなら、ずっとここに立ち尽くしていたい気持ちになってくる。


 ふと、少し遠くに誰かの姿を見つけた。

 それは清楚な格好をしたミディアムヘアの女性で、にっこりと微笑んでいるようだった。彼女は手を後ろに回し、足はきちんと揃え、僕の様子を伺うように少し体を傾けている。


 ――これは、夢だ。


 少しずつ、頭がクリアになってくる。そうだ、僕は一度この夢を見ている。

 きっと、あれがあしとりさんだ。満面の笑みで、お行儀よく足を揃えた、噂通りの姿をしている。

 しかしそうなると、遊ぶのが大好きとはどういう意味なのだろう。この距離では、話すことすらできないではないか。


 ふと、記憶から消えていたはずの“ 引き寄せの呪文 ”が脳に蘇る。そうだ、これを使えば――。


 僕は、自分の思考の違和感に全く気付かず、不気味な音を持つ呪文を唱えた。


 その次の瞬間。


 今まで遠くにいた彼女が、凄まじい速度で僕の鼻先寸前まで寄ってきた。生温かい息が顔にかかるほど近くで彼女を見た僕は、そこでようやく理解する。


 彼女は笑っていたのではない。

 口が耳まで裂けているのだ。

 彼女は手を後ろに回しているのではない。

 肩から先が削がれているのだ。

 彼女は足を揃えているのではない。

 一本足なのだ。


 生々しい傷跡から流れるおびただしい量の血が、白い床を汚す。およそ生きている人間ではありえない姿に、僕は足がすくんで一歩も動けないでいた。

 ――あれ。そもそも何故僕は、呪文を唱えたんだ?引き寄せの呪文なら、当然こうなることは予想できたはずなのに。


 混乱した僕を嘲笑うように、彼女――あしとりさんは、裂けた口をガパリと開けた。


「クレルノ、ナーンダ」


 まるでノイズがかかったような聞き辛い声に、僕は更に混乱した。

 くれるもの?

 それは、アンタにあげるものか?


 あしとりさんは、首をカクンと横に倒すと、媚びるように目を細めた。


「クレルノ、カラダ、ノ、イチブ」


 ゴロゴロとした気味の悪い低い声に、ヒッ、と小さく悲鳴を上げる。しかし、一方でどこか冷静な頭は、この状況を分析していた。……なるほど、これがあしとりさんに食べられるという意味なのか。ここで腕や足を差し出すと、もう二度と自分ではそれが認識できなくなってしまうのだ。


 だったら、認識できなくても支障が少ない部位を言えばいい。

 僕は、精一杯の虚勢で、彼女を睨みつけた。


「……僕の、左手の小指の爪を持っていけ」

「ハイ」


 あしとりさんは、頭を上に向け、上半分が取れてしまうのではないかと思うほど口を大きく開いた。一瞬動きを止めた後、その反動を利用し、彼女は僕の左手に食らいつく。

 粘着質で気持ちの悪い温度の口内で、小指の爪が剥がされる激痛と、耳につく嫌な咀嚼音が僕に襲いかかった。


「――ッ!!」


 僕は、絶叫した。









「ああああああ!!」


 僕はベッドの上で飛び起きた。全身汗だくなのに、引いた血の気のせいで寒気すら感じる。


 ――あしとりさんだ。やはり、僕にはあしとりさんが憑いていたのだ。


 もはや絶対的な事実に眩暈を覚える。だが、 ひとまず夢から覚めたのだ。あれこれ考えるより、今はまず水でも飲もうとベッドから降りようとした時だった。


「うっわあああああ!?」


 ベッドのすぐ横でこちらを凝視していた曽根崎さんと目が合い、ひっくり返ってしまった。


「な、な、なんでアンタがここに!?」

「忘れたのか。ここは私の家だ」

「それは覚えてます! どうしてこんな所に曽根崎さんがいるんですか!?」

「言っただろ。あしとりさんが夢に出ている最中を客観的に観察するため、君が寝ている様子を見なきゃいけないって」

「え、じゃあ僕、一晩中見られてたんですか? こっわぁ……」


 そういやこの人、眠れないひとだったな。いや、それ差し引いても、寝てる間中見られてたとか怖すぎるだろ。

 僕の心臓の動悸が、あしとりさんによるものか曽根崎さんによるものかわからなくなっている中、彼は平気な顔して尋ねてきた。


「それよりどうした。あしとりさんが出たのか」

「は、はい。でも、一度水を飲んできてからでもいいですか?」

「ダメだ。そうして間に、また記憶が薄れる可能性が高い」


 そう言って曽根崎さんは僕を引き止める。そういえば、以前の僕はあしとりさんの夢を見たことをすっかり忘れてしまってたな。納得し、僕はベッドに腰掛ける。

 曽根崎さんもその隣に座ると、一段と濃くなっている目の下のクマを僕に向けた。


「単刀直入に聞こう。何が起こった」

「……あしとりさんに、襲われました」

「襲われた?」


 曽根崎さんは驚きに目を見開いた。


「早すぎないか? 今まではもう少し時間がかかっていたはずだ」

「……引き寄せの呪文を唱えたんです」

「なんで」

「わかりません」

「……そうか。クソッ、あの男が絡んでる時点で想定すべきだったな。すまない」

「いえ。では、続けますね」


 目を閉じうつむく曽根崎さんの謝罪を遮る。そうでもして早く喋ってしまわないと、夢を忘れてしまいそうだったからだ。


「……それまで遠くにいた女性は、一瞬で僕の目の前にやってきました。そして、くれるのなんだ、と質問してきたんです」


 僕は少々雑な説明を、早口で言い切った。

 それでも曽根崎さんは理解したようで、その上で疑問を口にする。


「くれるのなんだ、とは?」

「彼女が言うには、体の一部だそうです」

「……それで君はどうしたんだ」

「左手の小指の爪を差し出しました」


 そこで、左手の先に痛みが走った。手を持ち上げて確認すると、小指の爪があった場所からダラダラと血が流れていた。

 このままではシーツが汚れてしまう。僕は慌てて、曽根崎さんに言った。


「すいません、絆創膏か何かありませんか」

「あるが……。なぜだ? 怪我をしたのか?」

「はい、夢であしとりさんに食べられた際に左手の爪を剥がされて、今血が出てるんです」

「……景清君」


 曽根崎さんに手を見せてやると、彼は立ち上がり、ベッドの下から救急箱を取り出した。珍しいとこにしまってるな、この人。そこから絆創膏を取り出しながら、彼は僕の顔を見た。


「……わかっているとは思うが、そこから血など出ていない。勿論、爪も無くなっていない。それはあしとりさんが見せるまやかしだ」


 そう言いながらも、彼は僕の小指に絆創膏を巻いてくれた。――ああ、そうだ。確かに僕も、夢の中であしとりさんのカラクリを理解していたはずだったのに。

 わかっているのに、絆創膏のおかげで傷が見えなくなると少しホッとした。


「……すいません。あまりにリアルな幻覚で、忘れていました」


 だが、未だ僕の小指は、ずくずくと疼くような痛みと熱を持っている。これが、まやかしだというのか?曽根崎さんが僕を安心させる為についている嘘じゃないのか?

 だけど、曽根崎さんの目はずっと真面目だ。


「……嘘じゃないんですね」

「当然だろ」


 彼は断言した。なら、もう信じるしかない。これ以上この話をしたくなくて、僕は話題を変えた。


「……この一晩で、何かヒントは掴めましたか」

「君も同じだろうが、あしとりさんに襲われた人が、なぜ体の一部を認識できなくなるかは理解できたよ」

「あしとりさんが夢の中で食べてしまうんですもんね」

「そして、君の認識ではリアルにあしとりさんに食べられ、痛みを感じるんだったな? ならば、今までの罹患者は壮絶な拷問を受けていた事になる。あしとりさんの管理下から離れても、精神に異常をきたしたままなのは当然だ」


 それはつまり、僕の未来の話でもあった。言いようのない恐怖にかられたが、歯を食いしばって耐える。

 そんな僕の様子を知ってか知らずか、曽根崎さんはサラッと耳を疑うような発言をした。


「……まあ、これであしとりさんを退散させる方法も見えたし、あとは君達罹患者が失った部位をどう取り戻すかだな」


 え、なんすかソレ。

 今えらくアッサリ言いましたけど、ちょっと。


「退散させるだけなら、景清君の爪は二度と返ってこない。やはり直接叩く必要があるか……」

「待って待って待ってください!」

「なんだ」

「あ、あしとりさんを退散させられるんですか!?」

「そりゃあ君、これぐらい小学生でもわかる問答だろ」


 最初は怪訝な顔をしていた曽根崎さんだったが、みるみるうちに可哀想な子を見る目になった。


「まさか君、わかってないのか……?」

「おおおお!? 悪かったですね、わかってなくて!」

「いや、無理もない。君は拷問を受けた直後だ。あまりのことに脳の働きが十分の一以下に落ちていても仕方ない」

「ほんと腹立つ人ですよね、アンタ。いいから教えてくださいよ」


 苛立つ僕に、曽根崎さんは頷く。そして、僕の頭を指差した。


「――頭の中のあしとりさん、だよ」

「……はい?」

「くれるのなんだ、とそいつに言われた時の回答だ。藤田君が言うには、虫は頭から出てきたんだろ?ならそう答えれば、脳に巣食っているあしとりさんはあしとりさんを食べてくれるという寸法だ」

「いや、それって矛盾してません?」

「してるな。だから、退散するんじゃないかと考えている」


 ――そんな簡単なものなのか?

 僕は呆気にとられたが、考えれば考えるほどこれ以上の最適解は無い気がしてきた。


「だが、それだけじゃダメだ」


 しかし曽根崎さんは首を振った。


「退散させるだけなら、あしとりさんは無傷のままだ。すぐ他の人間に乗り移ってしまうだろう。加えて、こんなシンプルな手が何度も有効とは思えない。チャンスは一回と考えるべきだ」

「なら、僕はまたあの夢を見なきゃいけないんですか」

「そうはさせない。君が次に夢を見る時が、あしとりさんの最後だよ」


 不安だ。不安で仕方がない。

 だけど、信じて足掻くしか、僕らに残された手はないのだ。


「――今日が、正念場だぞ」


 夜明けの光が、曽根崎さんの横顔を照らしていた。

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