第8話 選ぶのならば
曽根崎は、事務所にいた。パソコンのキーボードをカタカタと打ち鳴らし、時折手を止めては画面を凝視する。
そして、温かいお茶を淹れてきた男に頭を叩かれ机に昏倒した。
「何するんだ、忠助」
「さっきから呼んでるだろ。飯だ」
「後でもいいか?」
「三十分前にも聞いたぞ、それ」
「……そうか?」
「いい加減食え。昨日から何も食べてないだろ」
阿蘇は憂いに眉を曇らせながら、お粥を差し出す。しかし、曽根崎はそれには目もくれず、腕を組んでまた何やら考え込んでいた。
――俺だと、こうなるんだよなぁ。
うんざりするが、食べさせないわけにもいかない。阿蘇は曽根崎の頭を後ろから掴むと、口を上に向けお粥を流し込んだ。俺は親鳥か。いや親鳥のがまだ楽だわ。雛鳥はちゃんと口開けるから。
「もごふっ!」
「はい飲んで飲んでよいしょー」
「まはっふ!」
「クソ兄の、ちょっといいとこ見てみたい、ハイよいしょ」
「ふびぃ!」
なんとかある程度胃に収めることに成功し、一息つく。曽根崎は、お茶を一気飲みしてまたパソコンにかじりついていた。
元々生活能力が無い人間ではあったが、ここ数年でそれはどんどん悪化していた。しかし、それでも景清君がアルバイトに来てから、多少はマシになっていたと思ったのだが――。
阿蘇は、曽根崎が景清を近くに置く理由を思い返す。あくまで自分の考えだが、多分当たっているのだろう。何故なら追及した時に、何も言わない曽根崎の顔から色が消えたからである。
まあ、こんなことを思っていても仕方ないな。
阿蘇は、食器を流しに運ぼうと腰を浮かせた。すると突然、曽根崎が歓声を上げてパソコンにしがみつく。
「よし! あった! 見つけたぞ!」
なんだなんだ。
喜ぶ曽根崎の後ろからパソコンの画面を覗く。そこには、SNSのアカウントが一つ表示されていた。
「何してんだよ」
「やっと朱美さんのアカウントを特定したんだよ! あー、疲れた。時間がかかった」
「朱美さんって、あの殺された女性か」
「そうだ。彼女、本名で登録してなくてな。よし、これでまた一歩前進だ」
そう言って、またパソコンの画面を穴が空くほど見つめ出した。しかし、その嬉々とした様子は、すぐに消え去ることとなる。
「――バカな」
一言呟き、曽根崎はマウスを動かす。何度も何度も同じ箇所を見ては、口の中でブツブツ呟いている。そのただならぬ姿に、阿蘇は何か嫌な予感がした。
「兄さん」
思わず彼を呼ぶ。今ここで声をかけないと、二度と彼に言葉が届かない気がしたのだ。
曽根崎は阿蘇の呼びかけにハッと正気に戻ると、スマホを取り出し電話をかけ始めた。
「兄さん、どうしたんだ。何があった」
曽根崎の顔は笑っている。つまり、何か悪いことが起こっているのだろう。
曽根崎は鳴り止まないコール音に舌打ちをすると、取るものもとりあえずドアに向かって早足で歩いていった。
「――またあの男が関わっている」
慌てて追いかけてきた阿蘇に、曽根崎は漆黒の瞳を鋭く細めながら言う。それに答える阿蘇の声も、鋭く尖っていた。
「……あいつが?」
「朱美さんは、生前その男から黒い封筒を受け取っていた。彼女はそれを使って、母親に復讐しようと企てていたんだ」
「待てよ兄さん、ちゃんと順序立てて話してくれ。――いや、いい。それどころじゃないんだな? どこへ行けばいい」
「忠助は本当に察しがいいな。私が案内する場所に車を走らせてくれ」
曽根崎は震えていた。しかしそれは、恐れではなく怒りからだと阿蘇にはわかった。
「――景清君に、連絡が繋がらない」
一言、曽根崎は阿蘇に伝える。だが彼にはそれで十分で、二人は何も言わずに車に乗り込んだ。
法定速度をしっかりと守った一台の車は、夕焼けに染まる街に飲まれていった。
僕は、何を選んでもいい。
柊ちゃんの言葉は優しく、強いものだった。きっと、彼女が生きてきた中で、紛れもなく心の支えになってきた言葉なのだろう。
そんな大切なものを、僕はどう受け取ればいいのか。
考えても正解がわからずに、とぼとぼと歩いていた。
「尾行……向いてなかったな」
いや、尾行してる所を尾行されただけでは、向き不向きはわからないか。所詮お手伝いさんである。僕は探偵ではない。
なんだか僕は、曽根崎さんの事務所でアルバイトを始めてから、えらく自信をつけてたんだな。以前の自分であれば、尾行しようなどと考えもしなかっただろう。
僕はやはり、曽根崎さんに言われた通り大人しくしておくべきだ。彼が危ないと言うのなら、素直に従い学業にでも専念しよう。
そんで後で嫌味の一つでも言ってやるんだ。多分、あの人は気づかず流すんだろうけど。
つらつらと考えながら歩いていると、気づけば知らない道に来てしまっていた。辺りをキョロキョロ見回すが、見覚えのあるものは無い。
まあ、来た道を辿れば帰れるし、何ならスマホに地図アプリも入っている。特に心配することは無いが……。
しかし視線を元に戻した時、そこに現れた光景に腰が抜けそうになった。
「あなたは……!」
僕の目の前に立っていたのは、昨日封筒を渡してきた黒い男。彼は目深に被った帽子の下で、低い笑い声をたてていた。
「――曽根崎のお役に立ちたくはないですか?」
男の口から紡がれた名前に、握りつぶされるような痛みが胸を走った。
――役に立ちたくはないか、だと?
僕は無意識の内に、ポケットにねじ込んでいた黒い封筒に指先を触れさせていた。
男はくるりと背を向けると、足音一つもたてずに歩き出す。
「ついてきてください。案内してあげましょう」
その言葉に僕は、ふわふわとした夢の中を歩くように、彼の姿を追って足を踏み出した。
これはダメだ。まずいことになる。
頭では分かっているのに、僕の中に根を張る何かが、前へ前へと進ませる。
――お前は結局、その身を捧げることでしか、役に立つことなどできないんだ。
未だ僕を縛る呪いの声が、脳内で反響する。
やがて、男はあるマンションの前で立ち止まった。そして呪文を唱えるよう、ジェスチャーのみで促す。
僕は、ポケットの中でしわくちゃになった黒い封筒を取り出した。
「さあ、今こそ彼の役に立つ時です」
封筒が開かれる。
中から取り出したのは、銀色の文字で書かれた、あしとりさんを退散させる呪文。
ダメだ、いけない、まずい、やめろ。
僕は選ばなければ。彼女に言われたように、僕は。
選ぶのか?
誰を?
今、誰かを選ばなければならないとしたら、僕は誰を選ぶ?
――少なくともそれは、僕であってはならないはずだ。
僕は、震える声でその呪文を口にした。
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