第18話 四人分の料理

 あの怒涛の夜から、二週間が過ぎた。


 文学部棟からの謎の出火と、筆野教授と高城准教授が行方不明になった事件は、それなりにニュースとなった。だけど、時々学生の噂に上がるくらいで、僕の周りでの目立った変化は特に無かった。

 あの時に見たものも、なんとなく脳に靄がかかったようで、今となってはよく思い出せない。だけど、それで良かったと思う。


 三条とは相変わらず友達で、よく一緒に昼飯を食べるようになった。大江さんも元気にしているようで、今は受験に向けて勉強しているということだ。色々頑張ります、と気合いが入った目を三条に向けて言っていたらしい。本当に頑張って欲しい。あと三条、お前はそろそろ気づけ。


 曽根崎さんは、柊ちゃんの雑誌で連載を始めた。最初こそ、そこそこ大ごとになった事件を記事にして大丈夫なのかと心配したが、どうも小説形式にして載せるらしい。少し読ませてもらったら、僕はバインボインのミニスカセクシーな女助手になっていた。テコ入れが必要なのだと言っていたが、アンタの趣味入れただけじゃねぇのか。僕は彼の目の前で雑誌を握り潰した。


 平和である。


 だから、僕は今日も曽根崎さんの事務所に行く。スーパーで足りない食材を補って、頭の中で何を作ろうか考えながら、自転車で彼の元へ向かう。


「どうも曽根崎さん、来ましたよー」


 そう挨拶をしながら、ドアを開けた時だった。


「このクソ兄があああ!!!!」

「やめろ、やめて、当たったら死ぬ」

「一回!! 死ね!!」

「うわ!」


 阿蘇さんが曽根崎さんに襲いかかっていた。阿蘇さんは拳を握り曽根崎さんをぶん殴ろうとするが、曽根崎さんはそれを紙一重でかわしている。

 呆気にとられてその光景を見つめていると、ドアの死角に立っていた人に声をかけられた。


「あら、景清じゃない。バイト?」

「柊ちゃん」

「シンジの原稿取りに来たんだけど、この有様でねー……。こいつらの兄弟喧嘩、長いのよね。やんなっちゃう」

「これ兄弟喧嘩なんですか」

「そうよ。怒ってる理由はわかんないけど、まあシンジが悪いんでしょうね」


 長い髪をサラリと手で梳きながら、柊ちゃんは言った。どんだけあの人、信用無いんだ。

 この間とは違って割って入ると怪我をしそうだし、僕は大人しく傍観することに決めた。

 顔面に飛んできたパンチをしゃがんで避け、椅子を盾にする曽根崎さんを見ながら、柊ちゃんは言う。


「ま、そんなとこも嫌いじゃないけどね、ボクは」


 その口元には、柔らかな笑みが浮かんでいた。おや、曽根崎さんに対して、こんな好意的な人は珍しい。しかも、相手はあの柊ちゃんだ。


「曽根崎さんを評価してる人、初めて見ました」

「別に評価はしてないわよ。嫌いじゃないって言ってるだけ」

「……最初、柊ちゃんからの電話を受けた時、僕、曽根崎さんの彼女かもと思ったんですよね」


 ぽつりと言う。勿論、雑談の延長線上の話題だ。

 だから、隣を向いた時、この世の終わりを迎えてもしないだろう凄まじい嫌悪を浮かべた柊ちゃんを見て、僕は喉の奥から変な声を出してしまった。


「……この、ボクが、シンジの、彼女、ですって?」


 ゆっくりと言葉を区切りながら、彼女は僕に顔を近づけてきた。怖い。思わず後ずさりするが、すぐ壁にぶつかってしまった。


「ち、ちちち違うんです! ほんと、柊ちゃんみたいに綺麗な人と思わなくて、いや、電話口から綺麗な気配はしてたけど、ここまでとは」

「あんまりふざけてると、その口縫い合わせるわよ?」

「すいませんすいません!! もう二度と言わないし思わないです!!」


 悲鳴のような僕の謝罪に、喧嘩をしていた二人が同時にこちらを向く。阿蘇さんは思い出したように曽根崎さんに頭突きを一発くらわしてから、こちらに来てくれた。


「どうした柊。また告白でもされたか」

「違うわよ。この子、よりによってボクとシンジが付き合ってるって思ったんですって」

「柊と兄さんが?」


 一瞬の真顔の後、阿蘇さんは思い切り吹き出した。体を曲げて腹を抱え、無言で震えている。多分笑っているのだろう。

 一方、離れた所で話を聞いていた曽根崎さんも、不愉快そうに口をひん曲げて歩いてきた。


「景清君、勘違いも甚だしいな。私と柊ちゃんが恋仲になるはずないだろう」

「ええまあ、今ではそう思うんですけど……」

「ああ、違う違う。好みの問題だけでは無くてだな」


 曽根崎さんは、柊ちゃんを指差し、あっさりと言ってのける。


「彼女は、女性しか好きになることはないんだ」

「ああ、なるほど」

「あと、心は女性だけど体は男性」

「…………うん?」


 ううん?


「つまり彼女は、トランスジェンダーであり、レズビアンなんだ」


 ほおおおおおおへええええええ。

 僕は驚きのあまり、目を見開いたまま固まってしまった。

 柊ちゃんは、鬱陶しそうに片手を振る。

 

「ま、もしシンジが女の子だったとしても、ボクはお断りだけどね」

「私だって君みたいな人は願い下げだ。四六時中ピーチクパーチクされようもんなら、不眠症に拍車がかかるよ」

「あら、言ったわね。通報案件面ぶらさげて生意気な」

「そっちこそ美人だから何だというんだ。三日もすれば相手の鼓膜が破れるぞ」

「お生憎様、ボクってば尽くすタイプなの。見られなくて残念ね、一生クヨクヨなさい」

「ありがたい事に全くそそられないな。早く君の騒音に付き合ってくれる子の所に帰りなさい。そんな奇特な子がいればの話だが」


 ……今度はこっちで喧嘩が始まってしまった。これもこれでとりなす気にはなれず、ひとまず眺めることにする。

 そうしていると、静かな爆笑から回復した阿蘇さんが、横から顔を出した。


「やっぱ景清君は最高だな」

「やめてください、ほんと」

「言ってなくて悪かった。驚いたろ」

「いえ、驚きはしましたけど、別にわざわざ知らされるようなことでもないですしね」

「そうか」

「……柊ちゃんはわかりましたけど、曽根崎さん側にも柊ちゃんを好きにならない理由はあるんですか?」

「さあ。でも兄さんが誰かを好きになる所が想像できない」

「確かに」


 あの人、何か足りないんだよな。共感力とか、感動する心とか、その辺りのものが。

 これでは、彼にお嫁さんが来てくれる日はまだまだ遠そうだ。まあそうなってしまえば、僕の割の良いバイトが無くなってしまうのであるが。

 ぼんやり考えていた僕だったが、阿蘇さんに肩を叩かれ現実に引き戻された。


「景清君、よかったら飯作るの手伝おうか?」

「あ、ありがとうございます」

「何作る気?」

「親子丼を作ろうと思ってたんですが、せっかく阿蘇さんとご一緒できるなら、簡単な料理を習いたいです」

「ああ、いいよ。そんじゃ、冷蔵庫の中見てから考えるか」


 まだ言い合いをしている二人を置いて、僕と阿蘇さんは部屋を後にする。

 ――さあ、四人分の料理となれば、作り甲斐があるときたもんだ。

 賑やかな事務所が、なぜか無性に嬉しかった。




 第2章 完

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