第16話 どうせ死ぬなら
ようやく、僕は文学部棟の筆野教授の部屋の前にたどり着いた。全速力で走ってきた為か、息は切れ、肺は痛む。壁に手をついて、呼吸を整えた。
――ここに、曽根崎さんがいるはずだ。
しかし、何の物音も無く、中で二人が話している様子は全く感じられない。それどころか、明かりもついていないではないか。
僕、推理を間違えたかな。
うわ、だとしたら恥ずかしいな。阿蘇さんにドヤ顔で語っちゃったよ。
少し拍子抜けしながら、ドアをノックした。
「すいません、筆野教授。竹田です。いらっしゃいませんか」
やはり何の音もしない。まあここまで来たのだし、ちょっとぐらいはいいだろうと、ドアノブに手をかけた時だった。
「……景清君か?」
ドアのすぐ向こうから声がした。
「曽根崎さん?」
「いかにも。私は曽根崎だ」
ああ、このちょっとウザい返しは曽根崎さんだ。ホッとしながら、ドアを開けようと手に力を込めた。
「ダメだ、開けちゃいけない」
しかし、向こうから強い力で押し返される。なぜだ?そういえば、曽根崎さんの声も少し弱々しい気がする。
――嫌な予感がした。二の句を継げないでいると、曽根崎さんの疲れたような声がドア越しに聞こえた。
「今、ここに黒い手が来ている」
その言葉に、全身の血の気が引いた。手が震え、足がすくむ。
あれが、来ているというのか? ここに? 僕の正気を刈り取り、高城准教授を握り潰した、あの手が?
恐怖に黙り込んでしまった僕に、曽根崎さんは言う。
「……その様子だと、やはり倉庫に現れたんだな。すまなかった」
「曽根崎さん、早くそこから出てきてください! 逃げなきゃ……!」
「できない。この部屋は、今、結界になっている」
結界? なんだそれは。それが曽根崎さんが出てこられない事と関係あるのか。
「結界が作用している間は、黒い手をここに留められる。だが、ドアなり窓なりを開けてひとたび結界を破ってしまえば、たちまち手は外に出てしまい、外で欲望の限りを尽くすだろう」
「そんな……」
「幸い、あの黒い手の目的は、ブラックだ。今は筆野教授に夢中になっているからか、私の姿は眼中に入っていない」
曽根崎さんは淡々としている。――やはり、筆野教授が黒幕だったのか。そして、どうやら高城准教授と同じ運命を辿ってしまったらしい。
「可哀想にな。望んだ神に殺されるならまだしも、このような終わりを迎えるなんて」
こんな状況にも関わらず、むしろ憐れむように彼は言った。……ちょっとこの人、呑気すぎないか?少しずつ、恐怖よりオッサンへの怒りが湧いてくる。
「曽根崎さん、どうにかその黒い手を追い返す方法は無いんですか!?」
「無いな。召喚の手順はあるが、元に帰す方法は書いていない。黒い手がこの場所に興味を無くしてしまえば話は別だろうが……」
「このままだと曽根崎さんまで死んでしまいますよ!」
「死ぬなあ」
なんっで他人事なんだアンタ!
「もういい! ここ開けますよ!」
「いやいや開けるなって。君まで死ぬぞ」
「構うかよ! 出て来い!」
「君どころか外の人間が軒並み死ぬかもしれん」
「それは困る!」
「だろ。まあ結界さえ壊さなければ、黒い手は中を破壊し倒して満足し去っていくだろうから、いいんじゃないか」
だけど、それだとアンタが死ぬんだろ! 腹が立って、思わずドアを拳で殴った。
ていうか、どうしてそんな落ち着いていられるんだよ!慌てろ!
「アンタ、死ぬのは怖くないんですか!」
「怖いよ」
「じゃあなんで!」
「これは私の行動のツケが回ってきたようなもんだ。ともすれば、今回私は、景清君らの命を奪ってしまうところだった」
「……」
「もう、潮時なのかもしれない」
カチリとライターの火がつく音がした。――まさか、この人。
僕は、ドアをガンガン叩きながら怒鳴った。
「やめてください曽根崎さん! 今、ブラックを吸ったら……!」
「これまですまなかったな、景清君。給料は忠助からもらってくれ」
「どうして……!」
まずい。こんなの、いつものミスターエベレスト自尊心こと曽根崎さんらしくない。誰だお前。
もしかして、中で曽根崎さんの正気を揺さぶるような何かがあったのか?
そのせいで、この人は今こんな弱っちょろくなってんのか?
――ふざけんじゃねぇ。
「……つくづく、厄介な人間だな、アンタは」
頭を垂れ、両腕を支えにドアに体を預ける。
こんな時、曽根崎さんが涙を流して感動するような心ある言葉が用意できればいいのに、残念ながら、僕の口から出てくるのは恨みつらみと罵倒のみだ。
「そんな所に引きこもって、顔も見せずにトンズラこく気ですか。そういう中途半端なとこも、阿蘇さん並びに僕がうんざりしてるんですよ」
「……すまん」
「迷惑かけてる自覚があるなら、とっとと出てきてください」
そうだ、出てこい。
アンタほど金払いいいヤツもいないんだよ!
「――どうせ死ぬなら、僕に一発殴らせろ!!」
力任せに、両拳をドアに叩きつけた。
その瞬間、ドアを隔てた先で何かが跳ねる。
数秒の沈黙。
「……景清君?」
それはまるで、初めて僕の存在に気づいたような声だった。
「そこにいるのか?」
「ええ、いますよ」
「早く逃げろ。ここは危険だぞ」
良かった。
彼に気づかれないよう、僕は息を吐いた。
――いつもの曽根崎さんだ。
「逃げるも何も、ブラックの解毒方法が見つかったので、報告に来たんですよ」
「え、嘘だろ? 君いつの間に助手としてそんな腕を上げたんだ」
「お手伝いさんだっつってんだろ。……いいですか? ブラックの弱点は、水です」
「水……」
「はい。今、中はとんでもないことになっているみたいですが、曽根崎さんなら何とかできますよね?」
ドア越しに、曽根崎さんに語りかける。何も見えなくても、曽根崎さんが頷くのが分かった。
彼は、余裕綽々といった様子で僕に言う。
「それじゃあ景清君、しっかり下がってなさい」
「何する気ですか」
「燃やす」
「え?」
「燃やす」
燃やす?
え、何を? なんで?
「文学部はいいな。燃えるものがたくさんあるんだから」
現役文学部生の僕が憤死しそうな暴言を吐き、ドアの向こうの曽根崎さんは動き出す。ライターの火がつく音と、瞬く間にそれが燃え広がる音が聞こえてきた。
ヤバイ。ヤバイヤバイヤバイ。僕は焦りで噴き出た汗を拭うことすらせず、数歩後ろに下がった。
ドアの隙間から煙が漏れている。なんならちょっと熱い。
あの人頭おかしすぎるだろ!!
「曽根崎さん!!」
たまらず叫んだ。なんでこの人、正気に戻ったのにむしろ狂ってんだ!?
いよいよ消防車の出番かと僕がスマホを構えた時、部屋の中から勢いよく水が放出される音がした。
――ああ、そうか。
ここでようやく、僕は曽根崎さんの意図に気づいた。
――スプリンクラーか。
頭を抱えて、僕はその場に崩れ落ちた。この人といると、いくつ心臓があっても足りないかもしれない。
そのままその場にうずくまり、彼が出てくるのを待つ。
やがてドアが開き、全身ずぶ濡れの曽根崎さんが現れた。
「景清君、それ、コスプレか?」
水に濡れて、いつものもじゃもじゃをオールバックにした曽根崎さんが、僕を見て言った。そういや、まだ阿蘇さんに服を借りたままだったな。彼を見上げ、歯を見せて笑ってやる。
「そっちこそ、いつもの頭より男前なんじゃないですか」
言われた側は、僕の言葉を間に受けたのか、満更でも無さそうにニヤリとした。僕は立ち上がり、調子に乗ったその顔を軽く叩く。
「早く逃げましょう。これ以上ここにいたら、マジでしょっ引かれますよ」
「放火と教授の行方不明。仮釈放はあるかな」
「無いんじゃないですかね」
行方不明者は二人。黒い手が何だったかは僕にはわからないし、正直今でも夢を見ていたんじゃないかと思うほど現実感が無い。それでも、僕と曽根崎さんは、いつも通り軽口を言い合いながら、今やもぬけの殻となった部屋を後にしたのだった。
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