第15話 浮かぶ口

 曽根崎の叫びは、言語と呼べるものではなかった。おぞましき、奇妙な音の羅列。それが筆野教授の耳に届いた瞬間、彼女は手紙を取り落とした。


「な……ん……」


 手や足、舌すら痺れたように固まっている。かろうじて動く眼球で曽根崎を捉えるも、最早彼女にできる行動は何も無かった。

 曽根崎は、込み上げる吐き気を堪えつつ、這うように彼女の元へ向かうと、落とした手紙を握りつぶす。


「……これで、君の計画は断たれたな」


 筆野教授は、目の辺りを憎々しげに歪ませた。その顔に、ようやく曽根崎は安堵する。

 ひとまずは、これでいいだろう。足元に転がる警棒も、スイッチを切ってドア付近まで放り投げた。

 景清君らは無事だろうか。今回、恐らく命までは狙われないだろう案件だったから任せたが、思いの外大ごとになってしまった。後で忠助にしこたま怒られるに違いない。

 脳がかき混ぜられるような気持ち悪さに膝をつきながらも、そんな未来を想像する。笑えるほど、平和な光景だ。そこに、私は帰らねばならない。

 まずは何とか立ち上がろうと、足に力を入れた、その時だった。


 筆野教授のいる方向から、声がした。


「……筆野教授?」


 しかし、まだ筆野教授の拘束は解かれていない。彼女は強張った顔のまま、眼球だけ動かして真横を見つめていた。

 その視線の先にあったのは――。


「……口?」


 それは人間の口だった。まるで不思議の国のアリスに出てくるチェシャ猫のように、口だけがポツンと空中に浮かんでいる。その口が、器用に動いて何事かを詠唱していた。

 ――詠唱だと? いけない、止めなければ!


「やめろ!」


 慌てて口に向かって飛びかかるが、難なくかわされる。その口は終わりに口笛を吹いて、呪文の詠唱を完了した。


「クソッ……!」

「久しぶりですねぇ、曽根崎君」


 口が動いて、馴れ馴れしく曽根崎の名を呼ぶ。曽根崎は、その声に聞き覚えがあった。


「やはり貴様か……! なぜ、こんな事をする!」

「そりゃあ、こうなる方が面白いからに決まっているでしょう」


 下品にも上品にも聞こえる奇妙な笑い声に、曽根崎は胃の腑が沸騰しそうなほど苛立ち、言い放った。


「面白いわけあるか。人が死ぬんだぞ!」

「私相手に今更その問答をしますか?なんとも狂気からかけ離れた、常人らしい言葉ですねぇ」


 口は、面白がるように、しかし半ば嘲るように笑った。


「あなたらしくもない」


 その言葉を最後に、また口は詠唱を始めた。周りの空気が震え出し、本がいくつか棚から落ちてくる。――ヤツは、召喚された何かをここに呼び寄せる気だ。


 ということは、あの倉庫で一度その何かが召喚されていたことになる。曽根崎は、自分の浅はかさに愕然とした。


 ――命に関わるような案件ではないなんて、とんでもない。私は、なんて愚かだったんだ。


「そうそう、今回は少し、サービスをしておいてあげましたよ」


 詠唱に重なるように、ヤツの声が聞こえる。


「本来のものより、上位の方を呼んでおきました。そこの彼女にも、喜んでいただけるといいんですがねぇ」

「何を……」

「さあ、そろそろ詠唱も終わります。どうぞ、せいに足掻く様を私に見せてください」


 嘲笑に唇がめくれ上がる。そこに歯は一本も無く、ただ闇が広がるばかりだった。


「――親愛なる、私の玩具オモチャよ」


 轟音と共に、曽根崎は吹き飛ばされた。








 こんなはずではなかった。

 私は、子供の頃からの夢を叶えようと思っただけなのに、どうして、こんな胡散臭い男に邪魔されなければいけないのだろう。

 何故か動かない体をもどかしく思いながら、筆野は屈辱に奥歯を噛み締めた。

 しかし、そこに光明が差した。突如空中に現れた口が、私の代わりに召喚の呪文を唱えてくれたのだ。

 これで、とうとう鵺に会える。私の悲願が達成される。

 喜びと期待を胸に、私は振動する空気の中でいつの間にか自由になっていた両腕を広げた。


 次の瞬間、巻き起こった凄まじい風圧に、私の体は吹き飛び本棚に叩きつけられた。

 ああ、素晴らしい。これはきっと始まりの合図なのだ。目を開ければ、そこに猛々しくもおどろおどろしい鵺の姿があるに違いない。息すらできないほど辺りに濃厚に満ちた花の香りに、顔を上げた。



 ――眼前にあったのは、私の知らない神の姿だった。



 私は、かの神の名を知らなかった。知っていれば、助命を乞えただろうか。膝をつき、涙を浮かべ、その艶やかな指に縋りつけただろうか。

 私と同じく部屋の隅に飛ばされた男に目をやる。男は、呆けたように神の一部を見上げていた。


 ――こんなはずではなかった。

 ――私は、子供の頃からの夢を叶えようと思っただけなのに。


 漆黒の手は妖しく蠢き、私の身を飲み込んだ。

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