第14話 鵺

 そして、時間は一時間ほど前まで遡る。曽根崎は、文学部の講義棟の、とある部屋の前に立っていた。

 ……恐らく、ここで間違いない。あとは、タイミングの問題だ。早すぎても、遅すぎても取り返しのつかないことになる。早鐘のように鳴る心臓を押さえながら、勝手に持ち上がる口角を感じていた。

 ――私を信じろ、なんて言ってしまった分ぐらいは、力を尽くさないとな。

 部屋の中から、ぶつぶつ呟くような女性の声が聞こえ始める。それを合図に、曽根崎は部屋のドアをノックした。


「筆野教授、こんばんは」


 できるだけ鷹揚として見えるよう、いつものように背筋を伸ばし、ゆったりと声をかける。

 部屋の中の声が止む。しばらくして、にこやかな女性がドアから顔を出した。


「あらまあ、曽根崎さんじゃないの。こんな時間にどうされたの?」


 ――わかっているくせに、なあ?

 彼女の背後から立ち上る花の香りに、否応無しに頬が引きつる。


「いや何、少々お話ししたいと思いまして」

「うふふ、嬉しいわ。どうぞ入って」


 部屋の中に足を踏み入れる。部屋に所狭しと並べられた本が、両側から異様な圧迫感を生んでいた。筆野教授は、自身の椅子に座ると、曽根崎を見上げる。


「それで、何のお話かしら」


 その目には、どこか挑発的とすら思える怪しげな光が宿っていた。

 変に言葉を濁すより、単刀直入に言った方がいいだろう。腕を組み、本棚にもたれかかりながら告げた。


「勿論、あなたがしようとしている事についてです」


 筆野教授の目が、柔らかく細められる。


「何のことかしら」

「とぼけないでいただきたい。これの事ですよ」


 ポケットの中からブラックを取り出す。筆野教授は、首を横に振った。


「それ、昨日も見せてくださったわね。何度も言うけど、私はその煙草に見覚えは――」

「おや、なぜあなたはこれが煙草だとわかったんですか?」


 彼女の笑顔から温度が消える。


「……あなたが煙草と言ったんじゃなくて?」

「私は一度も、あなたの前でこれが煙草だと言ったことはありません」

「何となく煙草だと思ったのよ」

「残念ながらこれは、一見しただけでは煙草のパッケージとわかりません。お菓子かもしれないし、クラリネットのリード箱かもしれない。それが非喫煙者であれば、いっそうわからないでしょう。普通であれば、これは煙草かどうか尋ねて然るべきです」

「……その煙草のパッケージ、見たことがあったのかもしれないわ」

「ご存知の通り、これは流通しているものではありません。何よりあなた自身、あの時に見たことはないと断言していたでしょう」

「……」

「もう一度聞きます」


 部屋の中に沈黙が落ちる。構うものか。曽根崎は追い討ちをかけた。


「あなたは何故、これが煙草だと思ったのですか?」


 笑い声が聞こえる。彼女からだ。まるで子供のように、コロコロと筆野教授はおかしそうに笑っている。

 なぜ、こんな状況で笑えるんだ。曽根崎は、手を置いている腕に爪を立てた。


「やっぱり、面白い人ね」


 言葉とは裏腹に、その響きは酷く蔑んだものだった。


「色々言い逃れはできそうだけど、時間も無いことだし、いいわ」

「認めてくれるんですね」

「ええ。煙草を高城准教授に作らせたのも、広めさせるよう仕組んだのも、全て私がやったことよ」

「やはり、高城准教授は傀儡でしたか」

「あれはあれで妙な宗教に凝ってたみたいだったから、都合が良かったの。信仰している神を呼び出せる方法があると囁いたら、諸手を挙げて協力してくれたわ」

「……酷い人ですね」

「そうかしら。高城准教授は嬉しそうだったわよ?」


 まんまと騙されているからこそだろう。しかし、事態はそれで終わらない。既に人が一人死んでいるのだ。

 そして曽根崎には、この死んだ学生の理由に心当たりがあった。変わらず笑う筆野教授を睨みつけ、推測をぶつける。


「……死んだ学生は、さしづめ実験テストといった所でしょうか」

「まあ、どうしてそう思うの?」

「煙草を吸っている人数を考えれば、想像がつきます。あれだけの人数がいながら、症状が出たのはただ一人だった。しかも、彼が体内に溜めていたはずのブラックも消えてしまったときている。ならば、今日あなたが行う何かが正しく作用するか、その為の実験だったと考えるのが当然です」

「……それが本実験で、もう私は目的を達成しているかもしれないわよ?」

「それはありえません。だとすれば三条君を狙う理由が無い。恐らく、倉庫かどこかに依存者を集め、高城准教授と共にブラックの一斉抽出を狙っている――。そんな所ではないでしょうか」


 もっとも、ブラックの抽出をすることで、学生の大量死以外に何が起こるかはわかっていないのだが。

 筆野教授は、ため息をついて足を組んだ。昨日見た穏やかで優しい彼女の姿は、もうそこには無い。


「だとしたら、何?」


 冷えた目の中に、背の高い曽根崎が映る。


「あなたに何ができるのかしら。まさか私を殺して阻止するなんて言わないでしょう?」

「私はあなたと違いますからね」

「じゃあどうする気かしら」

「ひとまず、あなたが何をしようとしているのか、それが聞きたい」


 手に滲む汗がバレないように、曽根崎は腕を組み直した。不敵な笑みは、うまく作れない。歯がゆいな。だが、一秒たりとて隙を見せてはならない。

 彼女は真顔に戻って少し考え、やがてまた笑みを浮かべた。


「――曽根崎さんは、鵺をご存知かしら」


 かかった。


「はい、平家物語に出てくる怪異ですね。猿の顔に虎の手足、蛇の尾を持ち、気味の悪い鳥のような声で鳴くという」

「そう。私は、子どもの頃からこの鵺に心を奪われてやまなかったわ。いつか会いたい、この目で見たいと。そんな時だった」


 彼女は椅子ごと自分の机に体を向ける。そして卓上から、一枚の封筒を手に取った。


「私の元に、一通の手紙が送られてきたの」


 真っ黒なその封筒に、曽根崎は一瞬心臓が止まるほど衝撃を受けた。しかし、筆野教授は、語るのに夢中で彼の異変に気づかない。


「この手紙には、私が待ち望んだ鵺を呼ぶ方法が書かれてあった。一目見た瞬間わかったわ、これは絶対的な事実だって……。勿論、簡単な方法じゃない。鵺を呼ぶには人間の生命――生贄が必要だった。だから試しに、製造してみた煙草を一人の学生に吸わせて、呪文を唱えてみたの。そうしたら、その学生のエネルギーが外部に抽出されたわ。体内のブラックが、生命を吸収してエネルギーに変えるのかしらね。もっとも、抽出したエネルギー自体は術者である私しか見えないし、その時は講義中だったこともあって、何の準備もしていなかったから無駄になってしまったけど……。でも、もう大丈夫。同じ過ちはしない。倉庫にいる高城が呪文を唱えれば、彼ごとエネルギーとして魔法陣上で置換される。そうすれば、そこに鵺が顕現し、私はついに彼に会うことができる……!」


 うっとりと語る筆野教授は、恋する乙女のようだ。しかし、やっている事は悪鬼にも勝る所業である。


「……倉庫に現れたから何だと言うんだ。君が会いに行く間に逃げてしまうかもしれないぞ」

「それは問題無いわ。だって、この手紙には鵺をここに呼び寄せる呪文も書いてあったの」


 彼女はにっこりと微笑んだ。


「私は、鵺に会うの。一目会えるなら、死んでしまったって構わないわ」


 ――なんて迷惑な話だ。曽根崎は、彼女に対する嫌悪に顔を歪めた。


「……さあ、だいぶお話してしまったわ。今頃、高城准教授は痺れを切らしてるんじゃないかしらね。鵺を呼ぶ呪文は、二人いないと完成しないから」


 そう言うと、筆野教授は真っ黒な手紙を手に取った。

 まずい。

 慌てて止めに入ろうとするが、それに気づいた筆野教授がどこからともなく警棒を取り出し、曽根崎に突き付けた。

 警棒の先で、バチリと火花が散る。どうも、電気が流れている特殊なもののようだ。

 動きを封じられた曽根崎は、それでも静かに彼女を諭す。


「……やめろ。君の呼ぼうとしているものは、鵺などではない。もっと禍々しく、冒涜的なものだ」


 負け犬の遠吠えね、と言わんばかりに、筆野教授は首を振った。


「鵺ほど禍々しくて、冒涜的なものがあるかしら?あなたの言っていることが全然わからないわ」


 きっと、あの手紙に召喚の呪文が書かれているのだろう。ならば、あれさえ奪ってしまえば。


「そういえば、あなたって何者なの?ただのフリーライターではなさそうね」

「……ここに呼び寄せる呪文を唱えるのをやめてくれたら、お話ししますが」

「そこまで興味は無いわ。じゃあ、私と一緒に死んでちょうだい」


 不気味な笑みが、彼女の顔全体に広がる。

 ――人並みにできることはやった。本来なら、あとは景清君らが三条君を救出していることを願うばかりである。


 だけど、“ 保険 ”も必要だろう。


 筆野教授の口が動くより早く、曽根崎は叫んだ。

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