第13話 背後に潜むもの

 僕は、目の前に現れた理解の範疇を超えた存在に、魅入られてしまっていた。

 ――手だ。人間の女性のもののような、しなやかな五本指の手。手首から上は、煙幕のようにぼやけていて判然としない。ただ、むせ返るような花の香りが、僕と彼女を包んでいる。

 そんな慈愛に満ちた彼女の手は、大事そうに何かを握りしめていた。その何かから出たものだろうか。漆黒の彼女の手は、ぼたぼたと真っ黒い液体を滴らせ、魔法陣が描かれた床を濡らしていた。


 まるで、全てが夢の中の出来事のようだ。そうだ、こんな美しいものが現実にあっていいはずがないのだから。


 ああ、いけない。阿蘇さんだ。阿蘇さんを探しに来たんだ。僕は、阿蘇さんを探さないと。

 ちょうどあの手の真下に、阿蘇さんの履いてた靴があるじゃないか。なんだ、じゃああそこまで行かなきゃ。


 彼女は、阿蘇さんを放してくれるかな。

 もしくは、僕をその手に抱いてくれるだろうか。


 僕は、彼女に向けて歩き出した。


 しかし、吸い寄せられるように魔法陣に足を踏みいれようとした瞬間、後ろから目と鼻と口を塞がれ、強く引き戻された。同時に、耳元で聞き慣れた声がする。


「景清君、何してんだ」


 その声は、阿蘇さんだった。ようやく、僕は正気に戻る。


「もごふごー!!」

「静かにしろ。あれに気づかれるぞ」


 僕は何度も頷く。それを確認した阿蘇さんが、ようやく僕を解放してくれた。

 ああ、阿蘇さんだ。間違いなく阿蘇さんだ。

 僕は二度とあの手に取り込まれないよう、手の甲を引っ掻いた。痛い。血が滲む。だが、その痛みが僕をより正気に返した。


「ありがとうございました。……僕が言うのもなんですが、無事ですか」

「おう。ヤケクソになったアイツに一回魔法陣に引きずりこまれそうになったけど、なんとかな」


 アイツ、と言いながら、阿蘇さんは巨大な手を親指で差した。恐らく、あの手に飲まれている人物のことだろう。

 

「あれ、一体なんですか」

「わからん。もっとも、召喚した本人すらわかんなかったみてぇだけど」


 召喚した本人にもわからない? どういうことだ。

 僕の疑問を感じ取った阿蘇さんが、一部始終を話してくれる。


「君が三条君を助けに行った後、高城、だっけか? アイツ何度も呪文を失敗してたんだよ。うまくいかない、なぜできないってさ。で、しばらくしてたら魔法陣周りの空気が震え出したんだが、どうも様子がおかしい。そして現れた黒い手に捕まった時、言ったんだ」

「な、何をですか」

「……お前は私の神ではない、と」

「は?」


 私の神ではない。

 つまり、本来呼ぶはずだった神は別にいるということか?

 じゃあ、どうしてその神を呼べなかったんだ?単純に呪文を間違えたのか、それとも――。


「景清君」


 名を呼ばれ、また手で目隠しをされた。同時に、グシャリと何かが潰れる嫌な音と、息苦しいほどの花の香りが広がる。阿蘇さんは僕のすぐ側で、息を飲み、舌打ちをした。

 しばらくしてようやく目隠しを外された時、阿蘇さんの顔は珍しく青ざめていた。

 額の汗を拭いながら、彼は言う。


「……黒い手が、いなくなった」


 魔法陣には、もう何も存在しない。高城准教授はもちろん、滴っていたはずのあの黒い液体さえも。


「ありがとうございました、阿蘇さん」

「いい。兄さんの世話に比べたらこれぐらい」


 だからどんだけ曽根崎さんの世話って過酷なんですか。そう思ったが、ふと曽根崎さんの事が頭に引っかかった。

 そういやあの人、どこに時間稼ぎに行ったんだろう。

 時間稼ぎができる場所など、限られている。この倉庫か、黒い手の主の元か、あるいは……。


 僕はふと閃いた。


「――まだ、他に誰かがいる?」

「誰かが?」


 阿蘇さんが怪訝に目を細めた。僕は腕組みをし、ただの思いつきを何とかまとめて言葉にする。


「……高城准教授に嘘の呪文を教え、煙草を布教させた張本人が、別にいるとしたらどうでしょうか」

「……それは、この倉庫に来ていた人で、か?」

「いえ。もしそうだとしたら、曽根崎さんもここに来ているはずですから」

「……すると何だ。景清君は、今兄さんは事件の黒幕の所にいるって言いたいのか」

「はい」

「……まずいな」


 阿蘇さんは顎に手を当てて悩んでいる。こういう癖が、曽根崎さんとそっくりだ。


「――景清君、兄さんの居場所はわかるか」

「すいません、わかりません」

「そうだよな。クソッ! どうするか…」

「どうしたんですか、そんなにまずいんですか」


 阿蘇さんは目に見えて焦っている。一体どうしたというのだろう。

 やがて、彼は低い声で僕に尋ねてきた。


「……君は、兄さんについてどれだけ知ってる?」

「うさんくさいオッサンってぐらいの理解度です」

「間違ってないが、肝心な事は隠されてるな」

「どういう事ですか」


 阿蘇さんの眉間のシワが深くなる。元々凄みのある顔なので、こうなると鬼神の如き形相になってしまう。

 しかし、僕は怯めなかった。


「曽根崎さんをある一定の環境下で一人にしたら、何かまずいことが起こるんですね?」

「…そうだ」

「それは、例えば僕がいたら起こりませんか?」

「……そうかもしれない」


 阿蘇さんは、目が覚めたように顔を上げた。自分でも今気づいた、といった顔だ。


「……いや、ああ、そうか。だから景清君を……」


 そして何やらブツブツ言っている。なんだなんだと思って見ていると、突然彼は近くにあった椅子を蹴飛ばした。


「あンのクソ兄!!!!」


 物凄い剣幕で怒っている。とても怖い。

 阿蘇さんはその勢いのまま、僕を振り返った。


「景清君! マジで何か思い出せねぇか!? あのクソボケが行った場所!」

「いや、そんなこと言われても……」

「一発ぶん殴らねぇと気が済まねぇ……!」

「お、落ち着いてください! 今はそれどころじゃないです!」

「あー、そうだな。すまん。終わったら殴るわ。クソ」


 荒っぽい人ではあるが、良識のある人なので、恐らく真っ当な理由で怒っているのだろう。だけど、僕には彼の怒る理由が皆目見当がつかなかった。


 曽根崎さんには、僕を近くに置く理由があるというのか?


 ――ならば尚更、僕は曽根崎さんの元に行くべきなのではないだろうか。


「景清君、うちの兄は、大学内でも調査していた。多分、その時に何か気づいたはずだ。心当たりはないか」

「……」


 二人の真似をして、顎に手を当て思い返す。――食堂で会った時、講義棟で会った時、電話をかけた時、研究室に行った時。

 思い出せ。何か違和感は無かったか。

 思い出せ。


「あ」


 そういえば、あの時。

 なぜ、あんな言葉が出てきたんだ?


「……景清君?」

「思い出した……」


 よろけるようにドアに向かう。声をかけようとしてくれた阿蘇さんを片手で遮り、頼み事をした。


「ブラックの弱点が、大量の水だとわかりました。阿蘇さんは、プールに行って他の学生の介抱をお願いします」

「景清君はどこへ行くんだ」

「文学部の講義棟です」

「……そこに黒幕がいるのか」

「はい、恐らく」


 曽根崎さんは、ブラックの弱点までは知らないだろう。知っていたなら、教えてくれていたはずだ。

 だからきっと、窮地に立たされているに違いない。彼の役割は、今回に限り“ 時間稼ぎ ”だったからだ。

 僕の後ろから、阿蘇さんが言った。


「……煙草にしろ、黒い手にしろ、今回の件は君と相性が悪い。俺が行く」

「聞きますが、さっき阿蘇さんが言ったまずい状況は、阿蘇さんがいる環境下でも起きませんか?」

「……」

「起きるんですね。なら、僕が一人で行ってきます。大丈夫、弱点叫んですぐ逃げ帰ってきますよ」


 有無を言わさぬ口調で告げた僕に、阿蘇さんは諦めたように両手を上げた。


「ちゃんと帰ってこいよ」

「はい、いざとなれば曽根崎さんを見捨てても、帰ってきます」


 僕は、振り返って阿蘇さんに笑いかけた。察しの良いこの人には多分空元気だとはバレただろうが、それでも僕はドアを開け、夜の中を駆けて行った。

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