第189話  美酒と冑




 戦いが終わり、アベルはランバニアの側に控えることになった。

 どうしたわけか王女は、やたらと上機嫌だった。

 アベルはこれまで何度かランバニアの素顔、隠されていない心を見つけたような瞬間があった。


 ハーディアへの敵視に近いライバル意識。

 父王イズファヤートへの畏怖。

 失敗すれば全てを失うという恐怖。

 そして、全ての者を利用する態度。


 アベルは気を引き締める。

 いつになく柔和に笑うランバニアだが油断できない。

 こちらに利用価値がある間は重用されるだろうが、そうでなくなれば簡単に捨てられる。

 一つも失敗は許されない。


 危うく殺されかけた戦いの後にはランバニアの接待という困難極まる状況が待ち構えていた。

 なんとか上手くやらねば……。


 ランバニアは葡萄酒を持ってくるよう召使いに命じる。

 気分は果てしなく晴れやかだ。

 作り物ではない本当の笑顔になってしまう。


 実際、午前中の試合だけで観客たちは大興奮している。

 人心を慰撫するという王族の大役を果すことができた。

 イズファヤート王主催の大闘技大会が初日から消沈したものとなれば責任問題どころではない。

 

 これで王宮においても民衆においてもランバニア王女の名は大いに上がるだろう。

 しかも、賭けに勝ち、莫大な利益まで手にした。

 これが喜ばずにいられようか。


 運ばれて来た雪花石膏アラバスタの透けるような杯に赤い葡萄酒が満ちている。

 この際どい賭けに勝ったならば飲もうと、私邸の酒蔵からとっておきの酒を用意しておいた。

 半分ほど飲んだところで隣のアベルを呼びつけ、唇から離した杯を渡す。


「飲んでみなさい。最高の葡萄酒だから」 


 素直に受け取ったアベルは一気に飲み干す。

 味など気にしない態度が、また若々しくて好ましい。

 これが物を知った風な貴族だと、つらつらと過剰に褒めたり粗さがしをしてみたりと煩わしい。


「まだあるわ。好きなだけ飲みなさい」

「えっと、それは……警護の仕事がありますので」

「貴方なら誰が来たところで恐れる必要もないでしょう。勝者は遠慮などしないことね」


 そうして召使いに注がせた葡萄酒をさらに飲ませる。

 ランバニアはアベルの顔を見詰めて、これほど凛々しい男が傍にいる心地よさを感じていた。

 しかし、気になるのは、どこかしら深い憂鬱さを湛えた群青色の瞳だ。

 軽薄とは遥か遠い、いわば女には酷く理解しにくいものを秘めたような印象を与えてくる。


 こういう男に似合う服は……などと考えて、すぐに自分が与えた冑しかないと気が付く。

 アベルにはよく磨かれた鋼の冑こそが素晴らしく映える。服には血が飛び散っているのがお似合いだ。

 他にはありえない。


「ねぇ。アベル。冑を被りなさい」


 よく分からない要求だったが、アベルは素直に言われた通りにした。

 小脇に抱える火喰鳥の羽根飾りが付いたそれを被る。

 うっとりとランバニアは頷いた。

 戦装束しか似合わない男というものがいるそうだが、アベルがそれだと確信する。


 闘技場では、また新しい見世物が始まった。

 辺境で捕えた猛獣に鎖を付けて、引き回すのである。

 二足歩行の巨大な鳥が出てきたかと思えば、次は鰐が現われた。

 

 見たことも無い獰猛な獣を見て観客たちはたいそう驚き、歓声を上げた。

 とはいえ、どちらかというと幕間の出し物に類するものなので、この間に闘技場で売られている食べ物を買いに行く者も大勢いる。

 時間は早くも昼時だった。

 腹を空かした者たちが魚を油で揚げたものや、水で薄められた葡萄酒を飲み食いするのである。

 

「アベル、あれ豹よ。それも雪豹という珍しい種類なの」

「深い森にいるそうですね。虎なら見たことがありますけれど、あれは初めて見ます。綺麗だな……」

「ふふふ」


 猛獣の見世物が終わると次は踊り子たちが舞を披露する。

 笛や太鼓の楽し気な楽曲が聞こえていた。

 幸福な気分のままランバニアは杯を重ねる。すでに五杯目だった。

 人生で何度目かというほど美味に感じられて、いくらでも楽しみたい。

 さらに酒杯を頼むと秘書のダリアが驚いた顔をしている。


「ランバニア様。失礼ですが、ずいぶんとお飲みになられるご様子。午後は御客人もある予定です」

「今日は祝いの日。しかも、わたくしは勝ちました。たまには羽目を外してもいいでしょう。それに半分はアベルが飲んでくれますから、大した量ではなくてよ」


 主命である以上、断れないダリアは恭しく酒杯を用意する。

 アベルは内心、途惑う。

 さきほどからランバニアが飲む葡萄酒は必ずアベルに渡されて、杯にきっちり半分残っていた。


 王女が奴隷と一つの杯を分かち合う、というのは世間の常識からは考えられないことであった。

 とはいえ逆らうわけにもいかず、ひたすら命じられるまま飲んでいた。なんだかやたらと薫り高い葡萄酒だったが落ち着いて飲めるはずもなく、たいして美味くも無かった。


 傍目からだと王女は酔っている風には見えなかったが、所作はやや奔放になってきた。

 姿勢の崩し方や座り方に、より艶やかさが増している。

 大輪の薔薇に飾られた白絹のソファでそうしているランバニアは、むしろ大国の王女らしかった。


 やがて王族席を訪れる者がある。

 アベルも見覚えのある男だった。

 いじけた尊大さを顔に浮かべた人物で、頭には金冠を被っている。

 マカダン藩国の王子プラセムだ。


 やたらと自尊心に満ちた、いかにも藩王の子弟という様子ではあるが、イズファヤート王には情けないほど圧倒されていた。

 まるで鼠と獅子ほどの違いだった。 


 ダリアや召使いたちが丁重に頭を垂れてプラセム王子を迎え入れる。

 ランバニア王女は席を立ち、それらしく応対するが、やはりどこかしら相手を軽んじている態度が透けて見えた。

 当の王子は少しも気が付いていないが。


「ランバニア様。本日も素晴らしく麗しゅうございますな。闘技場はランバニア様を湛える声で満ち溢れていますぞ。なんという人気なのでしょうか」

「午前の試合はとても楽しいものでした。たくさんの剣闘士や奴隷が死ぬまで戦って、その勇敢さと悲壮さに民どもは喜びましてよ。プラセム王子殿は、もう少し早く訪れるべきでしたわね」

「いやはや。それは惜しいことをしましたな。しからば、これから我がマカダンが用意した戦奴の戦いをご披露させてくだされ。午前の試合に負けないような面白きものをご披露いたしましょうぞ」

「ええ、期待していますわ」


 熱に浮かされたような、それでいて貧相な笑顔をさせたプラセム王子を見る限り、ランバニアへの挨拶はお世辞でもないようであった。

 噎せ返るようなランバニアの色香に早くも惑わされている気配すらある。

 

 そうした遣り取りを済ませてプラセム王子は王族席に用意されていた椅子に座る。

 さすがに藩国の王子ということで特別な待遇だった。


 プラセム王子は席に着いてからも忙しなく、あれこれと侍従に命令を出し続けているが、その内容はどうでもいいような些末なことばかりであった。

 対してランバニアは無言のまま悠然と座って、なおかつ優雅である。

 

 見世物が始まろうとしていた。

 今度の試合はマカダン藩国が用意した戦奴と罪人が戦う、というものであった。

 戦いの前には王族席の前で選手たちが並び、お披露目がある。


 戦奴たちは派手な衣装を着させられていた。

 体格も良く、奴隷の身分ではあるが厳しく鍛えられた戦士であるのが見て分かる。


 次に連れてこられた罪人たちは一見してそれと分かるような薄汚れた衣服トゥニカを纏っている。

 観客たちは罪人に対してはどこまでも冷淡で、罵声を浴びせたり食べ残しを投げつけたりという様子だった。


 アベルが哀れな罪人たちの様子を眺めていると、あまりの驚きで小さい声が漏れてしまった。

 見覚えのある者たちがいる。

 

 地下迷宮で共に戦った、元将軍のドルゴスレン。

 それに甥の少年リティク。貴族だったという青年ギャレット。

 あとは地下牢で会った覚えのある老人。たしか政治家とも哲学者とも呼ばれていたソロン・ダイクだ。

 

 老人以外は迷宮探索という過酷な任務をやり遂げた功績により減刑が与えられていたはずだ。

 もっとも、奴隷刑二十年が十五年に減らされる程度のものだったはずだが。

 今度もまた、さらなる減刑のために試合に出たのだろうか。

 詳しい事情は分からないが、ともかくこれから殺し合いをやらされる。


 彼らとは助けなどない異常な環境で、力を合わせて戦った。

 そうして生き延びた仲間たちだ。

 なにより、イズファヤートを憎む同志でもある。

 アベルは重たい溜息を吐く。

 勝ってくれと願わずにはいられない。

 

 最初の試合が始まった。

 四人の知らない罪人が出てくる。

 午前のものと似たようなところがあり、今度は四対四で戦う形式らしい。

 罪人たちの背後では鞭を持った獄吏たちが並んでいる。

 もちろん、戦う気が乏しい者を打って前に進ませるためだ。


 すぐに始められた試合というか、ほとんど罪人らの処刑のような戦い。

 ところが意外と想像したような一方的な戦いではなかった。


 たちまち三人の罪人が傷つき、倒れる中で一人の男が最後の抵抗を見せた。

 激しく攻めていた戦奴の一人が眼を深く突かれて、瀕死の傷を負わされる。

 窮鼠猫を噛むというか、人間そう簡単に殺されはしないという表れだった。

 だが、そうしてしぶとく抗っていた罪人も結局は囲まれ、槍で何度も突かれて血達磨となり、動かなくなった。


 ところがプラセム王子が大仰な仕草で怒りを露わにさせる。

 金切り声で命じた。

 

「なんと、たかが罪人に後れを取るとは! 情けなき奴よ! 治療に値せず、見世物の獣どもに餌として与えよ!」


 瀕死とは言え、まだ生きている戦奴への残酷な処置だった。

 その命令は即座に実行される。

 殺された罪人らの死体ともども、闘技場の隅に鎖で繋がれていた鰐だとか豹や虎に肉として投げ与えられたのだった。

 傷ついた戦奴は迫りくる飢えた猛獣から逃げようとするが、足を噛まれて倒れ、暴れる。

 

「ぷっははは! なんじゃ、あやつは! まだ元気ではないか。そら、逃げてみろ!」


 片足を虎に噛みつかれながら必死に暴れる戦奴を見て、プラセム王子は大笑いしていた。

 アベルは王子に冷たい視線を送る。

 極めて傲慢で残忍な男だった。


 戦奴とは言え義務を忠実に貫いた者へ、あの仕打ちとは。

 それに対してランバニアは全く表情を変えず、喜怒哀楽を感じさせない、いわば貴人としての佇まいを崩さなかった。


 結局、抵抗虚しく戦奴は数匹の虎に貪られる。

 王子はすぐに興味を失い、次の試合を催促した。

 そうして四対四の戦いは再開され、おおむね罪人たちが殺されていく。

 思い切ってアベルはランバニアに聞いてみることにした。


「ランバニア様。教えていただきたいことがあります」

「なぁに、アベル」

「これは公開処刑なのですか」


 ランバニアは少しだけ思案気にした。


「そうねぇ。まずは民衆に罪を犯した者の末路、因果応報を知らしめているわけです。集められたのは特に最低の犯罪者ばかり。貴族を襲った盗賊、脱走兵、王を侮辱した者ら。いずれも死刑か長期奴隷刑のどちらかしかない極悪人ですよ」

「でも、武器を持って戦うことを許している」

「それこそ偉大なる父王様の慈悲や恵みというもの。この闘技大会は民衆のみならず、罪人にすら更生の機会が与えられています。勇敢に戦い勝利できたならば、二度と罪を犯さないと誓って跪くといいわ。もしかしたら減刑、あるいは恩赦があるかもしれません」

 

 アベルは頷く。

 まずは見せしめの意味。

 刑罰の過酷さは民衆を恐怖させるだろう。

 罪人の死んだ数だけ王威は深く刻まれ、叛逆しようなどという考えを失わせる。


 次に、もし罪人が勝ったのならば改めて服従させる。

 王の慈悲に縋る様を見せつけるわけだ。

 そうすればどう転んでも、徹底的に利用できる。

 闘技大会は民衆の喜びのためと銘打たれていても、実際は王のためにだけあるのだった。


 いよいよドルゴスレンたちが送り出されて来た。

 アベルは心中で彼らに声援を送っていた。

 特に、まだ少年と呼ぶのに相応しいリティクの苦境が哀れだった。


 迷宮で話をしたから彼の性格は知っていた。

 素直で利発な子供だ。

 父親の罪に連座し、母親と妹のために逃走を試みて、ついには罪人になってしまった。


 アベルは視力がいい。王族席を見上げていたリティクが驚いた顔をしたあと、礼儀正しく頭を下げたのが見えた。

 どうやらこちらに気が付いたらしい。

 これから命懸けの戦いに臨もうというのに律儀に挨拶をしてくるとは……。

 アベルは変わりそうになる表情を押し殺した。

 

 大きな棍棒と盾を持ったドルゴスレンが罪人とは思えないような堂々たる態度で歩き、先頭に立つ。

 リティクとギャレットが盾と槍。

 ソロンという老人は長槍だけを手にしている。

 相手は屈強な戦奴ばかり、対して少年と老人が混ざった組み合わせだ。


 アベルはそれでも希望的観測ではあるが、ドルゴスレンらが一方的に負けるとは思えなかった。

 元将軍だけあって棍棒の手並みは地下迷宮でも冴えていた。

 ギャレットとて貴族階級が出自だけあって剣術には確かな心得があった。


 ついに戦いが始まる。

 両者は、あっという間に距離を縮めて、ぶつかった。

 アベルは拳を握り締める。

 リティクが殺されるところなど絶対に見たくない。


 ドルゴスレンの動きが目立つ。

 太く大きな棍棒、だが重たさを感じさせないほど軽々と振り、かつ狙いは正確。

 戦奴は振り下ろされてきた棍棒を盾で防ぐが、激しい衝撃でよろめく。

 ドルゴスレンは大盾の扱いも巧みで、防御を活かしながらズンズンと進む。


 戦奴たちも負けじと反撃するが、意外なことにリティクがかなり機敏に動いた。

 素早く駆けて相手の横手に出るや、鋭く槍を突く。

 それが戦奴の爪先を正確に抉った。

 足運びも的確で、上手く敵の攻撃を躱している。


 リティクを援護するギャレットは攻守ともに洗練され、やはり戦奴を押していく。

 意外なのは老人のソロン・ダイクだ。


 ほとんど戦力にならないのではと見えていたが、槍を突く動作は力強い。なんと油断していた戦奴の首を、その穂先が捉えた。

 ソロンは急所を突いて、素早く退く。


 戦奴は頸動脈を刺されたようだった。

 大量に出血しつつも、少しの間は戦う素振りを見せていたが、ふらついて倒れ、二度とは立ち上がらない。


 激しい戦いが終わってみれば、戦奴のうち二名は既に死んでおり、残り二人は降服の意思表示をしている。


 アベルは少年リティクに視線を送る。

 彼は迷宮で極限体験をしたあと、地上に戻ったときにはショックで自力歩行すら危うい様子だった。

 しかし、回復したのちは獄中において鍛錬でもしていたのだろう。

 ドルゴスレンやギャレットに教えられたのかもしれない。


 しばし別れていた少年は格段に強くなっていた。

 アベルは称賛を送りたいぐらいだった。

 しかし、ランバニアの横に控えていてはそれもできない。

 リティクはアベルの視線に気が付いたのか、小さく手を振り、誇らしげに笑っている。


 罰せられるはずの罪人が勝つという状況に観客たちは物凄い罵声を浴びせた。

 堂々と立つ四人の男たちに、食べ残しのパンや果実が嵐のように投げつけられた。


 それまで悠然と座っていたランバニア王女が立ち上がり、王族席から身を乗り出さんほどに前へ出た。

 すると全ての兵士や告知人たちが、一斉に鎮まるよう威嚇行為をする。

 武器で脅された観客たちは、さすがに叫ぶのを止めた。

 ランバニアがよく通る美声をもって語り出す。


「罪人とはいえ、よく戦いました。お前たちは勝利を誰に捧げますか」


 ドルゴスレンが闘技場に響き渡る怒号で答える。


「王道国に捧げる!」


 ランバニアは、ゆっくりと頷いた。


「その心意気や良し。お前たちには、さらに罪を償ってもらいます。それでも王道国と王に敬意を表せますか」


 ドルゴスレンらは四人揃って膝を折り、頭を闘技場の白砂へ擦り付けた。

 完全なる服従の態度だ。

 これには不満げだった観客たちも表情を変える。


 だが、アベルには分かっていた。

 彼らは決して消えない叛逆の魂を隠しているだろう。






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