第188話  愛の天秤に乗る黄金





 戦いに勝利したアベルたちが凱旋していると、最前列の客席から飛び降りるかと思うほど身を乗り出してきた女がいる。

 落下の危険も顧みず、興奮しながら手を振っていた。


 アベルは誰かと思ったが全く見覚えが無い。

 厚化粧のせいで中年なのか、それとも三十歳ほどであるのかもはっきりしない女だ。

 髪を振り乱し、およそ正気とは思えない狂った有様だった。

 アベルはコモンディウスに語りかける。


「なぁ……あれ、なんだ」

「ははは。男漁りの女だろうよ。勝った剣闘士や奴隷を屋敷に招く女はいくらでもいるぞ。まぁ、大抵はとんでもない年増だがな。アベル、お前が誘われているみたいだ」


 悪い冗談だろうと思ったのだが、白粉を顔面に塗りまくったその女はアベルを指さして、次には両手を振りまくり、何事か必死にアピールしているのだった。

 耳を澄ますと、名前を教えてちょうだい、などと金切り声で訴えている。


 ぞっとしたアベルは何も聞かなかったことにした。

 もっとも似たような女はその後も次々と現れたのだが。


 そうして、しばらく進んでいると今度はディド・ズマのいる場所へと通りかかる。

 アベルは身を引き締めた。

 さっきまでの浮かれた気分は吹き飛ぶ。 


 かの醜怪極まる男は黄金の装飾品を体中に巻き付け、贅を凝らした黒檀の椅子に座っていた。

 もとよりイボ蛙に似た顔面は不機嫌なためか、さらに潰れたようになって異様なほど歪んでいる。

 あんなに醜い面相が、この世に二つとあるものかと思うほどだ。


 殺気や瘴気と呼んでも足りないような、狂気すら帯びた視線はアベルを捉えて離さない。

 はっきりと伝わってくる一つの感情。

 憎悪。

 アベルの背筋に怖気が走る。


 そして、ズマは分厚い唇を大きく歪ませ、首を掻き切る仕草をやってみせた。

 処刑宣告、ということらしい。

 それが腹いせの単なる脅しなのか、極めて本気の意思表示なのかは分からない。


――ふん。ズマめ。

  お前もイズファヤートと一緒に必ず殺してやるからな。


 アベルは猛烈な殺意を隠し、小さく笑ってズマの前から離れる。

 さらに闘技場を凱旋していると、またしても会いたくないメンツがいた。

 王宮軍団のラベ・タル将軍、その隣には息子のグノー、他にも将校らしき貴族らが並んでいる。


 アベルにとってグノーは牛に似た男、という程度の印象しかないが向こうはそうでもないらしい。

 ズマに劣らない敵意の顔つきをしている。


 隣の父親は酷く迷惑そうな、嫌なものを見る視線。

 ラベ・タル将軍は、鈍らの剣を渡すという汚い罠の片棒担ぎだ。

 踏み潰したはずの虫けらが、しぶとく舞い戻って来て困惑しているだろう。 

 親子揃って、だいぶ嫌われているらしい。


 アベルは彼らを一瞥しただけで後は無視したが、内心は溜息を吐きたい気分だった。

 どこもかしこも敵だらけ、油断ならないランバニアを利用して王の側まで辿り着かねばならなかった。


 凱旋は最後にランバニア王女のいる王族席へとやってきた。

 アベルは下馬して奴隷ともども跪き、ランバニアに頭を垂れて勝利を感謝する。

 わざわざ王女は大輪の薔薇で飾られた座席から立ち上がり、奴隷たちを迎え入れた。


 アベルは少し驚く。

 王宮では妖しい魅力を発散させ、男を絡めとり、手玉に取る王女のはずが、今こうして大衆の前にある姿は本当に気品と度量を湛えた王族らしかった。


 しかも、その晴れやかな美しい笑顔、甘い艶めきを秘めた橙褐色の瞳はアベルにのみ注がれている。

 決して他に視線を逸らせはしなかった。


――やけに見てくるなぁ……。


 アベルは疑問に思うが、よほど戦いが面白かったのだろうと考える。

 そうして凱旋も終わり、アベルたちは闘技場の地下へと降りる。

 仲間たちの表情は明るい。


「ああ、これで解放だ……! やっと自由民になれたんだ」

「まずは思いきり遊んでやるぞ! 女、それから酒とご馳走だ」


 それぞれやりたいことを熱心に述べていた。

 奴隷の身分では食事を選ぶこともできない。好物を腹いっぱい食べるというのは立派な夢になり得る。


 ましてや女性と交際して甘い一時を楽しむなど、よほど器用な男でないと無理だ。

 奴隷が伴侶を持てるのは主人が「繁殖」を許す場合ぐらいだろう。

 アベルは巨漢のコモンディウスに聞く。


「お前はこれからどうする」

「主人次第だな。一応、俺がこの戦いで活躍すれば良い待遇をすると言ってはいたが……どうなることか。俺の主人は小心者なくせに欲張りでな」


 奴隷の運命は主人に握られていた。

 こんな不公平な戦いに出された挙句、その報酬も曖昧だった。

 運が良ければ奴隷身分から解放されて自由民となり、どこかの裕福な商家の用心棒にでも雇われる……などということがあるだろうか。

 

 もし主人が約束を守らない不誠実な者だとすると、コモンディウスは今後とも危険な見世物に送り出される日々となる。


 やがて一人一人と部屋を出て行く。

 彼らはアベルを最大級に讃え、感謝してきた。


「アベル! また、いつか会おうぜ!」

「お前のおかげで助かったぞ!」


 希望に満ちた元奴隷たちにアベルは別れを告げる。


「ああ、じゃあな」


 ごく短い挨拶。

 これで充分であり、他に言うべきことは何もなかった。


 やがてコモンディウスにも主人の召使いがやって来た。

 逞しい巨漢は精悍な顔に似合わない、しんみりとしたものを浮かべていた。


「アベル。お前とはまた会う気がするぞ」

「そうかな」

「お前の悪い予感が当たるように、俺の予感も当たる」


 迷信など塵ほども信じそうにないコモンディウスが言い切ると、また会えるような気がするから不思議だ。 


 お互いの拳と拳をぶつける動作をして、頼りになった巨漢とも別れた。

 力を合わせ命懸けで戦った仲間たちが誰一人としていなくなる。

 あれほど激しかった連帯は、こうして跡形もなく消え失せた。




~~~~~~~~~~~~~~~~




 ぽつんと部屋に残されたアベルのもとへ現れたのは、ランバニアの秘書ダリアだった。

 アベルは彼女の出身を知らないが奴隷身分ではないから、商家などの娘ではないかという気がしている。計算や事務能力はかなりのものだ。


 ダリアに化粧っけはなく装飾品も身につけてない。

 ブラウンの髪も肩の位置で単純に切りそろえられているだけで櫛すら差していなかった。

 ランバニアにはべる者として、いささかも目立つつもりはないのだと思われた。


 年齢は二十代前半ぐらいで、際立った美人ではないが知的で涼しい顔をしている。身体つきは年相応。

 以前、ちょっと事務に手を出したらすっかり嫌われてしまった。

 アベルを戦士崩れの奴隷風情と見做していたら、仕事に干渉されてプライドを酷く傷つけられたらしい。

 

「奴隷アベル。ランバニア様がお呼びよ。戻りなさい」

「ジャバトの奴が来ると思っていた」

「あいつは試合に負けて気狂いみたいになったあと寝込んでいるわ。ランバニア様はお許しになっているのに」


 アベルは考える。

 今日の勝利の功績は大きいはずだ。

 ランバニア王女の熱心な推挙があれば王宮の親衛隊に取り立てられる可能性も十分あるように思える。


 直ぐにそうならなかったとしても機会は確実に増えた。

 アベルの胸に渦巻く、飢えたる欲望。

 現実に近づいていく……。

 

 闘技場の地下を進む。

 火の灯る獣脂ランプが置かれているが、かなり薄暗い。

 雰囲気はほとんど牢獄だ。

 実際のところ鉄格子ばかりで中には閉じ込められた罪人や剣闘士がいるから、牢獄と呼んでも間違いではない。


「きゃあぁぁ!」


 突然、ダリアが悲鳴を上げる。

 何事かと見れば、罪人らしき男が格子越しに手を伸ばしていた。


「や、やだ! なによっ!」

「落ち着いてくれ、ダリアさん。水が欲しいだけみたいだ」


 アベルは置いてあった椀に魔法で水を満たし、渇きを訴える男に渡す。

 暗がりから感謝の声が聞こえて来た。

 再び歩み出すが、ダリアは憔悴していた。曲がり角のたび、進行方向を何度も間違えそうになる。


「ダリアさん、大丈夫?」

「行きは衛兵がついていたのよ! 戻りはあんただけなんて聞いてない!」 

「ん? ダリアさん、何だか怯えてないですか」

「闘技場の地下なんか臭くて凶悪な罪人や狂った剣闘士ばかりじゃないの! 怖いに決まっているでしょ! なんで私がお前を迎えに行かないとならないの。ジャバトのやつ、負けたぐらいで病気の犬みたいになって情けない」

「まぁね、暗がりも多いから引っ張り込まれたら、どうなるか……」

「ひいっ」


 軽口のつもりだったがダリアは本気になってしまった。

 ぷるぷると震えながら身を竦ませている。

 普段は王女の秘書としてお高く澄ましているのに、今は動揺から顔を強張らせていた。


「安心しなよ。僕が一緒にいるんだから無事さ」

「一緒だから安心ですって? 確かにあんたの戦い方ときたら凄かったけれど……あっ、考えてみたら、あんただって剣闘士と似たようなものじゃない!」

「えっ。いや、僕は奴隷だし」

「そ、そうだわ! このままどっかに連れ込む気でしょ! 知っているのよ。悪い男が女を犯す時、寝台すら必要じゃないことぐらい。私、それで立ったまま犯されて……」

「バカかよっ⁉」


 慣れない環境でおかしくなっているダリアを宥めすかし、さらにはランバニア王女の役目だろうと叱咤し、迷宮じみた地下を案内させてどうにか闘技場の一階に辿り着く。


 壮麗な王宮やランバニアの私邸で働く彼女にとって、得体の知れない男たちが犇めく地下は刺激が強すぎたらしい。

 地上に戻れた安堵から涙や鼻水まで流している。

 顔は赤くなっているし、他人に変な誤解をされないか心配になってきた。


 ところがダリアはグチャグチャの顔を手巾で拭くと普段の、つんと澄ました表情を取り戻していた。

 何もなかったと言わんばかりに貴族しか進入を許されていない区画を歩く。

 アベルは呆れて開いた口が塞がらなかった。


 当然だが、ここには華やかで清潔な衣服を纏った男女ばかりだった。

 それに比べてアベルは小脇に冑を抱え、血が飛び散った白いトゥニカを着ている。

 奇異どころの姿ではなくチラチラと見られている気配を感じた。


 中にはさっきまで激闘を繰り広げた奴隷だと気が付いた者もいて、驚いた顔で見てきた。

 とにかく先を急ぐ。ランバニアが呼んでいるのだ。

 

 客席の最前列には豪華な特別席がいくつも設置されているが、王族席は別格中の別格である。

 周囲は白い幔幕で囲われているので内部は見えない。

 ダリアに促されてアベルは中に入った。


 濃厚な花の香りが漂っている。

 今朝、摘み取られたばかりの瑞々しい薔薇が無数に飾られていた。

 ランバニアは柔らかいソファへ身を横たえるように座っている。

 他に誰もいない。


 思わず興奮を惹起させられる女の肉体が、薄くて品のある黒い絹の衣を隔てて存在感を醸し出していた。

 みっしりと肉付きのいい、生々しい脚が裾から少しだけ見えている。


「アベルです。戻りました」


 声を掛けると王女は素早く立ち上がりアベルを迎え入れる。

 いつもは相手を圧倒する挑戦的な美貌を誇っているはずが、今は柔らかく微笑んでいた。


 刺激的ではあっても、女としては全く自分の嗜好に合っていない王女であるはずが、どきっとさせられるほど気を惹かれた。

 良く分からないが、今のランバニアは気取っていないというか、素直な状態に近いのかもしれない。


「アベル! 見事な戦い振りです。貴方は誰よりも輝いていました」

「ランバニア様に捧げた戦いです。楽しんでもらえましたか」


 王女は嬉しそうに、深く頷く。


「貴方、顔にも体にも血が付いているわ。まさに戦場から命懸けで帰って来た男ね」


 トパーズのような妖しい瞳は、甘く、うっとりしている。


「怪我はしていないのかしら」

「かすり傷です」

「あれだけの殺し合いで、かすり傷ねぇ。不死身みたい」


 ランバニアは戻ってきたアベルを見て、こんな男こそが欲しいと心から感じる。

 逆境を跳ね返し、激しい戦いを勝ち抜く。

 それでいて粗野でも下品でもない。

 身近に置いて不満のない男だ。

 しかも、身分が低いというのは、さらに好ましい。


 貴族の男に、いかほどの教養があろうと、所詮はそこそこ整っただけの者がほとんどだ。

 たまには自分を超える知識の持ち主もいるが、欲しいのは男であって学者ではない。

 なまじ身分が高いだけに染み付いた誇りが、うっとおしく感じる場合も多かった。


 そこを行くとアベルは奴隷である。

 元からして低い戦士階級であり、家柄を頼りにしない姿が爽やかですらあった。


 こんな者こそ利用しがいのある男だ。

 しかし、まだ、アベルを愛しているわけではないと自らに釘を刺す。

 自分が信じられる愛とは利害関係と切っても切り離せない。


 男と女の関係になったとて王女という立場の必然として、常にランバニアが圧倒的に与える側となってしまう。

 すると、まともな男ほど飼育されている気分となり、意地になって男の証を立てようとする。

 だが、それはランバニアにとって余計な動きだった。

 

 ランバニアは人生経験から、穏やかな、対等な愛などというものが成立するとは思えなかった。

 あるいは庶民において、たまたま才覚や人格が釣り合った男女でならばそういうこともあるのかもしれない。


 しかし、アレキア王家の女である自分には、決して公平な愛など訪れない。

 愛の天秤は、ほんのわずかな時間だけ均衡をとったとしても、やがていずれかに傾斜して水平では無くなり、乗っていたものを落とすことになる。


 ランバニアは熱烈に自分を愛してきた男と取引のような恋愛をして、すぐにお終いにしてきた。

 力量において、どうしても男の方が下だと感じざるを得ない。

 よほどの愚図でなければ相手もそれを察する。

 気まずくなり、醜く崩れる前に、さっさと男は放り出した。

 腐った関係に拘泥するほど暇ではない。


 ランバニアは、まだ自分の成長を求めていた。  

 絶対的な権能を持ち君臨する父王イズファヤートは、真に恐ろしい存在である。

 ただし、父王は功績を上げればそれを見抜き評価してくれた。


 誰よりも確かな立場を作り、政治的にも経済的にも確固たる王族となる。

 それしか王女という自己を成立させる方法はなかった。


 今日の取引と賭けは最高だった。

 ヤザンの利権を受け取り、あのズマをも利用して懸念であった軍事面の強化ができた。

 しかも……奴隷の勝利に黄金を山ほど賭けていた。

 齎された法外な富。

 

 切っ掛けはアベルの餓えたような群青の瞳だ。

 こんな眼を持った男なら、いかなる危機をも跳ね返すのではという直感を得たのである。

 そして、勝負した。


 アベルがデンガドロイの首を跳ね飛ばした瞬間。

 ランバニアは、かつてないほど激しい絶頂感と恍惚に没入した。 


 女の勘は当たり、何もかも自分の思い通り、利権も黄金も人心も全て手にした……。

 

 いま、目の前に立つアベルからは死を捩じ伏せる、滾るような生命力を感じる。


「アベル。今日はこれから午後の試合、夕方からは演劇があるのよ。私の傍で護衛をしてちょうだい。貴方なら、どんな敵が襲って来ても安心です」


 誰も彼も小賢しく整った格好をしている中、たった一人、赤い血が飛び散る衣装を纏った若く逞しい男がいる。

 それを従えるのは王女ランバニア。

 愉快であった。


「以前、貴方に言ったことがあったわね。若者は何でも手に入れられるような気がして、本当に望みが叶う時もあると……」

「僕をイズファヤート王の傍で働けるようにしてください。他に何も欲しくありません」


 意外なほど初心な様子で横に立つアベルを見てランバニアは想う。

 私はまだこの青年を愛してはいない……。

 そうでありながら青年アベルは血を浴びながら戦っている。

 溜息が出るほど幸福な気持ちだった。

 

 

 




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