第187話  泡沫たちの幻想





 アベルはデンガドロイを睨み据える。

 剣闘士の頭領は欲や怨みに塗れた顔つきで、豪壮な朱槍を構えていた。

 業物の風格がある槍。

 その穂先から殺したばかりのダビドの血が、じっとりと滴る。

 

 向こうは槍でこちらは刀とダガーの二刀流。

 攻撃範囲が違う。

 だいぶ不利だとアベルは感じるが、もちろん退くつもりは無い。

 戦意が煮え滾っている。

 

 それに闘技場の興奮は、もはや絶頂。

 数で不利な徒歩の奴隷たちは固く円陣を組み、しぶとく防戦を展開していた。

 騎馬はそれぞれ一騎ずつが倒れ、さながら大将戦である。

 小細工など出来ようはずもない。


 アベルは黒馬に鞍なしで跨っているが、意に介さず横腹を軽く蹴って合図する。

 反応は素晴らしく、飛ぶように駆け出す。

 デンガドロイもまた馬を走らせてくる。


 アベルは相手の武器だけではなく全体を見渡す。

 集中するだけではない視座。

 そうすると隠された狙いや動きが、じわじわと浮かび上がってくる気がする。


 だが、さすがにデンガドロイは巧妙に槍先を移動させ、攻撃のタイミングを悟らせまいと偽装してくる。

 数十年の戦歴は本物だ。


 荒々しい馬脚の乱打、そして、破れる間合い。

 槍の圏内に入った。

 デンガドロイは槍を撓らせた。

 軌道を見抜くのは困難を極めるが、アベルは不思議と恐怖心を感じない。 


 蛇のように伸びてくる槍。

 アベルの顔面を突くと見せかけて、穂先は変化する。

 撓った朱槍は意表をついて、アベルの太腿に目掛けて繰り出された。

 年季の入った癖技。

 

 だが、アベルは見抜き、刀で払う。

 刃が衝突して火花が散る。

 穂先は危うく体に突き刺さる寸前、過ぎ去った。

 互いの馬が擦れ違う。


 アベルは荒い息を吐く。

 デンガドロイの癖技に引っ掛かり、上半身を逃がすだけなら腿を刺されていた。

 太腿の血管を傷つけられれば大量出血となり、ほぼ戦闘不能だ。


 手当てをしなければ死ぬことになる。

 闘技場はいかなる魔術も使用禁止なので、治癒魔術で治すと違反で処刑だろう。

 一撃が致命傷となる。


 黒馬を反転させ、もう一度、接近戦を挑む。

 闘技場の景色が流れていく。

 デンガドロイの眼は凄惨に輝き、怒っているのか笑っているのか分からないような顔をしていた。


 いずれにしても今の遣り取りで、槍を持つ自分に勝ち目があると確信したらしい。

 確かに、このまま漫然と騎馬戦を繰り返していればそうなる。

 デンガドロイはそれだけの腕を持っていた。


――機会は一度きりだぞ。


 アベルは賭けに打って出る。

 ダガーを口に咥え、手綱を左手で掴み、走る馬の背で立ち上がる。

 いわゆる立ち乗りだ。


 この奇抜な様子に会場から、大きなどよめきが起こる。

 激しく揺れる馬上でアベルは落馬しないよう均衡を取る。

 こんな真似をするのは奇手に賭けるためだ。


 デンガドロイが何やら叫びながら馬を急接近させてきた。

 アベルが挑発していると受け取ったらしく、剣闘士としての誇りを発奮させている。


 二騎の間隔は急速に接近していく。

 穂先は巧みに操られ、どこを狙っているのか分からない。


――待っていたらダメだ。

  先に仕掛けるぞ。


 体を屈伸させ、全身の筋肉をバネのように溜める。

 アベルは飛んだ。


 なんと馬上からデンガドロイへ目掛けて跳躍する。

 体が宙を飛ぶ。

 

 少しだけ遅れて反応した穂先。

 追随してくるが、アベルは見抜いて刀で弾く。

 抉じ開けた隙を掻い潜り、そのままデンガドロイに飛び蹴りを食らわせた。


 デンガドロイはとっさに盾でアベルの蹴りを受け止めたが、全体重と馬の加速度を乗せた激しい衝撃に耐えきれなかった。

 仰け反って落馬する。

 

 必然的に空中へ投げ出されたアベル。

 恐ろしい勢いで地面が迫ってくる。

 とっさに受け身を取った。


 激しい衝撃。

 体が跳ね、何度も転がる。

 冑が地面にぶつかり、派手な音を立てた。

 一瞬、意識は遠くなる。


 空……青空だ。

 なんだか気持ちいい晴れた空じゃないか……。

 おっと、そうだ。

 まだ、終わってないぞ。

 眼は見えるし……手足も動く。

 

 アベルは歯軋りしながら立ち上がった。

 かすり傷はあるが、大きな怪我はない。

 デンガドロイもまた立ち上がるが、なんと一目散に手下の剣闘士たちがいる方へ逃げていく。

 集団で戦った方が優位だという判断らしいが……。


 あまりに素早い逃げっぷりにアベルは呆気に取られてしまった。

 走って追い駆けようとしていたところ、黒馬が呼んでも無いのにアベルのもとへ帰って来てくれた。

 痛い目に遭っているにも関わらず、乗れと言わんばかりに首を振っている。


「まだ僕を乗せてくれるのか。じゃあ、一緒に卑怯な奴らをやっつけよう」


 アベルはデンガドロイが捨てた朱槍を拾い、棒高跳びのように使って颯爽と黒馬に乗った。

 逃げたデンガドロイは手下たちを指揮して、隊を組み直す。


 徒歩の奴隷には同数の八人を当て、自分は残り六人を率いてアベルに対抗してきた。

 依然として優位な数を使う作戦だ。

 理屈には適っているがこすっ辛いだけの態度。

 客席から不満の罵声が飛ぶ。


 剣闘士は全員が槍を持っている。

 揃って威嚇的に穂先を突きだした、いわゆる槍衾やりぶすまの陣形。

 馬では攻撃しにくいばかりか、下手すれば騎馬が逆に負けることすらある。


 だが、アベルは奪った朱槍を荒々しくしごく。

 ダビドや殺された奴隷たちの無念に突き動かされていた。

 そして、叫ぶ。


「おらぁあぁぁぁ!」


 気合を呼応させた黒馬は、疾風の速度で駆けた。

 人馬一体となった突撃。


 アベルの意識は盾と槍を持った剣闘士たちに集中する。

 一応、壁のように並んでいるが弱点を見出した。


 狙いを左端の男へと絞った。

 偽装として、黒馬をいったんは右端に向かわせる。

 そのまま突っ込むと見せかけて、馬首を急激に回頭させた。

 突き出された槍の群れ、馬体すれすれを通過していく。 


 アベルは意図して朱槍を狙いの剣闘士の槍と交差させる。

 瞬間、跳ね除けた。


 そのまま朱槍を突き出す。

 手応え。

 剣闘士の首。深々と穂先が突き刺さる。

 

 一瞬にして剣闘士は体ごと奪われ、宙に浮く。

 アベルは瀕死の剣闘士を槍玉に上げ、闘技場を駆けさせた。

 満場が、どよめく。

 観客席の衆人たち、驚愕の表情でアベルを指さしていた。


 そういや従兄のロペスがこんな風にして敵を斃すのを得意としていたと思い出す。

 別に槍の使い方を教えてもらったことなどないが、ずっと近くで見続けていたのが学びと言えば学びになっている。

 死体を放り投げ、アベルは獰猛に笑う。


「汚い罠に嵌めて奴隷を皆殺しにするつもりだったんだろう! バカにしやがって!」


 怒りのまま再び、騎馬突撃。

 今度も端にいる剣闘士へ黒馬を突っ込ませる。


 敵も必死だ。

 槍で馬を突こうとしてきたが、アベルは朱槍を絡めるように操って相手の穂先を外した。

 そのまま黒馬を剣闘士へ突っ込ませる。


 馬鎧に包まれた馬体をぶつけられ、屈強な剣闘士が軽々と鞠のように跳ね飛ばされた。

 生死は不明だが、倒れたまま動かない。


 アベルの奮闘に触発されたコモンディウスたちが一斉に反撃を始めた。

 怒号と共に盾を押し上げ、槍を突きまくって前進する。

 逆に剣闘士たちは怯んで、後退していく。

 もはや形勢逆転は誰の目から見ても明らかだった。


 アベルは騎馬突撃の狙いを動揺する剣闘士に絞る。

 ちょうど背中がガラ空きだ。


 黒馬を駆けさせて、適当なところで方向を急変化。

 突然、背後から攻撃。

 朱槍の穂先は背中から腹に突き抜けた。

 またしても槍玉に上げてやった。


 剣闘士たちはパニックに陥りつつある。

 仲間の悲惨な姿を見て、ひたすら慄いていた。

 デンガドロイが怒鳴り散らす。


「何やっていやがる! 退くんじゃねぇ!」


 だが、剣闘士たちは完全に臆して攻撃の手が出なかった。

 機と見てコモンディウスが荒ぶり、その剛力を発揮する。

 大盾で剣闘士を殴り倒し、陣形を強引に崩す。


 この好機にアベルは尽かさず攻撃。

 またもや騎馬突撃で一人を討ち取る。


 デンガドロイは円陣の中心で喚き散らしているが、それだけのものであった。

 このまま強引に攻めて奴隷仲間に犠牲者を出したくないアベルは大声で呼びかける。


「デンガドロイ! 決闘だ! 馬を捨てて戦ってやる!」


 追い詰められたデンガドロイは眼に狂ったような熱気を帯びていた。

 アベルの呼びかけに驚いていたが、すぐに気を取り戻して盾を捨て、代わりに大剣を手にした。


「おどれが若造ごときめ! 受けてやっぞ!」


 アベルは馬から飛び降りて刀とダガーの二刀流で構える。

 駆け付けた審判者が厳かに宣言した。


「名誉ある果し合いぞ! 手出し無用なり!」


 怒りと興奮でデンガドロイの手は震えていた。

 上段に掲げた大剣は、ガタガタと小刻みに揺れている。

 逸る気持ちと警戒心の狭間にあるせいで体は前後に揺れていた。

 発奮するためか喚き散らす。


「こん畜生がぁ! てめぇなんぞにゃ負けねぇぞ! おれぁ何百人も殺してきた!」


 アベルは両手とも、だらりと下げて無防備なまでに足を進める。

 ことさら力を入れない軽い歩み。


 対してデンガドロイは眼球を剥き出しにさせて、大口を開けながら仕掛けて来た。

 アベルの上半身を隙だらけにさせた誘いに抗えないのである。

 窮地に立たされ、焦れば焦るほど、冷静であれば罠だと気が付くような動きに釣られる。


 大剣が描く捻りの無い斬撃、間合いを見極めたアベルは半身の動きだけで躱す。

 唸りを上げて顔の横を通過、勢いのまま白砂に衝突した。

 アベルは踏み込み、刀を横薙ぎにする。


 デンガドロイは夢をずっと見続けていた。

 初めて闘技場で勝利をものにした、あの日を忘れられない。

 自分こそが主役、自分の居場所はここだと血が沸騰するように確信した。


 それから戦い続けた。

 負けるわけにはいかない。

 敗北したら居場所を失う。

 手下も贅沢も消え失せる。


 だから、どんな悪名を得ようとも負けるよりはマシだった。

 勝利だ。

 勝利さえあればいい。

 この大剣を若造の頭にぶちこみ、俺は勝つのだ。

 そうだ、俺は勝ったのだ。


 あれ?

 ならば、どうして俺を讃える声は聞こえない。

 どうして体は動かない……。


 ふてぶてしい剣闘士らの頭領にしては、呆気ないほどの最後だった。

 風のように軽やかなアベルの斬撃。

 もう首が刎ね飛んでいた。


 落ちた頭が闘技場をころころと転がる。

 怨み深いツラは首だけになっても、まだ何か言いたそうだった。




~~~~~~~~~~~~~~~~



 

 カチェとハーディアは戦いを見守りながら、いつしかお互いの手と手を固く結んでいた。

 あまりに不公平な戦い。

 連続するアベルの危機。


 二人の女は身分や立場を超え、心を一つにさせるかのように手を握り合うしか出来なかった。


 騎馬戦のさなか、どうした理由なのかアベルの乗る黒馬から鞍が落ちてしまう。

 カチェは危機極まる状況に小さな悲鳴を漏らしてしまった。

 ところが、直後にアベルの馬は調子を取り戻し、デンガドロイの副官を鮮やかに撃退した。


 ついに始まったアベルとデンガドロイの騎馬対決は、闘技場を揺らすほどの熱狂を巻き起こした。

 アベルはここでも窮地に立たされていた。

 相手は長大な槍を持つのにアベルは刀だ。


 ところが、捨て身の体当たりでデンガドロイを落馬させると、奴は呆気なく手下のところへ退いてしまう。

 これには観客たちも不満を露わにさせた。 


 そして、たびたび行われるアベルの騎馬突撃。

 勇壮で本物の戦場を連想させるに相応しい姿。


 次々と槍玉に上げられる剣闘士たち。

 ついにデンガドロイとの鮮烈な決闘の末、悪名高い男の死で戦いは終わる。


 不安に怯える二人の女、カチェとハーディアは勝利の瞬間、感極まり固く抱き合ってしまう。


 そうしてカチェは傾国の美姫とまで呼ばれる王女の心を感じずにはいられなかった。

 やはりハーディアは自分と同じ男を愛しているに違いないと……。




 剣闘士たちは頭領を失い、完全に士気を喪失。

 おろおろと狼狽しながら審判者に降服を申し出た。

 決着がつき、万人の観客たちは拍手喝采。

 数年に一度あるかどうかの物凄い試合だと称賛する。


「黒馬を操っていた奴隷、何者だろう!」

「なあ! あのデンガドロイを殺してしまったぞ。あいつは意地汚い戦いをするが、しぶとい男だった。それを斃すとはな」

「まぁ、奴も悪運尽きたってものだ。近ごろは雑な試合ばかりだった」

「延長戦さえなければ命までは失わなかっただろうが、奴隷が凄すぎたな」


 そんな声が聞こえてくる。

 何はともあれアベルは勝ったのだ。カチェは安堵と喜びで全身から力が抜けてしまう。

 

「ハーディア様。アベルは無事です……。きっと怪我もないでしょう」

「ええ、さすがです。アベルなら必ず勝つと信じていました」


 ハーディアにしても、もちろん歓喜と呼んでも足りないほど感動していたのだが、反面の不安は消えない。

 今日一日は助かったからとて、奴隷のままでアベルはどうなるのか。


 ハーディアは深く思い悩む。

 父王イズファヤートを殺す機会に恵まれない。

 現状、やれることは全て尽くしたつもりだった。


 あとは神の助けでも待つしかないのか。

 だが、いつしか神に頼むのはやめていた。

 祈っても祈っても、平穏はむしろ遠ざかるばかりだったから……。




 剣闘士たちは降服の証として盾と剣を捨てて、跪く。

 すると審判者の老人がアベルに聞いてきた。


「狼の巣穴の者どもだが。お主から言いたいことはあるか。勝者の主張は処断に影響する」

「別に……どうでもいいかな。もう終わったことなので」


 審判者は得心いった様子で頷く。


「寛大さまで持ち合わせるか。お主は奴隷で終わるまい」


 奴隷で終わらないなら何になるというのだ……という疑問は口に出さなかった。

 イズファヤートを殺したら、それで終わりだ。

 自分だけ助かるなど、あり得ないのだ。

 

 その後、勝者の権利ということで生き残った奴隷たちは闘技場を一周、凱旋せよと命じられる。

 アベルは特別に騎乗してよいと審判者の許しがあり、言われるまま黒馬に跨った。

 まるで将軍に与えられるような名誉だ。


 仲間の奴隷たちはアベルの雄姿を讃え、みずから従士のごとく振る舞う。

 奪った朱槍を高々と掲げ、奴隷たちを率いて進み出す。

 それは十人に満たない小さな集団だったが、まさに凱旋に相応しい風格。


 数万人もの観客が勇猛果敢に戦った奴隷たちを絶賛していた。

 アベルは夢か幻でも見ている気分になった。

 どんな美酒を飲んでも得られないような、一生忘れられない深い深い陶酔感。


 闘技場という舞台で、夢を賭けた男たちが泡沫のように弾け、消えていった。

 死んだ者のことなど幻と同然、明日には誰しも忘れているだろう……。



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