第186話 戦争の神、血塗れの男たち
告知人が大声で延長戦を叫ぶ。
ランバニア王女、並びに奴隷主たちの特別なる好意により勝敗を決する、という宣言。
六万人の大観衆が犇めく大円形闘技場は歓声で割れんばかりとなる。
状況の変化と歓声に動揺する奴隷たち。
それはそうだ。
引き分けで終わりと思っていたら延長戦。それも奴隷にばかり危険な試合……というより殺し合いだ。
アベルは隣にいる巨漢の男、コモンディウスに話しかける。
「こうなる気がしていた。マジで僕の嫌な予感は一度も外れたことがないんだ」
「あのデンガドロイとか言う頭領を怒らせたからではないのか。助言を止めなければ集団戦で殺すとか凄んでいたな」
「だからって奴隷仲間は見捨てられない」
コモンディウスは口角を持ち上げ、にやりと笑った。
「ふん。アベル、お前を信じてやる」
「みんなで生き残ろうぜ」
アベルは仲間である奴隷たちへ怒鳴るように語りかけた。
「おい! とにかく傷の手当てからだ!」
傷を負って流血すらしている奴隷たち。
とりあえず、アベルは怪我を負った彼らの治療を始める。
なにしろ医者の息子の血が騒いで放っておけない……。
といっても治癒魔術は切り札なので、使えることは秘密にしておく。
闘技場が用意した水、軟膏、布などがあった。
どうやら軟膏は血止めの薬草と蜂蜜で作られている。
人々は経験的に蜂蜜を患部に塗ると化膿が起こらず治りが早いことを知っていた。
母アイラからも蜂蜜にはそういう利用方法があると教わっている。
患部を洗い、傷の程度を確かめてから軟膏を塗った。
手早く布で縛ってやる。
アベルは奴隷を次々に処置していく。
幸い、縫合が必要なほどの重傷はいなかったが、生き残った奴隷のうち四人は負傷者だ。
「手際がいいな。助かるぞ」
「任せろ」
「お前、まるで医者みたいだな」
「……」
――医者じゃないけど医者の息子だ。
そういやウォルターはどうしているかな?
たぶん、もう二度と会えないだろうが……。
ウォルターは闘技場を食い入るように見つめていた。
忘れたことなどない息子の姿だ。一目で見分けがついた。
アベルが負けるはずがないと戦いを見守りはしたが、心臓が痛むほど緊張した。
仲間を助けるために二対一の状況を作り出し、鮮やかに剣闘士を仕留めた際には自分でも信じられないほどの大声で叫んでしまった。
アベルの技巧。
恐ろしい冴えだった。
間違いなく父親である自分を超えていると確信する。
ところが、とても喜べたものではなかった。
息子は奴隷として苦闘していた。
これまでは楽観的に考えようとしていたが、もう、そんな気分にはなれない。
すると隣に座るダンテが話しかけてくる。
「珍しいな。ウォルター殿がそういう表情をするとは」
「そんなに酷い顔か」
ダンテは黙って小さく頷く。
「まぁな。参ったぜ」
「アベルはハイワンド家にとって重要な存在。私にとて大事な男だ。助けなくてはならない」
ダンテの眼には決意が光っている。
ウォルターは思わず頷き返す。
父親としての想い、世界の命運を分けるかもしれない密使の任務、守るものと欲するもの。
天秤が重さで壊れそうな気分だった。
~~~~~~~~~~~~~
アベルは治療を終える。
奴隷たちが口々にアベルへ感謝してきた。
「アベルさんが危険を教えてくれたから助かったぜ! おまけに手当てまでやってもらえるとは」
「何にせよ、あの剣闘士どもに一泡吹かせてやれたぞ」
「奴らの間抜け面! ぎゃははは!」
さっきまで動揺していた奴隷たちは落ち着きを取り戻してきた。
アベルは考える。
集団戦と言っても詳細な規定を知らない。
それから、あらためて周囲を観察してみる。
老若男女が犇めく観客席、最前列には特別に豪華な席がいくつか設けられていた。
それは動物的な本能だったのかもしれない。
アベルの視線、一角にいる男へ吸い寄せられる。
無視できない、むかつくような瘴気と言うべきものが発散されていた。
そこには……。
――ディド・ズマだ!
アベルの心臓が高鳴るほどの驚き。
忘れえぬ、敵。
絶対に殺すべき、敵だ。
あの暴虐と極悪の男が悪相をさらに濃くさせ、何やら声を荒げていた。
デンガドロイという剣闘士の頭領を物凄い形相で怒鳴り上げている。
するとデンガドロイは走って闘技場の内部へと姿を消し、ズマもまた手下たちを引き連れてどこかへ行く。
ただ事ではない気配だ。
あのデンガドロイという男。
今の遣り取りを見るにズマに隷属していると見て間違いないだろう。
ならば奴もまた、数多くの人間を苦しめる悪徳の男だ。
アベルは闘志を奮い立たせる。
デンガドロイは奴隷を皆殺しにすると脅してきた。
それを無視してアベルは助言を叫び続けた。
要するにメンツを完全に潰した。
だから怒り狂っている。
集団戦はどちらかが全滅するまで終わらない。
その確信を得た。
アベルは奴隷たちに声を掛ける。
「なぁ、聞いてくれ。俺たちは若い。だからさ、まだ死ぬ時期じゃないよな」
奴隷たちは頷く。
「あんたの言う通りだ」
「奴隷のまま死にたくないぜ」
「自由になって女とやりまくりてぇ」
「俺は酒と肉だな」
アベルは必死に考える。
集団戦であるのに、こちらは依然として組織になっていない。
ところが剣闘士たちは気心の通じた組合同士。
しかも、数的に劣勢。
やれば絶対に最悪な危機に陥る。
――こんなところでは死ねないぞ!
時間はほとんどない。
やれることはやっておこう。
「あらためて名乗っておくぞ。僕はアベルという名だ。みんなも名前を教えて欲しい。誰一人、これ以上は死なせない。だけど、力を合わせなければ全員、ここでくたばるだろう」
生死の境を乗り越えた奴隷たち。
醒めない戦闘の興奮で眼はギラつき、口元には不敵な笑みを浮かべている。
生への欲望に満ちた、獣じみた顔だった。
そして、名乗る。
チャド、バルトシュ、ツェザリ、ダビド、プッフ、マギン……。
「で、アベルよ。どうやって戦うんだ」
出会ったばかりのアベルに対して、だが、どうしたわけか信頼せざるを得ない奴隷たち。
「まず、僕らは集団戦の条件すら知らない。あの神官の審判者に確かめよう」
熱狂によって煮え立つ釜のようになった闘技場の中心で、少しも揺るがない毅然とした態度で佇む審判者。
絶対公平であるべき者に相応しい態度だった。
アベルたちは近づき話しかけた。
「審判者殿。どうか教えて欲しい。集団戦はどのように行われるのですか」
初老の審判者は表情を変えずに、淡々と答える。
「よいか、原則的に集団戦は双方、残った人間全員で戦う。怪我を負った者もだ。形勢が明らかになった時、降服したければ私に申し出よ。
ただし、臆病からの降服ならば処刑を覚悟せよ。闘技場とは尊い戦場だ。汚す者は許されぬ」
「武器は?」
「武器は選び直せる。なお狼の巣穴は組合特権として二頭まで騎馬の使用が認められている」
「えっ!」
アベルも奴隷たちも驚かないわけにはいかなかった。
馬などと、一度としてそんな説明は受けなかった。
慌ててアベルは問う。
「奴隷は馬なんか持ってない」
「闘技場で管理している馬を使うのだ。無論、戦闘用に調教もしてある」
「じゃあこちらも馬で戦えるのですか」
「同じく二頭まで許されておるが……」
審判者の老人は探るように、あるいは気の毒そうに言う。
「お前たちに騎馬戦の技能を有した者などいるのか」
それは当然の質問であり、言外には馬に乗れる者などいないだろうとの確認の意味合いだった。
奴隷人生を歩んできた者が乗馬の技能を得る機会は、ほぼ無い。
つまり奴隷側は普通なら、騎兵なしで戦う破目になる。
騎兵のいる方が圧倒的に優位と決まっていた。
どこまでも奴隷が不利となるように仕組まれている。
「なんだそりゃ!」
「馬なんか乗れるわけないだろ!」
奴隷たちは不公平な扱いに不満の声を上げるが、アベルはそれを制した。
「落ち着けよ」
「騎馬を相手にするんだ! こっちばかり損だろうが!」
「おかしいぜ! こんなの!」
「僕はガイアケロン軍団の騎兵だった。馬なら任せろ」
遠く皇帝国を果敢に攻め立て、連戦連勝の英雄ガイアケロンの勇名はここでも効果があった。
「ええっ! アベルはガイアケロン王子の兵だったのか」
奴隷たちは驚き、一転して納得の様子を示したのが妙におかしかった。
「さて、騎兵があと一人必要だが……」
するとダビドという赤髪を短く刈り込んだ、二十歳ぐらいの男が手を上げる。
「お、俺は農家の出なんだ。馬がいたから、そいで一応は乗れるんだ」
「騎馬戦闘の経験はあるのか」
「い、いや。戦奴になってからは馬に乗る機会なんざないから……」
不安になるような返事だが他に乗馬の経験がある者はいなかった。
アベルは考える。
この土壇場で小難しい戦術を組み立ててみても連携をとるのは無理だろう。
それなら心理的な結束感を深めた方が有意義だ。
「いいか。最悪の戦い方は僕たちがバラバラに戦ったり逃げたりすることだ。数で敵が勝っているのだから直ぐに個別で殺される。
じゃあどうするか。答えは決まっている。何があっても仲間同士が体を密着させ塊となり、盾を連ねて壁にする。しぶとく槍で戦って時間を稼ぐ」
「それからどうする? 守っているだけでは勝てねえ」
根拠など何もないのだが、アベルは断言した。
「僕とダビドで攻撃する。勝てるぞ!」
大きな期待と激しい不安がグチャグチャに混ざり合う。
その時、闘技場の役人が叫んで来た。
「集団戦はすぐに始めるぞ! お前らの準備を長々と待ってはいられん。武器無しで戦いたくなければ早く選べ!」
運ばれて来た大量の武器。
槍や刀剣類、それに数種類の盾。
アベルは最も大きな盾を選ぶように指示する。
長方形をした大盾だ。
これなら膝をつけば全身を隠すことが出来た。
武器は片手で扱える槍。
それに予備の武器として剣を取らせる。
次いで四頭の裸馬が引き出されてきた。
観客たちは迫力のある騎馬戦を楽しめるとあって喜びの声を上げていた。
すると、デンガドロイが手下を引き連れ、近づいて来るのが見えた。
たっぷりディド・ズマから脅され、さらに恥を掻かされ、物凄い顔になっている。
眼は血走り、顔色は青黒くなっていた。
怒りで頬が痙攣している。
アベルを憎しみの籠った視線で睨み、叫んだ。
「おぅ! この奴隷ども! この俺を虚仮にするたぁ馬鹿な奴らめ! 一人残らず殺してやるからな。特にその黒い羽根飾りの野郎。てめぇは槍に突き刺して闘技場の観客たちに拝ませてやる!」
アベルは鼻で笑って答える。
「お前のことは何も知らなかったけれど、ディド・ズマの犬だってのは分かったぜ。犬なら犬らしく四つん這いになってズマの尻を舐めていろよ」
アベルとデンガドロイの間、凄惨な殺意が破裂寸前まで高まる。
それを制したのは審判者の老人だった。
「馬を選べ。ただし、奴隷が不利なるは明らか。よって公正さのため奴隷から先に馬を選び取る権利を与える。それで構わぬな」
デンガドロイは意地悪く、歪んだ笑みを見せた。
「おおよ。そこの若いのには散々罵られたが、俺らは誇りある剣闘士だ。奴隷ごときにゃそれぐらい譲ってやるぜ。冥途の土産ってもんだ」
怒りと憎しみに塗れきったデンガドロイは実のところ勝利を確信している。
だからこそ、酷い挑発に我慢できていた。
数的優勢に加えて、さらに罠を仕掛けてあるのだ。
ズマの十傑将であるロシャやサルゴーダという男と共に、闘技場の馬具管理者を脅迫した。
奴隷たちが選んだ馬に付ける
初めは抵抗していた管理者だったが、要求を無視するなら妻子を捕え、ゆっくり刻んで殺すと脅せば、さすがに怯んだ。
ロシャとサルゴーダという男たちから発散される暴力の臭い。
脅迫は現実になる真実味だけがあった。
そこで畳みかけ、さらに管理者には銀貨を押しつけデンガドロイは言った。
これは手間賃だ。
黙っていれば誰にも分からない。
二度と頼まない。
今日これっきりの話だ、と。
そして、馬具管理者は震えながら銀貨を受け取った。
デンガドロイの勝利が確実になった瞬間だった。
奴隷らが乗る馬の鞍。
何度か激しい衝撃が加わると、太い針が飛び出る仕掛けが隠されている。
当然、背中を刺された馬は痛みで暴れる。
そうなれば乗馬どころではない。
デンガドロイが、これまで何度か使って相手を陥れた実績がある道具だ。
巧妙な仕組みなので、鞍を分解しなければ露見しない。
調べる暇などあるものか。
あの生意気な奴隷を槍で串刺しにする光景を思い浮かべ、デンガドロイは堪えきれず歯を剥き出しにさせた。
死人に口なしだ。
地獄で文句を垂れていろ。
「ぐふっ、ぐふふふっ」
これで借金は帳消し、酒を飲んで女と遊ぶ楽しい夜がやってくる。
~~~~~~~~
アベルは馬を選ぶ。
全てが未去勢の
馬体は似たようなものだが、細かい特徴はだいぶ異なる。
まず胸囲の大きい馬がアベルのお気に入りだった。
胸が大きいと肺活量があり、結果として粘り強さを発揮する馬が多かった。
次に足の開き方や歩き方に変な癖が無いかを調べる。
選ばれただけあって四頭とも悪くない馬だ。
アベルは馬体の全体的なバランスを見て、最後に顔から性格を感じ取る。
これは直観でしかないが草原などで数千頭の馬を見てきたので、そう外さない自信があった。
去勢されていないオスの性格は攻撃的と見るべきで、根本的に人を乗せたがらない馬も一定数いる。
「この黒い馬と、こっちの栗毛だ」
黒馬からは猛々しいが、意思を理解してくれる気配を見出す。
栗毛は素直そうな顔をしていた。
ダビドに丁度良いと思えた。
さっそく闘技場の労務者たちが馬具を素早く取り付けようとするのをアベルは制止する。
ちぎれかけた手綱でも渡されたら大変なので、念のため確かめた。
「早くしろっ! 時間が無い!」
焦っているせいか顔から大量の汗を流した管理者が異様なほどの剣幕で怒鳴ってくる。
一見、馬具に異常はない。
他に簡易的な馬鎧もあり、頭部と胸部を鉄の小札で守るものだった。
急いで自分の武器も選ばないとならないためアベルは離れる。
無造作に並べられた武装を見れば槍だけでなく、長い柄に刃物のついた
それを手に取り、馬上戦闘を意識して片手で何度か振るう。
すぐに手に馴染んだ。
鎧が無いだけ身軽なので、さらに予備の刀とダガーを二本ほど体に括った。
次に馬上でも扱える、やや小ぶりの円盾を選ぶ。
革帯で左腕に固定する。
これで準備完了だ。
すると審判者の老人が、奴隷たちの前へ歩み寄って言う。
「では、これより闘技大会初日、午前の部、延長試合を始める。十六人と十人の戦いだ。奴隷らの旗色の悪さ否めぬが、何か言うことはあるか。審判者として出来る範囲の是正はしてやるが」
なぜか、問い掛けはアベルにされた。
少し考えてみたが、どうせ是正と言っても程度は知れている。
「戦いにおいて劣勢など当たり前。むしろ、やる気が出てくる」
アベルはそう答えておいた。
無表情を貫いていた審判者が眼つきを変え、厳かに笑う。
「よくぞ申した。戦争の神はお前のごとき野蛮なれど知勇を失わない者を愛する。思う存分、戦うがよい」
アベルは鞍に手をかけると、慣れた動作で軽々と黒馬に
視界が高い。
それから饐えた馬の臭いがする。
興奮してきた。
馬に乗って万里を駆け抜け、草原では数千人の敵と戦った日々を思い出す。
体が熱くなる。
負けるよう仕組まれた舞台、そんなものへ命懸けで反抗する奴隷たちに向かって叫ぶ。
「さぁ、隊列を組め! 歩兵の指揮はコモンディウスに任せた!」
馬上から響いてきたアベルの覇気籠る声を聴き、コモンディウスらは勝てるかもしれないという錯覚とも確信ともつかない不思議な心理に陥った。
神官である審判者の言葉が蘇る。
戦争の神が愛する男。
理屈を超えて希望が湧く、そういう声と姿だった。
奴隷らと剣闘士たちが闘技場に出揃う。
双方の集団、百メルほどの距離がある。
ラッパと銅鑼は高らかに鳴り響き、戦いの始まりを告げた。
数万人の観客たちが熱狂的に叫び、拍手を鳴らす。
噴き上がる洪水のような音の迸り。
アベルは敵、剣闘士たちを見る。
槍や戦槌といった物騒な武器を持つ男ども。
どいつもこいつも凶悪な、それでいて追い詰められた表情をしていた。
よほどディド・ズマの脅しが効いているらしい。
デンガドロイは大将らしく、ふんぞり返った姿勢で騎乗している。
横には副官と呼ぶべき騎兵もいた。
二人とも盾と槍を持ち、柄を威嚇的に
特にデンガドロイの豪壮な朱槍が目立つ。
傭兵から剣闘士になったという経歴ならば、かなり使うに違いない。
アベルはダビドに叫ぶ。
「まず僕が突撃する。ダビドは後ろから付いてくるだけでいい。盾を使って攻撃を防ぐか距離を取れ」
「やってみる!」
アベルは馬の横腹を軽く蹴って合図を出す。
迂回して剣闘士たちの背後に出るべく機動した。
こうしてやれば、いくら頭数で優位であろうと後方に注意を払わないわけにはいかない。
結果として徒歩の奴隷たちと交わるまで時間を稼げるのだ。
するとデンガドロイもまた副官を連れて飛び出してくる。
黙って後ろを取られるつもりはないらしい。
丘のような観客席の景色が流れた。
彼我の距離、急速に縮まる。
アベルは歯を食い縛り、馬を操った。
たちまち交戦だ。
怒りで眼を釣り上げたデンガドロイは唸り声を上げ、朱槍を繰り出す。
さすがに鋭い突き。
アベルは円盾で防ぐ。
反撃に
通り過ぎざま、奴はアベルの乗る黒馬の横腹を蹴った。
黒馬は驚いて嘶き、後ろ足で立ち上がる。
アベルは振り落とされまいと片手で
これぐらいの暴れ方ならば想定内だ。
ところが、アベルが鞍に座った途端、馬が再び暴れ出して、猛然と駆け出す。
それは完全に操作を離れた暴走だった。
「大丈夫だ! 大人しくなれ!」
アベルは黒馬の頸を何度も撫でる。
馬に気合を送るが、なんだか様子がおかしい。
しかも、跳ねたり暴れながら走るせいで敵との合間が詰まる。
――まずいぞ!
どうしたんだ?
アベルは体を捻って背後を見る。
すぐそこに、追いついて来た副官騎馬。
憎々し気な髭面が乗っていた。
槍を構え、容赦なく穂先を走らす。
正確にアベルの背を狙った、必殺の攻撃。
鎧がないから一撃で致命傷だ。
瞬間的にアベルは片足を鐙から抜き、体を大きく外に逃がして避ける。
胴すれすれを穂先が通過した。
アベルは
だが、内心は穏やかでなかった。
さっきまで確かに意思が通じていた馬なのに、いまや操作をほとんど受け付けない。
アベルは混乱しそうになるのを押さえつけて考える。
騎馬を諦めて、徒歩になるか。
だが、デンガドロイもいて十四人もの剣闘士が健在だ。
ここで騎馬の強みを捨てるのは、あまりにも惜しい。
すると黒馬が頸を反らせてアベルを見詰めてきた。
つぶらな瞳と視線が合う。
何かを訴えていた。
直後、気が付いた。
鞍に体重をかけなければ、黒馬は正気を取り戻す。
――鞍だ!
これが原因だ!
副官騎馬が再度、接近してくる。
髭面の男は眼を怒らせ、獰猛な殺意を漲らせている。
さっきのように躱されまいと慎重に狙っていた。
今度は、もう逃げられない。
アベルは
盾に阻まれたが、髭面が怯む。
アベルは邪魔な円盾を腕から抜いて捨てる。
馬を走らせたまま、ダガーを手にした。
両足とも
鞍と馬体を拘束する腹帯に刃先を当て、渾身の力で切断する。
鞍が馬から落ちる。
当然、鞍に連結された
手綱だけの、ほぼ裸馬だ。
観客たちから悲鳴とも驚きともしれない声が響く。
世間の常識では、馬に乗ること自体が特殊技能だった。
ましてや必須の馬具を失って騎乗できる者などいない、というのが当然の認識。
いつ落馬してもおかしくない。
そういう驚きだった。
だが、アベルは北方草原で戦っていた時、裸馬すら自由自在に操る遊牧氏族たちと交流していた。
その様子に触発され、ウルラウなどに教わりながら何度も練習を重ね、裸馬に乗るコツを掴んでいた。
しかも、手綱は失われていない。
黒馬は今や、完全にアベルの制御を受け入れていた。
「いいぞ! さぁ、一緒に戦ってくれ!」
副官騎馬とアベルの黒馬は闘技場を所狭しと駆け回る。
髭面の敵は、嘲るように笑っていた。
勝てると思っているらしい。
そう感じるのも無理はない。
アベルは
副官は馬に気合をくれて、増速。
距離を詰めてくるや、槍を慎重に定めた。
今度こそ外すつもりは無いらしい。
その慢心が隙だ。
アベルは時機を見抜き、手綱を思いきり引く。
黒馬は操作を受け入れ、急停止の動作。
槍がアベルのガラ空きになった胴へ繰り出された。
「糞奴隷め! これでも食らえ!」
アベルは穂先を凝視する。
捻りの無い、直線的な攻撃。
見極め、ダガーで跳ね上げた。
ブルブルと震える槍がアベルの冑を掠め、逸れていく。
同時に片手で刀を居合い抜き。
副官の肉に刃が滑り込み、片腕が飛ぶ。
血煙が青空に舞う。
アベルの頬に血が降りかかる。
「ぎゃああぁぁ」
二刀流になったアベルは無言のまま馬を寄せ、驚愕を浮かべる副官の喉に刀を突き刺した。
声を上げることも出来ず、血の塊を吐き出して副官が落馬した。
アベルは黒馬を颯爽と乗りこなし、闘技場を駆けた。
戦場を把握する。
デンガドロイとダビドの戦いは決着がついていた。
アベルを援護しようとしたダビドだったが、やはり馬の挙動が不自然におかしくなった。
そこをデンガドロイに襲われ、槍で腹を串刺しにされている。
瀕死になった彼は、高く持ち上げられたあと、白砂の撒かれた地面へ放り捨てられた。
助けようとアベルは黒馬を駆けさせるが、待っていたとばかりにデンガドロイは朱槍を振り下し、ダビドの胸を刺し抜く。
ダビドは逃げずに、最後まで援護のためにデンガドロイを邪魔してくれた。
だから、挟み撃ちにはならなかった。
もし二騎に同時で襲われていたらどうなっていたかアベルにも分からない。
アベルは怒りの声を咆える。
「デンガドロイ! てめぇだけは許さない!」
「はっ! この槍で何百人も殺してきたぞ! お前も、いい声で鳴かせてやるぜ!」
アベルは黒馬に気合を入れる。
呼応し、激しく
今や人馬一体。
アベルは刀を天に突き上げ、デンガドロイへ突撃した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます