第185話  膨らむ欲望



 

 解放と賞金を目指した奴隷。

 誇りと名誉を失うわけにはいかない剣闘士。

 手加減など起こり得ない戦いの勝敗が決しようとしていた。


 大円形闘技場にいる全ての者が試合を見守る。

 歓声を叫び、悲鳴を上げ、喚き、笑っていた。


 三対三の戦いが繰り返されること、ついに十回。 

 最後の試合こそ見ものだ。


 奴隷と剣闘士が肉体と肉体を、ぶつけ合う。

 互いに退くことの無い殺し合いの末……、たった一人の奴隷を除いて、後は全員が白い砂の上に倒れていた。

 

「えっ……」


 剣闘士の誰かが思わず声に出す。

 生き残った奴隷を数える。

 信じたくない結果だった。

 数え間違いであってくれと今度は指をさして調べるが、やはり頭数は変わらない。


 一人生き残った奴隷に審判者は勝利を告げた。

 先に試合を終えた奴隷たちと合流する。

 何度数えても奴隷は十人、生き残っていた。


「ひ、引き分けだと……」


 デンガドロイは長い溜息を吐き出した。

 驚愕、憤怒。

 目の前がチカチカと点滅する。


 内務大臣ヤザンから、この試合の話が転がり込んできたとき実は危険かもしれないと感じていた。

 その直感を自分で塗り潰した。

 そうせざるを得なかった。


 ズマに借りた金。

 どこまでも付いて回る金、金、金だ。

 何があろうと返済しなければならない。


 できなければ死ぬより恐ろしい目に遭う。

 それで承諾した。

 他に道など無かった。


 だいたい勝算は十分にあったはず。

 剣闘士の世界は、そんなに甘くない。

 即席の三人組など何をしたところで不利なのは知り尽くしている。


 しかも、手下には腕っ節自慢の荒くれが揃っている。

 殺しも厭わないどころか、むしろ好むぐらいの男ども

 追い詰められた奴隷は嫌な相手には違いないが、勝てると踏んだ。

 文字通り、人生を賭けた。


 だが、現実は計画通りにならなかった。

 デンガドロイは悪寒に震える。

 認められない。

 認めるわけにはいかない。

 

 唇を痙攣させたデンガドロイは審判者に向かって歯を剥き出し、あらん限りの大声で訴える。


「こりゃなんだ! イカサマだぜ、イカサマ! あの奴隷を見てくれよ! 死にかけの大怪我じゃねえか。あれで生き残りの数に入れるたぁ、おかしいぜ!」


 必死の抗議。

 年配の審判者は、まるで表情を変えない。

 いや、僅かに嫌悪の顔色を滲ませた。


「神官たる私が判断した。かの奴隷はまだ、戦える。であるならば誇りある選手だ」

「バカな……! そんな……」

「それとも審判者に対して無理を言い続けるつもりか。私はお前の無礼を最大限、堪えてきた。それというのも大王様主催の大事な闘技大会であるから進行を優先させたのだ。しかし、お前がその態度を改めぬなら、こちらにも考えがあるぞ」


 審判者は戦いの神に仕える神官だった。

 その権威は闘技場において絶対。

 デンガドロイは、どうすることもできず口を半開きにさせて佇むしかなかった。


 観客の多くが、この結果に感心したような唸り声を上げている。

 三対三の試合自体は剣闘士のほうが多く勝ったが、賭けそのものは引き分けに終わった。

 奴隷は果敢な戦いを見せた、という雰囲気になっている。


 デンガドロイは奴隷たち、取り分けて黒い羽根飾りの若い男を憎悪する。

 あいつが流れを変えた。

 しかも、渾身の脅しを屁とも思わない態度。  

 剣闘士組合ギルドの頭としての誇りをぶち壊しにされた。

 湧き上がる激しい殺意。


 その時、デンガドロイの名を叫ぶ声を聴く。

 全身に電流が走るような迫力。

 ズマの呼びつけだった。


 死にそうな気分でデンガドロイは歩み寄る。

 ズマが観客席から見下ろしてくる。

 直視できないような顔と眼つきだった。


「おう。デンガドロイ。とんだ泥船だったなあ。すっかり騙されたぜ」

「な、何かの間違いだ。嵌められたらしい」


 ズマは棍棒で大理石をぶん殴る。

 凄い音が響いた。


「あぁ?! 嵌められたのは俺だぞ! 豚の乳を飲んでいるような腰抜けばかり出しやがって! てめぇの手下どもは肉屋に持っていったところで銅貨にもならねぇ屑肉どもだからな! 切り刻んで海にでも捨てるしかねぇな!」


 ズマの言葉に裏などあるはずもない。本当にそうなるだけだ。

 それを分かっているデンガドロイは慌てて口にした。


「ま、まだ集団戦が……」

「奴隷どもの持ち主が応じればの話だろうが! 早くヤザンのところへ行って段取り付けてこい!」


 凶暴で湿り気を帯びた、粘っこいズマの視線。

 生きたまま人の皮を剥ぎ取る男の眼だ。

 幾多の闘争を経てきたはずのデンガドロイが恐怖に震えあがる。

 だから頷くしかなかった。


 ズマは慌てて走っていくデンガドロイを睨んでいたが、思考は別のところにあった。

 金だ。

 ハーディアを手に入れるために、莫大な富がいる。


 そして、表と裏の賭博、その両方に大金を賭けた。

 もちろん剣闘士の勝ちにだ。

 

 どうしても欲しい女のために駆け回り、七転八倒している。

 当のハーディアから反応はほとんど無い。

 一目会うことすら強引に押し掛けて、やっと叶うだけ。


 悔しさ、屈辱感が心に深く刻まれていく。

 その苦しみが、さらに強くハーディアを求めさせた。


 脳裏にはハーディアの艶めかしい体、無上に美しい顔が生々しく思い出される。

 何があろうと必ず、あの肉体を舐め尽くし味わい尽くす。

 だから、殺し、奪い、金を王に捧げ続ける。

 それだけだった。

 

 


~~~~~~~~




 ランバニアのもとへ秘書のダリアがやって来る。

 内務大臣のヤザン・グラシャートが急な件でどうしても面会を希望する、ということだった。


 いま、王族席は白い幔幕ですっかり隠されている。

 観客たちにも中は見えない。

 ランバニアは黒檀の椅子に座り、清々しい香気を放つ茶を飲みながら、わざと時間をかけて、それからヤザンを呼び寄せる。


 幔幕を開けて、五十絡みの老練な政治家が姿を見せた。

 頭髪は薄く、ほぼ禿頭。

 やや痩せ気味の体だが虚弱な印象は少しも無い。


 いつもながら意思の固そうな眉目をしている。

 才覚が無ければイズファヤート王のもと内務大臣の要職は勤まらない。

 ヤザンは適切な距離を置いてランバニアの横に立つ。


「ランバニア様。突然の訪れをお許しいただき、感謝しかありません」

「ヤザン大臣。まずはお茶でも飲んでいかれるといいわね。ホシャブ藩国でしか採れない珍しいものがあるのよ」


 内政面において数々の修羅場を潜り抜け、政敵を排除しながら出世してきた切れ者のヤザンだったが、隠しきれずに滲んでいる焦りをランバニアは見逃さなかった。

 普段なら何が起ころうとも表情をほとんど変えない男のはずが、顔色を赤くさせている。

 挨拶もそこそこに本題から切り出す。


「実は要件と申しますは、この奴隷と剣闘士の試合についてです。実質、剣闘士が勝ったようなものですが制度的には引き分けとなりました」


 ランバニアはゆっくりと微笑み、頷く。


「ええ、それはそうでしょう。賭けを成立させるために倍率や条件を設定しなければなりません。奴隷があまりに不利なら賭ける者がいなくなってしまう。公平な処置ですよ」

「その通りでございますが、引き分けで終わりとなれば観客たちが納得しません。ここはランバニア様に王族の度量をお示し願いたいのです」


 ヤザンの頼みは分かり切っていたがランバニアは、なお問い質す。


「どういう意味ですか」

「延長戦を宣言していただければ誰しも喜びます。奴隷の持ち主たちもランバニア様からの言いつけがあれば納得しましょう」

「ふぅん」


 ランバニアは足を組み、王宮において確かな立場を持つヤザンを見下す。

 彼とは互いの利権を侵さない消極的な協力関係を築いてきたが、理由はそれが一番得だからである。

 別に好意でそんな関係を保ってきたわけではない。


 潜在的には、やはり内政と利権の競合者であり、仮に失脚すれば彼の持っていたものを奪う機会でしかなかった。

 ヤザンは必死に説得を続けてくる。


 よほどこの闘技大会で大きな賭けに出ていたらしい。

 さらに派閥の長としての面目か、あるいは野心か。


「お願いです。ランバニア様が延長戦を望むとされれば誰も反対などしません。むしろ、このままでは折角の闘技大会が前座からして締まらないものとなり、民衆の不満が溜まります」 

「ところで大臣は集団戦を行えば、どちらが勝つと思うのかしら」


 ヤザンは頬をぴくりと痙攣させた。

 伺うような視線をさせて、質問に答えない。

 出世する者とは、自分が不利になる言葉への慎重さをどんな場合でも失わない。


「ねぇ、ヤザン大臣。剣闘士側の生き残りは十六人、奴隷は十人。それに奴隷は何人か怪我しているみたい。奴隷どもはずいぶん苦しいのではなくて」

「勝負事です。やってみなければ分かりますまい」

 

 ヤザンは中庸な、どうとでも解釈できる返事をした。

 その実、戦えば大半は死ぬことになる奴隷へ、少しの憐憫も持ち合わせていない態度だった。

 ランバニアは微笑を消して、ヤザンを冷たく睨む。


「あそこには私の奴隷もいるのよ?」


 ヤザンは頷き、意を決したように答える。


「ランバニア様に応じていただければ何らかのお礼は必ずします。このヤザンめは大王様の闘技大会が成功することのみを願っております。そのための苦労は惜しみませぬ」


 ランバニアは沈黙する。

 ヤザンに時間は無いが、自分にはあった。

 こんな場合、決して相手の望む答えを直ぐに与えたりはしない。


 徐々にヤザンの禿頭には汗が浮き出す。

 給仕から捧げられた茶に少しの興味も示していない。

 ランバニアはまるで意に介さず悠然と茶の香りを嗅いでいるとダリアが再び、やってきた。

 彼女にしては珍しく動揺していた。

 顔が引き攣っている。


「ランバニア様。イエルリング王子様の臣ディド・ズマ殿がいらしています。ご挨拶を希望していますが、いかがされますか」


 ランバニアは計算する。

 ズマは好き嫌いで言えば、嫌悪に値する男だ。

 だが、ハーディアの抑えになる。


 ハーディアほどの美貌と才能がある王族いもうとが王宮中枢で活躍するなどあってはならない。

 ズマと共に世界の辺土で戦いに塗れさせ、一生を消耗させるのが相応しい。


「いいでしょう。今日は王国にとって世にも目出度めでたき祝祭です。特別にズマと会いましょう」


 白い幔幕が捲り上がり、まこと醜怪な男が姿を現す。

 ズマの顔には恐れ知らずの尊大な笑みがあった。

 糸を引くような視線がランバニアの肢体に注がれる。


「これはこれはランバニア様。いつもながらお美しい」

「ズマ。祝いの日です。またイエルリング王子の臣であるゆえ特別に面会を許しました。跪いて礼を尽くしなさい」


 数万人の傭兵を従え、あらゆる暴虐を行うズマが素直に片膝を付いて、ランバニアの足下に這い蹲る。

 その眼が爪先から太腿の付け根までを舐めんばかりに往復しているのを王女は冷ややかに見つめる。

 どうしようもなく粗野で凶暴な男だが、美しいという賛辞だけは本音だったらしい。

 もっとも美への感動と情欲の区別がついているかは分からない。

 別にどうでもよかった。 


「揃いも揃って臣どもが集まり、どうしたわけかしら」

「なんのこともありやせんぜ。このシャキッとしない試合です。大王様の闘技大会が引き分けでは、このズマは情けなくて放っておけませんや。他の奴隷主たちには挨拶を済ませておきやした。みぃんな同じ意見でしたぜ」


 お膳立てをしたつもりか、ズマは悪相をさらに歪めた。

 笑っているようだった。

 

「ヤザンと同じことを言うのね。お前も延長戦を望むようですが、私には損なことです。私の奴隷がいます」


 ズマの、にやけた傲慢な笑みが深まる。


「奴隷? では俺が穴埋めの金を払いましょう。金貨百枚で足りやすか。なんなら、もっと払いますが」


 賭けに勝てば金貨百枚などシラミのようなものだった。


「あら。お金は持っているのね」

「へへへ。何しろ王都での投資は、これが全て儲けになっていやす。このズマ、しみったれた真似はしません」


 ズマには確信があった。

 奴隷一人に世間の常識を遥かに超えた高値だった。

 美女の奴隷だろうと、せいぜい金貨五十枚といったところだ……。

 誰も断るはずがない。


 ところが、ランバニアの蔑んだ視線がズマを貫く。

 澄んだ橙褐色をしたトパーズのような瞳。

 怖いものなど何もないはずのズマが思わず身を縛られる。


「ハーディアの夫にならんとする者が小さい話をしないでちょうだい。男が下がるわ」


 威厳すらある、まさに王族の声だった。

 ズマの背筋はぞくりと震えた。

 醜悪なズマの顔から媚び諂った下品な笑みが消え失せていた。

 凄味のある戦場の男の顔に変貌する。


 ランバニアはズマのどこを押せば欲が膨らむか理解しているつもりだった。

 ハーディアの名前を出されて引き下がるようなズマではないと。

 

 男たちの欲望を膨らませる。

 際限なく膨張するといい。

 詰めすぎた腸詰のように破裂するか、空でも飛ぶか。

 これこそ見ものだ。


「ヤザン、ズマ。お前たちが裏でどのような取り引きをしているのか私は干渉しません。ですがイズファヤート王の息女たる私を動かそうというのならそれなりのことをしていただきます」


 ランバニアは、いくつかの利権を譲るようヤザンに告げた。

 ズマには傭兵を有利な条件で貸す契約を結ぶよう言い放つ。


 ランバニアは以前から自分の軍団の貧弱さを自覚していた。

 とはいえ大規模な常備軍は金を食いすぎる。

 欲しい時にだけ働く兵を欲していた。


 だが、ズマに対して媚びるような態度など、何があろうと取るつもりは無い。

 必ず、弱みに付け込まれてしまう。

 こんな機会を利用して契約を結ぶべきだった。


 六万人の観衆が大いに、ざわついている。

 進行しない試合に途惑い、不満の声を上げていた。

 男たちに時間が迫ってきた。

 ヤザンには派閥の長としての誇りが、ズマには男の沽券がかかっていた。


 そして、二人の臣は怒りとも喜びとも見える顔つきで、恭しく承諾する。手際よく用意された誓紙に名と文言を書きつけた。

 さっそくランバニアは役人を呼びつけ、言う。


「ランバニア王女の名において、観客のために延長戦を命じます。奴隷主たちにも通達をしなさい」


 アベルは闘技場に響く告知人の声を聴く。

 延長戦を執り行うと、繰り返していた。

 観客たちの驚き、あるいは喜びの喚声が轟いていた。


 アベルの心は火焔のように熱くなる。

 戦いへの高揚感。

 あの卑怯な、デンガドロイという男と決着をつける。


 そして、奴隷から抜け出す。

 ランバニアを利用して王宮の奥深くに飛び込む。

 どんなことをしてもイズファヤート王へ近づくのだ。


 いずれ忽然と光が差すような黄金の瞬間が訪れる。

 奴隷が王を殺す時……。

 だから夢見る奴隷は戦うしかなかった。







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