第190話 父の想い
アベルが王族席から眺める大円形闘技場。
殺されるべき罪人が勝利して生き延びる。
大円形闘技場は驚きや怒りで騒然としたが、ランバニア王女の度量と罪人たちが平伏し額を地面に擦りつける姿を見て、かえってこれは余興と受け入れられたようであった。
ドルゴスレンらは武装した兵士たちに促され、やっと土下座をやめた。
アベルが見たところランバニアは、いささかも動揺していない。とはいえ、もしかすると実は危ない瞬間だったのもしれない。
もし記念の大会が失敗すれば、イズファヤート王の冷酷な処断があるに決まっている……。
アベルは地下へと消えて行くドルゴスレンたちを見送った。
地下に入ったところでリティクは伯父であるドルゴスレンへ語りかける。
「伯父上。王族席にアベル殿がいました。ランバニア王女の横に侍っていましたよ」
獄中にあって笑顔など絶対に浮かべぬ伯父が口元を緩めた。
伯父は戦闘技術を教えてくれたうえに、保護者にもなってくれた。
牢内では囚人間での暴行や虐待も激しい。
元将軍である伯父の助けがなければ無事でいるのは難しかっただろう。
リティクにしてみると二人目の父親のような気すらする。
「あれほどの男だ。放っておくまい」
「アベル殿は僕たちを命懸けで助けてくれた……。今だって見守ってくれていました」
「アベルと同じように諦めないことだな」
ドルゴスレンの言葉にリティクは強く頷く。
ほんの一時の交わりしかなかったはずのアベルという青年に対する深い信頼感は何なのだろうと自分でも不思議になる。
だが、あんな強くて優しい男になりたいとリティクは願っていた。
そして、リティクは思う。
逃げた妹はどこかで生き延びているはずであり、罪人として死んだ父母の名誉も回復させなくてはならない。
こんなところで死ぬわけにはいかなかった。
アベルの目の前でマカダン藩国のプラセム王子が槍を手にしていた。
軽薄な傲慢さに満ちていた顔が、今は怒りで真っ赤になっている。
試合は罪人の勝利に終わったわけだが、治まらないのが戦奴を用意したプラセムだ。
かの王子にしてみると面子を潰されたことになる。
宗主国である王道国に捧げる名誉の試合が、まさかの敗北となってしまった。
「お助けください! お助けください!」
怪我を負い、降服した戦奴が必死に命乞いを叫ぶ。
試合は見世物でもあるわけで、健闘をした末の負けならば許される場合が多いのだが、プラセム王子の怒りに染まった顔を見れば助けるつもりなどないのが分かる。
震える手で長槍を掴むなり王族席から身を乗り出し、戦奴に向かって突いた。
地面に押さえつけられた姿勢のまま背中を刺された戦奴がますます叫ぶ。
「プラセム様! どうかご容赦を!」
「恥をかかせおって! この役立たずども!」
王子は怒りのまま繰り返し槍を突くが、大した威力も無いような半端なものだから戦奴らは即死しない。
それでも十数回と突きまくれば戦奴は血塗れとなり、やがて息絶えて動かなくなった。
プラセム王子は槍を手放し、肩で息をしている。
それからランバニアに言うのだった。
「王女様。も、申し訳ありませぬ。まさか罪人ごときに遅れを取るような奴隷とは思わず、せっかくの祝いに汚点を残すとは」
アベルが見たところランバニアは敗北した戦奴を王子みずから手討ちにするという珍事を、ほぼ無視していた。
むしろ軽侮の度合いは深まったのではないだろうか。
「王子殿。見世物にも予定というものがあります。どうやら押しているようですので手短にお願いします」
そんなランバニアの返事に王子は慌てて頷き、試合再開を叫んだ。
せっかくの祝いを盛り上げようとしていた王子にしてみると想像もしていない事態だったらしく、疲労と驚きで息切れをしながら豪華な椅子に座り込んだ。
そうして試合は継続されたが、さすがに罪人側が完勝するという番狂わせは一度きりだった。
結局、あとから引き出された罪人ら、全ての死で決着がつく。
凶悪犯の無残な最期に観客たちも大喜びである。
アベルは内心でドルゴスレンらの健闘を喜ぶ。
不利な状況で、よく戦って勝利した。
迷宮探索も協力を鍛えることになったのだから無駄ではなかったのだ。
それにしてもアベルは不吉な予感がしなくもない。
罪人の身でありながら、あれほど目立った彼らが、どのような扱いを受けることになるか……。
闘技場は再び、次の演目の準備が急がれる。
血で汚れた白砂は掃いて集められ、新しい砂が撒き散らされた。
マカダン藩国のプラセム王子という男は、どうにも器の小さな人間だった。
不満から機嫌を悪くさせているのが傍目からも明らかだった。
すると山盛りの料理を乗せた盆を捧げ持つ侍女がアベルの前を通る。
ランバニアにしてみると客でもある王子がそんな態度では放っておくわけにもいかないらしく、気を遣って美人の侍女に食べ物や酒を運ばせていた。
裏を読めば、酒食を与えれば事足りる程度の男と見たのかもしれない。
実際、王子は分かりやすく機嫌を取り戻す。
今度は饒舌に語りだした。
「いやはや。なんとか恥の穴埋めをさせていただかねば。そうだ! ゾックをここへ呼べ」
すると王族席に巨漢の男が現れる。
いかにもな顔つきの戦士だ。
立派な鎧を纏っていることから低くない立場が窺い知れた。
「ランバニア王女様。奴は私の親衛隊長でゾックという者です。これから行われる王宮軍団の演目に参加させていただけませぬか。このままではマカダンの誇りに関わりまする」
思い付きで無茶なことを言い出したものだが、ランバニアは鷹揚に頷いた。
「ラベ・タルに言いつけおきます。将軍に頼めば何かしらに参加できましょう」
アベルは少し驚く。
今日のランバニアは恐ろしく気前が良かった。
属国の王子が出過ぎた要求をしているようにも思えるが度量の大きさで応えている。
白絹のソファに楽な姿勢で座っているランバニアに本当の王族としての風格が漂っていた。
大会の進行は遅れているようであった。
今度は関係者が顔色を変えてランバニアへ報告を上げてくる。
「進行を急がせてはおりますが、王宮軍団の方々は指示に従っていただけない場合も多く、申し訳ありませんが見通しは立っておりません」
「もとから演劇は夕方から始める予定です。篝火の用意は充分であると報告されています。座長や役者は私の言うことなら聞きますから遅れても問題ありません。それより陽が暮れてからではできなくなってしまう演目を間に合わせなさい」
ランバニア王女の冷静な判断が下され、役人たちが駆け戻っていく。
時間は正午を越え、ようやく前座的な見世物はおしまいとなった。
そうして、ついに主役である王宮軍団が登場である。
数百の旗を掲げ、選抜された千人の将兵が行進する。
地鳴りのような拍手が止まない。
アベルは先頭にラベ・タル将軍と息子のグノーを見つけた。
二人とも陽光に輝く鋼の鎧を身につけ、飾毛で派手な姿をしていた。
軍団はまず、当然のことだが王族席の前で整列をして、儀礼を尽くす。
これに対してランバニア王女は将兵に祝福を与える。
これは厳かな儀式であり、アレキア王家の武威を民衆に知らしめるのであった。
民ばかりでなく貴族たちも興奮して一心不乱に拍手喝采。
今や王道国は中央平原の大部分を掌握し、宿敵である皇帝国本土へと攻め込んでいる。
王族たちの軍団は各地で敵を打ち破り、連戦連勝。
多くの者が同じ幻想を見ている。
すなわち、イズファヤート王は世界を征服すると……。
民衆とは浮かれやすいものだ。
重税に苦しむ一方で、途方もない勝利に酔いもする。
この右や左に振れる不確かな群れを、絶大な武力と恐怖で統括するのがイズファヤートの政治だった。
だが、確実に勝利の甘い蜜も与えていた。
王道国という国家はイズファヤートに支配されて、巨大な力を身につけた。
その力の全てで皇帝国を滅ぼそうとしている。
出来そうにも無いはずの狂った目標が、今や現実味を帯びていた。
~~~~~~~~~~~~
剣闘士との戦いが終わった後、カチェはアベルの凱旋を見守ることしかできなかった。
どうか気が付いて、そう心で叫ぶがアベルは通り過ぎてしまう。
「こんなに近くに居るのに助けられないなんて……」
ハーディアはその呟きに胸が痛む。
自分の想いと全く同じであった。
アベルが奴隷になってしまったのは兄ガイアケロンを助けるためであった。
初めは密使として訪れたはずなのに、いつしか真の献身を見せてくれた。
そして、別れ際のアベルの言葉を思い出す。
ガイアケロンに力を貸したいだけだった、という告白。
どこから現れたのだろうと思うほど不思議な青年だった。
そして、そのアベルを愛していた。
助けなければ、という気持ちは抑え難い。
カチェとハーディアは席を立つ。
闘技場に来たのはアベルの姿を確認するためだ。
試合が終わったら直ぐに外へ出る予定になっている。
二人は人が犇めく通路をどうにか進み、階段を降りて豪華な色彩の施された廊下を歩む。
兵士たちが厳重に守りを固める出口を進もうとすると、検問で止められてしまった。
役人が慎重に聞いて来る。
「おや。うら若き貴族のご令嬢様がどうかされましたか。王宮軍団はこれからの登場ですよ」
ハーディアが淀みなく答える。
「素晴らしい試合でしたが、私たちは血に慣れていません。あまりに激しい戦いでしたから少々気分が悪くなりましてよ。だって、手足が斬り飛ぶなんて……」
「広場の泉で涼んでから、また戻ろうと相談しましたの」
二人とも血どころか死にも物怖じなどするはずもないが、そのように演技をすれば役人の男は納得したようだった。
闘技場の外へと出る。
急いでウォルターと申し合わせていた記念碑の尖塔へ歩いていくと、叔父とダンテは既に待っていた。
カチェは思わず駆け寄りざまウォルターに訴える。
「アベルを見ましたか。あれほど見事な戦いはありましょうか」
「ええ。あいつ、まさかあれほどまでに強くなっているとは思いませんでした。しかも、馬が途中で機嫌を悪くさせたのに立ち直して逆転したうえに、剣闘士の頭領と決闘までするとは」
「凶悪なことで名高い男だったようです。周囲の貴族もアベルを褒め称えておりました」
ウォルターは息子の奮闘に、もはや言葉も無いようであった。
カチェは意を決して伝える。
「ウォルター様。アベルを助けることができるのは今日をおいて他にないかもしれません。警戒の厳しい王宮の外にいるのです。もしや千載一遇の機会なのではありませんか」
「確かにカチェ様の言いようも分かります……」
ウォルターは考える。
もしアベルを助け出すことができれば、そうして何もかも上手くいけば、カチェとアベルを皇帝国へ送り帰せる。
これはあまりにも大きな利益だった。
アベルを奴隷のまま置き捨てれば、また今日のような危険な目に遭わされるかもしれない。
父親として息子には妙な機転の良さや忍耐強さがあると頼もしく感じていたが、もはや不安が抑えられなくなっている。
想像を超えた異常事態だ。
ウォルターは帝都のハイワンド家でほんの僅かな間だけあった家族団欒を思い出す。
アイラ、ツァラ、アベルがいて、何も欠けていなかった。
もしかしたら完璧な幸福に限りなく近かったのかもしれない。
仕事をして家に帰ると、愛する妻が美味い料理を用意して待っている。
子供たちは腹いっぱい食べて、育っていく。
忠実なワルトもいて、時には息子の幼馴染が遊びに来ると賑やかだ。
あの幸福を取り戻すのは父親としての義務ではないのか?
いかに任務があろうとアベルを見捨てるような男が父親として正しいのか?
自分はかつて禁断の魔術「自己生命抽出」を使ったことがある。
それはアベルを助けるためだ。
父親として当然の行いだった。
ウォルターはハーディアへと視線を移す。
王女は切実な気配を湛えているが、同時に傾城の姫と呼ばれるに相応しい異様な色香をも纏っている。
「ハーディア様。もし、助け出すのならどのようにやるのが最善でしょうか」
ハーディアは一瞬だが、激しく迷う。
きっと兄ならばアベルの言うように今は待て、となるだろう。
だが、今日のような血塗れの闘争を見てしまうと打算が破滅を招く予感がしてしまう。
結局、人生は決断だ。
カチェはとっくに覚悟と決断をしている。
ハーディアは答えた。
「アベルがどこにいるのか分かりません。それに場内ではこちらも向こうも自由はないでしょう。一番、助けられる可能性が高いのは移動中です。奴隷たちは檻に入れられて馬車で移動するようですが警護の兵士が少ないなら、あるいは……」
「やはり手荒い方法しかないか。せめて手引きがあれば」
「細作を送り込んだことはありますがランバニア王女の周囲は忠誠心のある下僕に守られ警戒が厳重でした。下手なことをすれば却って危険でしたので一度しか試みていません。ですが、襲って救出したとして、その後はどうしますか」
「西方商友会と関係を深めてあります。実は頭取であるヤノーシュ・シフの信用を勝ち取っていますので、目立たずに移動したいと頼めば便宜を図ってもらえるでしょう」
ハーディアは驚く。
西方商友会と言えば世界中に販路を持つ有力組織だ。
表向き、皇帝国との直接取り引きはしていないが、商いの業界には独特の抜け道がある。
王道国から脱出できる目算が高まっていた。
カチェが口を開く。
「急ぎ宿に戻ってワルトと合流し装備を整えましょう。見れば街には鎧や剣を身に付けた者も珍しくなく、咎められはしないはずです。
おそらくアベルはランバニア王女と共に帰城するはず。アベルは奴隷ですから檻のある馬車で運ばれることでしょう。得物があれば檻の扉ぐらい苦労もなく壊せます」
状況は整って来た。
幸い、王族や貴族たちが使う専用道路がある。
ランバニア王女もまた、そこを通るに決まっていた。
さらにハーディアは知っていることを言わないわけにはいかない。
「夕方に演劇があります。ランバニア王女が贔屓にしている役者や詩人が出演するので、きっと観てから帰るでしょう。移動は夜になるかと。王女の乗る輿は象牙と白檀で造られた、白く輝くような特別製です。夜間は輿に備えてある燈台に
つまり、そんな輿の傍を移動する、それらしい馬車を奪うなり止めるなりすればアベルを助けられる……。
ここに居る誰しもの胸に同じ想像、期待と警戒が渦巻く。
しばし、沈黙するがウォルターはハーディアに言う。
「ハーディア様は急いで戻り、多くの方とお会いなさるがよいでしょう。ここに居たという事実が薄らいでしまうように日頃は親しくない人物とも話されると、さらに具合がよいかもしれません」
「な、何を……! 私も救出に全力を尽くすと誓いました。上辺だけの約束ではありません」
だが、ウォルターは首を横に振った。
「ハーディア様が残ると言われるならば我々は事を起こしません。確かに貴方たちに落ち度がなかったとは言いませんが、謁見を頼んだ我らが無責任と言うつもりもない。それにアベルはハイワンド家の身内。俺の息子。助けるのは俺の役目です」
ウォルターは乱暴な行動に否定的であったはずだが、今は態度を変えていた。
だが、カチェは共感する。
あんな剣闘士との戦いを見て、このまま放置などできるものか。
もし、このままにしてアベルに何かあれば悔しさで死んでしまう気すらする。
ハーディアは闘技場にほど近い神殿へ、ふらふらと歩いていく。
そこでは信頼する二人の配下、スターシャとクリュテが待っていてくれた。
そうしてカチェやウォルター、ダンテらと別れた。
彼らは王都の雑踏へ消えて行く。
群衆に紛れて、すぐに姿は見えなくなってしまった。
全身が潰れるような重たい運命と、実りそうもない愛は火傷のように熱く心を痛めつけている。
ハーディアは自分の力が及ばない事態がやってきたのを感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます