第125話  騎馬隊長アベル

 





 アベルは馬を疾駆させる。

 体を覆う鎧や冑が振動で音を立てた。

 馬の律動に合わせ、上手いこと腰を上下に動かさないと尻が鞍にぶつかって痛くなってしまう。


 空には厚く黒い雲が垂れ込めていた。昼なのに薄暗いほどだ。

 粉雪が少し降っている。

 かなり寒い。

 吐く息が白かった。

 季節はそろそろ初春であるのだが、僅かも暖かくならない。

 いつになく寒波が続き、天候は雪ばかりで晴天の日はほとんどなかった。

 異常気象である。

 およそ五十年ぶりの厳しい冬だと年寄りたちは噂していた。


 場所は旧レインハーグ領。

 もともと皇帝国の領土であったが、いまは王道国のリキメル王子が統治している。

 だが、その支配も風前の灯火のようなものだった。


 現在、リキメル王子はコンラート皇子の軍団に襲われている。

 長兄イエルリングの軍団は遠方地で冬期宿営中であり、リキメル王子を本格的に救援できるのはガイアケロンとハーディアの軍団だけであった。

 ガイアケロンはコンラート軍団と再び戦うために軍団を集結させて戦いに備えている。


 固く凍った雪の上に新雪がさらに積もっていた。

 アベルの乗る馬は雪原を掻き分けるようにして、猛然と進む。

 雪氷が飛沫になって舞い上がる。


 ガイアケロンから与えられた牡の名馬だった。

 名前まであってフィルマという。

 馬体にも性格にも欠点のない見事な馬。

 優美で強靱な筋肉が躍動するたびに速度が増す。

 枯れ木と雪ばかりの荒涼とした景色が流れるように去って行く。


 アベルは二百騎から構成される強襲偵察隊を率い、先頭を突き進んでいた。

 部隊はもともと百騎だったが、今は増強されている。

 背後に続く騎兵たちは主に草原氏族の出身だった。

 剽悍な性格の彼らが指揮官に求めるものはただ一つ、強さのみ。


 アベルは何度も危険な勝負を繰り返して、一度も負けること無く彼らの信頼を獲得した。

 集団戦は敵とぶつかる前に味方を掌握することから始まる。


 アベルは丘を認めた。

 停止の合図を配下たちに送る。

 急いで下馬して、丘の頂上へ走っていく。

 後ろからカチェ、スターシャ、シュアット、ワルトなどが同じように付いてきた。

 

 スターシャは別部隊である遊撃隊の隊長なのだが、十人の側近を連れて加勢してくれる。

 助けてやるというのは建前で、好戦的な彼女は刺激を求めて参加したに違いない。


 頂上付近、アベルは前屈みで歩き、慎重に稜線から頭を伸ばすと景色が開ける。

 雪原の先に敵の姿を見つけた。

 アベルは目をこらして旗を観察する。

 コンラート皇子派閥、ドラージュ公爵家の部隊だった。


「意外と多いな」


 思わず呟く。

 目測、千人近く。

 荷駄馬が五十頭ほど列をなしていた。

 それから背負子で物資を運んでいる男たちが大勢いる。

 輸送部隊らしい。

 槍を持った歩兵が隊列を防御していた。

 騎士と従者らしき姿も見える。


「アベル、どうするの?」

「もちろん突撃です。楔陣形がいいな」

「人数だけなら五倍ぐらいいそうですけれど」

「今なら奇襲になる」


 鋭い眼差しをしてそう答えるアベルにカチェは沈黙するしかなかった。

 こうなったら自分は従うしかない。

 スターシャが攻撃決定となって嬉しそうに賛同している。やる気満々だ。

 アベルたちは直ぐにとって返して馬に乗った。


 いよいよ強襲となりカチェは、やはり思い悩む。

 皇帝国に戻ればテオ皇子のもとで、いくらでも活躍の機会に恵まれたはずなのにアベルは全て捨ててしまった。

 たとえガイアケロン王子の強い引き留めがあったとしても、むしろ積極的に戦いへ身を投じたように思えた。


 どうしてそんなにも好き好んで危険へと接近していくのだろう。

 もっとも、普通ではないのは昔からのことではあるが……。

 想い耽っていたカチェは、アベルの気迫漲った号令を聞いて我に返った。


「丘の先に約千人の敵が居る。輸送部隊だ。兵士は四百程度。まず騎士を狙って攻撃。それから隊列を突破して分断する。敵を蹴散らせ!」


 数百人を統率する者として申し分ない覇気をカチェは感じる。

 大声で返事をしないように注意してあったので、騎馬戦士たちは無言のまま戦闘準備を始める。

 それまでただ一群の塊であった人馬が素早く戦闘位置についていく。

 やがて二百騎は、楔形くさびがたの隊列を形成した。


 先頭はアベル。左翼先端がシュアット。右翼先端がカチェ。

 臨時の助っ人であるスターシャはアベルの後方へ馬を寄せた。

 ワルトはいつでも主人の横にいる。


 騎馬隊の楔隊形には大きな利点がある。

 それは原理的にただ一頭が先端を走るので、その先頭者の進行方向に従えば容易に方向転換ができるところだった。


 これが数列の縦横隊であると複数の最前列者がいるので、どの方向へ進むべきか迷った時などに遅滞が発生しかねない。

 当然、そういうことを回避するため、進行方向を決める指揮官の冑に飾りがついていたり旗などがある。

 しかし、そうした工夫をしても、やはり細かく機敏な方向転換には菱形、あるいは三角形のような楔形が向いていた。


 興奮した馬たちの体から濛々と湯気が湧いている。

 二百頭もの馬体から発散されるので煙のようになっていた。


 戦いの気配は最高潮に達する。

 先頭のアベルは槍を高く掲げた。

 一糸乱れず全騎が進む。


 アベルの心臓は激しく鼓動する。

 息が荒くなる。

 怖くないと言えば嘘になる。

 何度繰り返しても戦闘は恐ろしい。

 人が野獣となって、凶暴さを比べ合うのだ。


 轟音を響かせた馬群が丘の麓を越える。

 さっそく気がついたドラージュ公爵の手勢が右往左往していた。

 もともと戦闘員ではない運搬人は混乱しつつ走って逃げている。

 敵の荷駄馬が異常な雰囲気に怯えていた。

 戦闘訓練を積んでいない馬は容易に人間の制御から放れてしまうものだった。


 アベルは戦闘の動きを五感で感じる。

 明らかに最高の奇襲になっていた。

 敵にとって雪と湯気を撒き散らしながら猛速度で迫ってくる馬群は、数倍以上の軍勢に見えているはずだった。

 ぐんぐんと縮まる距離。

 槍を持った兵士が数十名ほど慌てて戦列を作ろうとしているが遅い。


 一斉に馬上弓から矢が放たれる。

 金属の鎧や分厚い毛皮を貫く場合もあれば、防がれてしまう場合もある。

 いずれにしても体に矢が当たって精神的に動揺しない者は少ない。


 アベルは騎士を見つけた。

 鏡のように輝く全身鎧を装着して、その上から毛皮を羽織っていた。

 その胆力豊かな騎士は馬を降り、従者に持たせていた大型の楯に隠れる。

 槍をしごいて、アベルたちを待ち構えていた。

 冷静に反撃の機会を窺う、大胆不敵な敵こそ戦うべき相手だった。


 アベルは魔力を活性化させる。

 不可視の力が体内で嵐のように渦巻く。

 やはり成長と激しい戦いに鍛えられ、確実に魔力が強くなっていた。


 赤熱した鉄塊に似た輝き。

 アベルの頭上に生まれる。

 急激に紡錘形へと変化していき、次の瞬間、飛翔していく。

 

 騎士を守っていた大楯に命中。

 爆発。

 臓腑に響く衝撃。

 騎士と従者がまとめて粉砕された。

 さらに周囲の兵士が衝撃波で体ごと空を舞う。


 アベルは馬を駆けさせたまま敵の群れに突入。

 逃げる兵士を馬で跳ね飛ばした。

 配下の騎馬戦士たちも同じように突っ込んでいく。


 やや歪になった楔形の騎馬隊列が、敵の防御を呆気ないほど簡単に突破してしまった。

 アベルは反転のため大きくUの字に動く。

 背後の騎馬たちは、間違いなく同じ挙動をしてくれた。

 まったく乱れがないまま騎馬隊は方向を変え、さらに蹂躙。

 アベルは仲間たちに感心する。こうした行動自体、練度の低い騎馬部隊では絶対にできない。


 騎馬戦士の中には投げ縄に巧みな者もいる。

 それは本来、遊牧民族である彼らは家畜を捕えるときに投げ縄を利用するからであった。

 突破のとき、巧妙に投じられた投げ縄に引っかけられた騎士や兵士が、雪上を引き摺られていた。

 これは威圧の効果が高く、ドラージュ公爵の部隊に激しい動揺が見られる。


「楔形を崩すな! このまま突撃を繰り返す!」


 アベルの叱咤に答えて騎馬戦士たちから怒声のような返事があった。

 その後、さらに二回ほど突撃蹂躙を繰り返すと敵は潰走していく。

 

 この段階になってアベルは楔隊形を解いて、各個に散会攻撃をするよう命じた。

 徒歩で逃げた運搬人は馬で追えば、まもなく追いついてしまった。

 命乞いする彼らは戦士ではないので逃がしてやることにする。

 貴族でなければ身代金も取れないので捕らえたところで、ほとんど旨味は無い。


 しばらく一方的な攻撃が続き、頃合いを見て集合のラッパを吹かせる。

 スターシャが輸送部隊の隊長らしき騎士の生け捕りに成功していた。

 馬を寄せてくる。


「アベル。どうする。さらに追撃するのか」

「もうやめておく。深追いは禁物だ」

「早く帰ってガイ様に勝報を届けよう」


 スターシャが笑った。

 その美貌には独特の凄味があった。


 アベルたちは荷駄馬を捕え、さらに物資を一カ所に集める。

 放置されている橇には小麦や葡萄酒、燻製肉、油などが乗っていたので、それはそのまま略奪してしまう。

 奪えない物資は放火することにした。

 魔法で炎を浴びせれば盛大に燃え上がったものだ。


 味方の損害はほとんど無かった。死者一名。重傷一名。軽傷数名ほど。

 逆に討ち取った敵は少なく見積もっても百人以上。

 捕虜にした騎士が三名。

 大勝利だった。


 アベルは直ぐさま部隊を撤収させる。

 念入りに三日もかけて大迂回し、この奇襲地点まで移動してきた。

 敵が反撃を仕掛けてくると小勢で孤立してしまう。

 そうとなれば危機に陥るのは自分たちの方だ。

 速度が最大の武器だった。




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 二日後、アベルたちはガイアケロン軍団の陣営に戻る。

 様子を見れば勝ったか負けたかは一目瞭然。

 戦利品を馬に乗せて帰還したとなれば大声援と決まっていた。

 アベルはカチェとシュアットに事後処理を任せて、急いでガイアケロンへ報告に向かう。

 戦況は不透明で、行動は急がなければならなかった。

 スターシャがアベルの後を付いてくる。


 一騎、アベルの方へ素晴らしい速度で近づいてきた。

 黒毛の馬に、大柄の男が乗っているようだった。

 誰だろうと思っているとスターシャが呻き声を上げる。

 アベルが見ると珍しく彼女の濃い青の瞳が、困惑の色を浮かべていた。


「どうした」

「苦手なやつが来た。ヴァンダルだ」

「誰だろう、そのひと?」

「ドミティウス将軍の息子。ガイ様の馬廻りを務めている。あいつ、あたいに言い寄ってきているのさ」


 性格はともかく、見るからに気性の強い美人であるスターシャは多くの男達から懸想されているようであった。

 アベルはドミティウス将軍を思い出す。

 ガイアケロンに一度、引き合わせて貰った。


 岩塊のごとき中年の男で、髭面に炯々とした眼が光っていた。

 歩兵の運用に抜きん出ていて、ガイアケロンが頼りとする武将の中でも特に重要な人物だった。


 ヴァンダルの顔が分かるほど近づいてきた。

 やはり親子だけあって父親であるドミティウスに似た面影、だが体格は一回りでかい。

 褐色の毛髪は短く刈られて眉が太い。

 目つきは獰猛なほどで、顎が大きく頬に傷痕まである。


 どう見ても腕っ節の男だった。

 迫力があるので若く感じないが、実年齢は二十代の半ばぐらいではなかろうか……。


 ガイアケロンの馬廻りといえば最精鋭の選抜者。

 側近将校と呼んでもいい立場だ。

 厳選の結果、数万人の軍団においてたったの三十人ほどしかその名誉職には就けていない。

 だが、ガイアケロンとハーディアの膝元で鍛えられた彼らは千人長に抜擢される可能性も高く、なにより英雄二人の至近距離で働けるため希望者は非常に多い。


 ヴァンダルはスターシャに笑顔を向けている。

 少し照れたような表情だった。

 アベルは苦笑を堪えた。

 誰がどう見ても恋する男の顔だった。


「スターシャ! 心配していたぞ」

「あらそう。ご勝手に」

「勝ってきたな。いつもながら凄い女だ。どんな戦いだったか聞かせてくれ」

「あたいとアベルはガイ様に報告がある。どけ」


 なんとも冷淡な受け答えだった。

 ヴァンダルはやや狼狽えている。

 それからアベルへ視線を転じた。

 表情は一転、口元を引き結び、闘志らしきものを燃やしている気配すらある。


「おい、アベル」

「……僕は貴方のこと知らないけれど」

「俺はヴァンダル。馬廻りの顔と名前ぐらい全員憶えておけ」

「これで貴方のことは憶えたよ」

「アベル、お前はスターシャと親しいらしいな。いいか、言っておくが指一本でも触れてみろよ。叩き潰すぞ」


 なんとも一直線な警告だった。

 顔つきだけ見ると冗談とは思えなかった。

 ヴァンダルの褐色の瞳は興奮で濡れ、血走っている。

 本気で首をへし折る勢いだ。


「ガイアケロン様の馬廻りともあろう者が私闘を吹っ掛けるのは感心しないな」

「俺は御方に命を捧げているつもりだが、これだけは譲れねえ。それに無茶な要求をしているつもりもない。スターシャに手を出さなければいいだけのことだ。できるよな?」


 アベルは考える。

 別にスターシャをどうこうしようなどとは思わないが、言いなりになるのが気に食わない。

 ところが結論を出す前にスターシャが動いた。


 馬を寄せると、いきなり張り手をヴァンダルの胸板に食らわせた。

 激しい音。けっこう本気の強烈なやつだった。

 彼は痛みで顔をしかめている。


「あたいはいつお前の物になった! くだらないこと言っていると張っ倒すぞ。報告があるから邪魔すんな」


 もう張っ倒しているじゃないかと口に出したくなったが、アベルは黙っていることにした。

 下手に介入すると火傷する。


「さ、行くぞ。アベル」


 そう促されて馬を進めたが、アベルは背中から殺気じみた視線を感じた……。


「はっきりしているな、スターシャ」

「抱かれる相手ぐらい選ぶさ」

「いい男じゃないか。いかにも戦士って感じ」

「まぁ普通の男。まったく刺激不足」


 なんとも完全な一刀両断だった。

 将軍の息子で武術も嗜んでいるだろう彼はどうみても普通ではなかったが。

 アベルはヴァンダルという男がちょっと哀れになる。

 そんな軽口を叩いている間に本陣が近づいてきた。


 陣幕の全方向を、槍と盾で武装した親衛隊が立哨している。

 彫刻のように動かない。

 入り口で取り次ぎに用件を伝えると直ぐに中へ通された。

 アベルがスターシャの横顔を見ると、勝利を報告できるのでやたらと嬉しそうだった。

 得意満面だ。いつもの暴力性が嘘のように可愛げがある。


 アベルが重なり合う陣幕を潜って中へ入ると、その奥に王族兄妹がいた。

 若年にして王者の気配を感じさせるガイアケロン。

 灰色と薄青の混じった涼しい瞳がアベルを認めて柔和になる。

 この笑顔に初対面の人物は驚くらしい。

 ガイアケロンの華々しい武勇ばかりが先に伝わっているため、もっと厳めしい人物を想像するからだった。


 隣にはハーディアもいる。

 ここのところハーディアのアベルに対する態度には、はっきりした変化があった。

 以前は距離を置いたような、信頼というよりも利用を感じさせる姿勢だった。


 しかし、密約がなってからというもの、特に見込んだ仲間への態度を感じさせてくれる。

 それが王女一流の演技なのか本心なのか、アベルにはまだ良く分からないが。

 今もハーディアは何とも高雅な微笑みを向けている。

 琥珀の瞳に見つめられると、つい妙な気分になってしまう。


 アベルは気持ちを切り替えて簡潔に報告を終えた。

 ガイアケロンが頷き、労いの言葉をかけてくる。


「アベル、スターシャ。よくやった。こうした小規模な戦いに勝ち続ければ、相手は部隊移動に際して多くの護衛を付き従わせる。苦労を強いることになるであろう」

「あたしが捕えた騎士の捕虜はあとで移送します。お好きになさってください」


 それからハーディアが戦況全体の動きを教えてくれた。

 一度は撃退されたコンラート軍団はリキメル王子が統治している旧レインハーグ領の攻略を目指しているという。

 まずは中心都市であり城のあるケルク市を包囲する動きを見せている。


 これに対してリキメル王子は市に約六千人の籠城部隊を置き、自身が率いる一万数千名の戦力を、ある別の場所に退避させているらしい。

 ガイアケロンが先発させた将軍ドミティウスと弟シラーズ王子の軍団は、他の地域に布陣している。


 隠れているリキメル軍団と違い、シラーズ軍団はわざと位置を敵に暴露させていた。

 敵の目を集中させるための陽動だった。


 陽動をするのは戦略的な意味があるとハーディアは言う。

 コンラートの攻略目標であるケルク市の内外に兵力があるとすれば、相手は戦力を二分しなければならない。

 攻城のための軍団が背後からの攻撃に無防備というわけにはいかないからだ。

 もちろん大兵力があれば二方面作戦を実行して不足なく戦える。


 しかし、コンラート軍団は先の戦いで大きな痛手を負っていた。

 現在の総兵力は五万ほどらしいが、士気は確実に低下しているという。

 ハーディアは言う。


「冬季の攻撃を強行したコンラート軍団はケルク市への攻略に重点を置いています。どうやら密かに布陣して反撃を狙っているリキメル王子とは後で戦うつもりらしいのです」


 アベルは浮かんだ疑問をガイアケロンに聞いてみる。


「コンラート軍団の方針、何か整っていないですね。ケルク市への攻撃を優先するといっても、どこかに敵がいるとなれば結局は全兵力を傾けることができないのでは」

「その通りだ。だが、それでもケルクの守備部隊は約六千程度。損害を恐れなければ無理な城攻めで落とせる……と考えたのだろう。だが、我の得た情報によれば、コンラート軍団の将兵に勢いがない。しかも、悪天候続きでケルク市の包囲もさほど進んでいない」

「潜んでいるリキメル王子から先に倒せば……ケルク市の籠城部隊は降服するかもしれないですよ」

「おそらく隠れている兄リキメルの軍団を捕捉して合戦に持ち込める見通しが立たないのであろう。下手に移動するのを警戒していると見た。だから拠点攻略を選んだ」

「コンラートが何よりも恐れているのはガイアケロン様の援軍」

「そうかもしれない。あるいは、まだ何か作戦でも巡らせているか。とにかく兄と会談をして方針を決定しなければならない。これから会いに行く。アベルも来てほしい」

「はい」


 アベルは指名された理由に心当たりがある。

 兄であるリキメルを警戒しているのだろう。

 王族同士の関係は権力闘争が複雑に絡んでいて、どのような場合でも油断できないという。


 今のところリキメルが早急にガイアケロンやハーディアを暗殺する理由はあるだろうか。

 二人を抹殺すれば、後に残った精強な軍団をそっくり引き継げるかもしれない。

 戦力が喉から出るほど欲しいリキメルがそうした短慮に走らないとも限らないのだった。

 アベルは陰湿な王族たちの関係に緊張を覚える。


 横にいたスターシャはアベルに嫉妬していた。

 ここのところ王子はたびたびアベルを身辺に近づけている。

 馬廻り以上の重用と言えた。

 たしかにアベルはそれだけの男だが、自分とてもっと役に立てる。そう強烈に感じるのだった。


「あの……。ガイ様。あたしも従者として連れて行ってください」

「スターシャ。お前は遊撃隊に戻って前線警戒をしてほしい」

「どうしても、連れて行ってはもらえませんか」

「アベルを連れていくには理由がある。スターシャにしか出来ないことを命じているつもりだ」


 最後に優しい声を掛けられてスターシャは再びご機嫌であった。

 アベルは単純だなぁと思うのだが、ちょっと可愛いから不思議だ。

 軍陣を出たところでスターシャと別れ、アベルは一人で歩く。

 カチェの食事を作らなければ……などと考えていると目の前に立ちはだかる男がいる。

 あのヴァンダルという馬廻りだ。


 嫌な感じがして方向を変えようとしたら、別の男が進路を塞いでいた。

 どうみてもヴァンダルの仲間だった。

 ヴァンダルが速足で接近してきた。恐ろしい形相をしている。


「なんだよ。ヴァンダル」

「アベル。おめーは最近、やけにガイアケロン様に呼ばれているじゃないか」

「戦闘していれば報告ぐらいあるさ」

「スターシャは?」

「部隊に帰った。期待外れですまない」

「ふん。いや、これならこれで都合がいい。お前には長幼の序ってやつを教えてやる」

「喧嘩なら他の奴とどうぞ……」

「訓練だ!」


 訓練と言い張ってボロ糞に叩き潰す狙いが見え見えだった。

 負ける気はしないが、恋に目の眩んだ男と争えば後が怖い。

 さらにはガイアケロンの馬廻りと関係が悪くなるのも避けたい……。


「それなら飲み比べで勝負しよう」

「ああ?」

「奪った酒がある。樽ごと飲ませてやるよ」

「そ、そんな口車にだな、誰が乗るものかっ」

「じゃあ飲み終わったら拳闘でも何でも相手をしてやるから」

「よ~し! たっぷり後悔させてやる。俺はかなり飲めるからな。足腰立たなくしてから引っくり返して……」

「分かった分かった。行こうぜ」


 アベルはぞろぞろとヴァンダルたちを引き連れて歩く。

 ヴァンダルの仲間たちは少し安心したような顔をしていた。

 おそらくスターシャに冷たくされて荒れ狂ったヴァンダルに押し切られただけで、変な騒動を起こしたくないに決まっていた。


 ガイアケロンの統制は厳しいから、下手をすれば厳罰である。

 もしかするとヴァンダルがやりすぎないように見張るつもりだったのかもしれない。


――ここは上手いこと丸めてやらないと……。


 アベルは強襲偵察隊の軍陣に帰るなり、奪った物資が積んであるところへヴァンダルを案内した。

 小さな樽が山積みになっていて、中は葡萄酒だ。

 水で割らないと濃すぎるぐらいのやつだったが、構わず渡した。


「いいか。どっちが多く飲めるか勝負だ。あまり長い間休むのは禁止。じゃあ始め」


 椅子は無いので立ったまま栓を抜いて飲み始める。

 赤の葡萄酒。渋みが強くて濃厚な風味だった。

 名品と言うほどの味わいでもないが……まあまあ美味い。

 葡萄酒は瓶や樽の中で熟成されるが、その過程で水分が飛ぶため徐々に強い酒になっていく。

 ヴァンダルは酒好きらしく、厳めしい顔を思いのほか綻ばせていた。


「ヴァンダル。こいつはけっこう味がいいよなぁ。当たりだ。でもちょっと濃いかな」

「いいや。アベル。俺はこれぐらいの方が好みだ」

「酢漬けの野菜もあったはず」


 アベルは縄に巻かれた瓶を見つけたので中を空けてみる。

 人参や蕪を酢に漬けたものだった。

 冬の保存食だが酒のつまみにはちょうどいい。

 ヴァンダルと二人で分けながらひたすら飲み続ける。


 勝ち負けなど関係ないアベルは心理的に余裕だったが、ヴァンダルは必死そのものだ。

 負けるものかと樽を口に付けたまま、ずっと天を仰いでいた。

 アベルは呆れるばかり。


――こいつ、どんだけ勝ちたいんだよ。


 アベルにとってスターシャは戦友というか、友達みたいなものだった。

 ちょっと下品でどうしたわけかそこが非常にそそられるのであるが。

 一度ぐらいお触りだけなら、と思わなくもない。

 いや、頼めばかなりのことまでしてくれそうではある。

 しかし、後が怖い……。


 ヴァンダルの仲間、五人の男たちが羨ましそうにしているので彼らにも酒樽を分けてやった。

 それとなく話を聞いてみると、やはり思った通りヴァンダルを制止するつもりだったようだ。

 やがて注目が集まりだして、偵察隊の戦士たちやカチェなどがやってきた。


「アベル。仕事しないで何してるの!」


 立ったまま黙々と酒を飲むアベルを見て、カチェは困惑している。

 酔ってきたせいか、カチェが真面目な表情で注意してくればくるほど笑えてしまう。

 もう我慢できない。


「ふへへっ……、ひへへへへ……ぶはははっ」

「何が可笑しいのよっ!」

「ふふふ。一つだけ問題があるとすれば、カチェ様が飲んでないってことですねぇ。さぁどうぞ」

「わたくし、立ち飲みなんて下品なことはしませんっ」


 こちらも相当酔っぱらったヴァンダルが絡んできた。


「お~う。アベル。この美しいお嬢さんは何者だ?」

「僕の主人」

「はあ? おめーの主はガイアケロン様だろうがよ!」


 ヴァンダルが空になった樽を投げつけてきた。

 アベルの頭に当たって、ぼこんと音がしたがそれすら可笑しい。


「へへへ。間違えた! あっ、いや……間違いでもないか」

「この野郎、酔っぱらいやがって。もう俺の勝ちだなこれは」

「それでもいいけれど」

「アベル。お前は最近、ちょっと目立ってきたからどんな奴かと思っていた。気性の荒い騎馬戦士を手懐けたしな。スターシャとも仲が良いみたいだ。気になったぜ」

「あいつからは殴られてばっかり」

「スターシャ……人気があるだろう」

「らしいね」

「そうだ、あれほどいい女は滅多にいねえよ。最高の女だ。ああ、間違いない」


 ヴァンダルはスターシャを思い浮かべて夢見ごこち。

 人の女の趣味は分からないとアベルは思う。

 あんな暴力女のどこが……と感じるもののスターシャの引き締まった太腿なんかを思い出す。お嬢様のそれではなくて、筋肉の発達した体。

 何度か頷く。

 たしかにあの惜しげもなく露出された肢体は魅力的だ。

 もしかすると本当は良い女なのかも。

 性格は意地悪だけれど。


「そうかもしれない。そう言われてみればいい女なのかも」


 ふいにアベルの視界が回転した。

 空が見える……。

 カチェがアベルの胸倉を掴んで、足払いをしていた。

 受け身もとれず、背中から固い雪の上にぶつかってしまった。

 胃の中の酒が揺れる。

 もう立ち上がれなかった。

 ヴァンダルが、にやにやといやらしく笑っていた。


「ははぁ。俺の勝ちだな。アベル!」


 ふざけたヴァンダルがアベルを軽く蹴飛ばした瞬間、その厳つい顔にカチェの拳が激突した。

 ぼぐっ、という鈍い音。

 ヴァンダルが木の棒みたいに倒れた。完全に意識を失っている。

 雪を顔につけてもヴァンダルは意識朦朧としているため、彼の仲間たちが橇に乗せて帰っていった。

 帰り際、彼の仲間たちが感謝してくる。


「こいつ良い奴なんだけどスターシャのことになると見境なくなるから……。罰を受けるような事を仕出かすなら止めるつもりだったんだけれどよ。アベル。助かったぜ」


 酔いが醒めつつあるアベルがカチェを見ると、腕を組んでじっと見下ろしている。

 怒っているみたいだった。

 なんてことない。助からなかったのは自分の方……。


「勝者。カチェさま~」

「あら。まだ酔っているの? どうしたら酔っ払いをやめてくれるのかしら」

「……酒は苦痛を楽にする。しかし、解決はしてくれない」

「くだらないこと言わないでちょうだい! 仕事がたくさん残っているでしょう!」

「はい。ごめんなさい」





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 翌日、アベルはカチェとワルトを伴いガイアケロンの元へ参じる。

 朝方、直ぐに出発となる。

 移動速度をなにより重視するため、ほんの百人ほどの人数だけが集められていた。


 ガイアケロンはアベルに、兄リキメルの人格を教えてくれた。

 根は小心、陰謀を好むという。

 本人は認めないが戦闘は苦手で、本来は武人として振舞う人間ではない。

 勇敢さに欠けているため決定的な機会を見逃すという欠点がある。

 経済活動を通じた人脈作りに長けた面があるものの人望はさして得られていない男。

 重臣である大貴族ビカス・カッセーロの影響を受け過ぎている。

 そういう評価だった。


「こんな少人数で会うのは危険じゃないですか」

「のんびりしていられない。昨日の夜、兄から急使が来た。軍団が隠れていた場所を敵に見つけられたのだと。もはや決戦しかないだろうから援軍を依頼したいらしい」

「援軍もなにも、この冬はずっと助けているでしょう。コンラート軍団の外縁部に小隊で奇襲を繰り返しています」

「正式に頼んできたのはこれが最初だ。我に借りを作りたくなかったのだろう」


 兄リキメルも哀れな男だとガイアケロンは感じる。

 ここでこれ以上負ければ、おそらく父王イズファヤートはリキメルを許さない。

 どんな過酷な処罰が待っているか分からないのだった。

 たとえ死罪を免れたとしても、王統からの除籍があるかもしれない。


 王族から排除されるとき、五体満足で済むほど甘くない。

 廃嫡した者が他で子を成さないように、男子ならば男根と陰嚢を切断する習わしだ。

 血の気の退くおぞましい廃嫡の儀式は、すでに実例がある。


 ガイアケロンとリキメルは少年の頃、王宮の広場でそれを見せられた。

 あの絶叫。悲鳴。

 黄金の皿に載せられて、父イズファヤートに検分される千切れた腸詰めのような……。

 儀式を受けた兄は粗末な幽閉先で自殺した。


 兄リキメルは最後の手として、とうとう援軍を頼み込むことにしたのだ。

 ここまで追い詰められ必死ならば、裏切る可能性は低いだろうとガイアケロンは考える。

 しかも、父王直属の軍目付けヒエラルクがシラーズ軍団と共に居る。


 ガイアケロンはヒエラルクの歓心と信頼を得た感触があった。

 それだけの事をした。望み通り軍団まで動かして勝ってみせた。

 何よりも戦闘と勝利を好む奴は、実に満足していたはずだ。

 よって兄リキメルはヒエラルクから不審に思われるような行動もとれないはずだった。


 相変わらず天候は悪い。

 日照時間は僅かで、雪はより硬くなっていく。

 アベルは護衛の中にヴァンダルらの姿を認める。彼は少し恥ずかしそうにして、だが敵意はもう抱いていないのが分かる態度だった。

 任務中なので長々と私語を交わしたりはしないが、慣れれば磊落な戦士だ。


 念のため、先行の偵察隊を数組出して、急ぎつつも警戒を怠らない移動は続く。

 三日間、馬を飛ばしに飛ばしてある森に到着した。

 リキメル軍団はケルク市から徒歩で八日ほどの人里離れた森林地帯に隠れていたのだった。


 ガイアケロンとハーディアは、少数の供だけを連れてリキメルの本陣に赴く。

 天幕に使われた絹布は立派な文様に覆われ、中には移動式の豪勢な家具なども据えられていた。

 警護のための熟練した戦士や魔法使いが数人、隅の方で静かにしている。


 久しぶりに会う兄リキメルは、驚くほど痩せていた。

 以前はふくよかな丸い顔をして、いつも本心を表さないよう微笑んでいた。

 見た目だけなら篤志家のようなリキメル。

 それが頬骨まで浮き出た、骸骨みたいな顔をしている。


「私の弟と妹よ。よく来てくれた……」

「久しゅう。兄上。あまりご健在という風ではありませんかな」

「……健在であるはずないのはお前達なら理解していよう。私の戦力ではどう足掻いても勝てないことがはっきりした」

「我の見立てでは、コンラート軍団は秋まで静かにしているはずでした。痛んだ軍団を立て直すには必ずそれだけの手間がかかる。それがこのような冬の季節に軍を動かすとは驚きです。大胆さか無謀さか」

「冬でなければケルク市はとっくに陥落しておる」

「ここ数年で兄上の軍団は回復できませんでしたか」

「分かっているくせに馬鹿にするな! 私は落ち目の王子。運のない男と噂されているのだ! 将兵も集まらない……!」


 リキメル軍団はポルトの城砦爆発によって中核戦力を半減させてしまった。

 これは結局、回復不能な損失となった。


 リキメルと後援者の大貴族ビカス・カッセーロらが十年近くを費やして育てた人材たちは、いったん失われてしまうと早急に補うことが難しい。

 ましてリキメル王子は鈍才と噂されるようになってしまうと有能な人材は寄ってこないのであった。

 絞り出すようにリキメルが喋る。


「私とて努力したのだ。ここ二年はレインハーグ領を守るために心血注いだ。しかし、五万もの大軍相手に……どうしろと言うのだ! 本国から助けは少なく、ディド・ズマめは傭兵の契約金を吊り上げてきよる。打つ手がない」


 もう私は終わりだ……とリキメルは頭を抱える。

 横に控えていたビカス・カッセーロがお気を確かにと励ましていた。

 大貴族らしく陰湿そうな顔をした男だった。年齢不詳。もともと人相の良くない禿鷲のような男だったが、彼もまた顔色は悪い。

 リキメルの後ろ盾となり、いずれ王道国を裏から操ろうという長年の野心が崩れる寸前だ。


 ガイアケロンの従者として侍っているアベルは、その様子を見て複雑な心境だった。

 ハイワンド領に様々な陰謀工作を行ってきたのは主にリキメル王子の仕業だったという。

 本格的な軍事侵攻の前に打撃を与えるためだったようだ。

 リキメルは卑屈な、怯えた視線をガイアケロンとハーディアに向ける。


「私の弟妹たちよ。お前らは私を捨て駒にするであろうな。皇帝国の軍団がケルク市の攻略と私の最後の反撃で消耗したところを……狙うのであろう。それは良い手だ、十分に勝ち目がある。私の戦力は壊滅するだろうが」

「兄上……」

「私は負け犬として父のもとには帰らぬぞ。そ、それぐらいなら……戦って死んでみせる。例え与えられた領地を守り切れなかった愚か者でも、王族の誇りは守ってみせようぞ」


 ガイアケロンは迷う。

 やはり兄リキメルは助けるに値する男ではないのだろう。冷徹に判断するなら、その結論しかない。

 王族の誇りなどと虚勢を張って……本心では父イズファヤートが恐ろしいだけだ。

 戦いに負けて支配地域を失い、そうして本国に帰れば待っているのは破滅だけ。

 かといって生来、臆病なリキメルにとって最前線で陣頭指揮など限りない恐怖に違いない。

 まさに進むも地獄、戻るも地獄……。


「リキメル兄上。我とハーディアには合わせて三万近い兵力があります。それからシラーズの援軍が約四千。兄上の直率している兵力が一万二千ほどですかな。力を束ねて戦えば皇帝国の軍勢を打ち破ることもできましょう。ご安心ください。このガイアケロンが一番前で戦います」

「わ、私を助けると言うのか」

「我ら兄弟ではありませんか。ただし、その代わり、軍事行動に関しては我に指揮権を委ねてはもらえませんか」


 それは出来過ぎた要求であると言いかけたビカスを、ガイアケロンが厳しく制する。

 人を麻痺させる、言い知れない気迫が声に漲っていた。


「我は兄と話をしに来たのだ。お前と決めることなど、なにもない」

「しかし」

「王族同士の会話に家臣が口を挟むな……。それとも力ずくで黙らせるか」


 ガイアケロンから底冷えするような気配が漂う。本当にやりそうだった。

 目の前の歴戦の王子は、たとえば腕だけで人を捻り潰すことも、簡単にできるのだった。

 ビカスが沈黙する。まるで百年ほどミイラであったように固まった。


 リキメルは忙しなく計算する。

 軍事的な裁量権という生死を分ける権利を渡すのは怖い。

 だが得もある。

 権利と責任は表裏一体。

 もしコンラート軍団に負けたとしても、その時は責任をガイアケロンに被せることができる。

 

 だいたいこの俺はガイという弟が大嫌いなのだ。子供の頃は小便漏らしの愚図であったのに初陣以来は生まれ変わったように戦士となった。

 こいつの暴勇の真似などしていたら命が幾つあっても足りないのだ。

 どうする。この弟に頭を下げて助けを乞うのか……。

 

 何が正しくて何か間違いなのか……、脂汗を流しながら考える。 

 見透かしたようにガイアケロンが語りかけてきた。


「戦いにおいて絶対はありません。人事尽くして天が味方しないのなら、素直に父王様に詫びましょう。軍事に関して起こった不備は全てこの我が背負います」


 涼やかなガイアケロンの瞳を見ている内にリキメルは、もう考えるのが無駄に思えた。

 ビカスに視線を転じれば、彼は小さく首を横に振り拒否を促す。


 右か左か迷うばかりで結論が出ない。出せない。

 いずれにせよ位置を特定されてしまった。数日後には数万の軍団が攻めてくるかもしれない。大軍の動き難い森林の中でなら持久戦ができるかもしれない。しかし、森でどう戦うべきなのかも判然としないではないか。分からない……分からない……。

 もう、この弟に任せてみよう。

 全て責任をとってくれるというのだ……。


「弟よ……。全て任せる。私はお前の命に従う」


 ハーディアは視線を足元に落とした。

 やはり兄様は優しすぎると思う。血族とはいえ、そこまで寛容になるような相手ではなかった。


 忘れてならないのはテオ皇子との密約である。

 コンラート皇子と戦う機会があれば、その打破に全力を尽くすと約束した。

 最良の戦略はリキメル自身が認めるように、最も危険な攻撃を彼の軍団に任せ、自分たちはケルク市を攻撃している部隊の弱点を狙う。

 包囲戦力を失えばコンラート軍団は撤退せざるを得ない。

 その時こそ最大の機会だ。


 あるいは、もしコンラート皇子が退かずに決戦を望んできたのなら、受けて立とう。

 まさに運命の戦いになるはずだった。

 会談が終わり、王子たちの軍団を集結させる場も決定された。

 長居は無用なので早くも馬脚を取って返す。


 夜、久しぶりに雲が晴れていた。

 漆黒の空に明るい月が浮いている。アベルは風景に目を憩う。

 いつ何が起こるか分からないと思い直す。


 星月夜が更けるなか、アベルがハーディアの休む天幕の護衛をしていると、中から呼ぶ声がある。

 入るとハーディアが手招きして近くに寄れと言う。芳しい香水が鼻腔をくすぐった。

 ハーディアは冑や鎧を外していた。

 豪奢な金髪が零れるように豊かな胸元へ流れている。

 途惑うほどの色香に思わずたじろいでしまった。


「なんですか、ハーディア様」

「わたしは落ち着かない心持ちです」

「シャーレの安眠薬はどうですか」

「よく効くのですが、今は飲みたくない気分です」

「話し相手ならカチェ様の方が……」

「あの子は休憩中なのを知っています。起こしたくありません。それともアベル、私の相手は嫌ですか」

「そんなことはないですけど」


 ハーディアはアベルが真の協力者であるのを理解していた。

 これほど有能な者はいつまでも兄のために働いてもらわないとならない。

 しかし、人は変化するものだ。保険が欲しい。身と心を縛る鎖がいる。

 

 褒美も与えずに喜んで使われてくれる者など皆無である。

 ところがアベルは金品に関心が無かった。

 それでは女性ではどうかと、侍女を送り込もうとしてもカチェがいるし本人は断る始末である。

 こうなると、よほどのものでないと受け取らないはずだった。

 それはいったいどんなものだろうか。そういう想像を巡らすのが嫌いではなかった。


「私は兄様だけが心配なのです。ガイ兄様が無事でしたら、どんなことでもしましょう」

「ガイアケロン様の望み。叶います。いや、叶えてみせる。必ず」


 そう嘯くハーディアの前にいる青年には、異様な凄味があった。

 陰り深い群青色の瞳の奥、得体の知れない魅力を感じる。

 勘はとても危険な人間であると告げていた。


 たとえばアベルを完全に手中にするため自ら積極的に誘惑してみる……というのはどうかとハーディアは考えてみる。

 先に好きだと言ってしまった方が負けなのだ。

 好きだと言わせてこその駆け引きである。

 しかし、一つ引っ掛かる。カチェが気になった。


「ねぇ。カチェって怖いかしら」

「えっ。当たり前ですよ! 本当に……もういったい何度恐ろしい目にあって来たか」


 ハーディアは、やっぱりこれは止めておこうと思い、笑う。

 最前線にあって休まることのない気分がだいぶ和らいだ。

 アベルを下がらせて横になると、気持ちよく眠気が訪れてきた。








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